閑話:アヒルは白鳥にはなれない① side××
子供の頃から世話をすることが好きだった。飼育小屋の兎や、教室の水槽の魚。小学校の生活の授業の一環で釣り上げたザリガニを家で飼育していたこともある。
弟が買って貰ったままやがて飽きて放っておいたカブトムシは、立派に大きく育って亡くなった。
だから────だから彼女のことも、大切にしなければと思っていた。
鈍臭いからいつだって貧乏くじを引いて。悩んで、傷付いて。だけど、誰よりも人に気を遣う、とても優しいあたしの親友。
あたしが守ってあげなきゃって思ってた。傷付かないように、傷付いても傷がいつまでも残らないように。
あたしが、あたしが、あたしが────
なのに────…………なのにどうして、彼女の中の一番は、あたしではないのだろう。
「凛ちゃん!」
教室の引き戸を開けると、あたしの姿を視界に捉え開口一番にあたしの名前を口にした彼女に微かに頬が緩むのを感じる。
いつも通りの髪型に、一部が跳ねた前髪。あたしを見つけてきらりと一瞬光る大きな目。
「────志倉、おはよう」
一番最初にあたしの名前を呼んだ志倉に、どうしようもなく心が満たされていく。いくら「彼女」のことが好きでも、やっぱり彼女の中の一番はあたしなのだ、なんて根拠のない自信と甘い優越感が顔を出す。
志倉はにこにこと笑いながらこちらへと向かってくると、「おはよー」とふにゃりと笑った。その表情に、ほっと肩の力が抜けていく感覚があった。
「今日は暑いねぇ」「ね。真夏って感じ」
何てことない世間話を交わしながら、自分の机へと教科書を入れていく。国語に数学、英語に歴史。その途中でふと視線を感じ顔をあげれば、どこか言いづらそうな表情をした志倉と目が合う。
「…………なに、どうしたの?」「……えー……っと、ね」
ふと視線を下へずらせば、志倉はスカートをぎゅっと握りしめて俯いていた。握りしめられたスカートを見て、緊張しているときの癖なのだ、と以前言っていたことを思い出す。
「…………なぁに、怒らないから言ってごらん」
そう言うと、志倉は意を決したように顔をあげてあたしと視線を合わせる。かちり、と噛み合った視線に、今度はあたしの方がたじろいでしまう。
「今日────今日ね、荻野さんからお昼に誘われてて。でも、あっ今日 沢瀉さん委員会の用事でお昼居ないらしくて。で、あの、その────」
話ながらしどろもどろになる志倉を見て、どう言えばあたしを傷つけなくて済むのか、必死に考えていることが伝わってくる。
「つまり、今日 沢瀉さんが委員会の用事でお昼にいなくて、志倉は荻野さんからお昼を一緒に食べないかって誘われたってこと?」
話をまとめて返せば、志倉は何とも気まずげに頷く。
「でも、凛ちゃん前に荻野さんのこと苦手だって言ってたし、お昼は楽しく食べた方が良いし。でも、折角誘ってくれたし────」
その表情に、ゆっくりと黒い感情が沸き上がってくるのを感じる。粘ついた黒い感情が、意地の悪い言葉を作り上げる。
「────それ、もしあたしが嫌だって言ったらどうするの」
つまらない独占欲が顔を出して、勝手に言葉を志倉へと投げつける。まるで志倉の中の「優先」を確かめるように。
志倉は少し驚いた表情をしてから、まるで当たり前のように「断るよ」と返す。
「…………いいの?」「うん。だって、いつも凛ちゃんと一緒に食べてたし、もともと凛ちゃんと一緒って荻野さんにも話をしてたし」
────凛ちゃんを優先するよ
その言葉に、表情に、思わず自分の表情がゆるむのを感じる。優先。大好きな「彼女」よりも、あたしのことを優先してくれる。
あたしはゆるむ表情を隠すように、優しく志倉の頭を撫でる。柔らかな髪に指が通って心地良い。
本当は────本当はそんなこと、絶対に嫌に決まってる。一年前の四月に出逢ったときからあたしの隣はずっと志倉で、志倉の隣はずっとあたしで。崩されることの無かった関係が、他人に変えられてしまうのはとても怖いものだ。
────沢瀉さんが用事でお昼に居ないから、志倉を誘ったってこと?
そう考えるととても嫌な話に聞こえてくるが、多分────いや絶対に、他意はないのだろう。
そう言う人だと思っているし、心のどこかでそう思いたい自分がいる。
あたしは志倉の頭を撫でることを止め、そっと志倉の制服の裾を掴む。志倉、と呼べば、志倉は驚いたように、けれどまたあの柔らかな表情でゆるりと笑った。
「どうしたの、凛ちゃん」
何も変わらないあたしを呼ぶ志倉の声に、心が満たされていくのを感じていた。優しくて、柔らかくて、けれどどこか苦しいその声は、心臓をきつく縛り付けて離してはくれない。
志倉は優しくて、泣き虫で、鈍臭くて。あたしは志倉をいつも優先して生きてきた。志倉にはあたししかいないって、あたしが志倉の傍にずっといてあげなくちゃ、って。
「んーん…………なんでもない」
────だけど、志倉は本当は一人でも大丈夫だとあたしは知っている。知っていて離れて欲しくなくて、そうしていつも志倉を「鈍臭い」なんて枠に無理矢理押し込めてしまうのだ。
「…………あれ、志倉は?」
お昼休み、教室でお弁当箱を開いていると志倉の隣の席の男子生徒が話し掛けてきた。直接話したことは無いけれど、以前志倉が話しやすいと言っていたような気がする。
「今日は荻野さんとお昼食べてるよ」
そう答えると、「なんで」と返される。なんで、と言うのはどうして一緒じゃないのか、と言うことだろう。
そう言えば、彼は去年も同じクラスにいたような気がする。三学期の最後の席替えで志倉の隣の席になったと志倉が言っていた。
「────志倉、荻野さんと仲良くなって。一緒にお昼食べようって誘われたみたいだから」
誘って貰えたけど、あたしはあまり話さないし、と答えれば、「ふーん」と言うと、プリントをあたしに渡してくる。
「これ、担任に志倉に渡しとけって言われたから。クラス委員のプリント。悪いけど、志倉が戻ってきたら渡してやってくれる?」
俺が渡すよりも早そうだから、と言う言葉に、うん、と答えると、ごめんな、と彼はプリント渡す。
じゃあ、と背を向けた彼にひらひらと手を振って手元にあるプリントに視線を落とす。議題は体育祭について。
────……っと、勝手に人のプリントを読むのは良くないよね
そう思い直すと、あたしはプリントを空のクリアファイルに入れて机の中にしまう。意識しなければ紙が入っていることもわからないくらい軽いクリアファイルにそっとため息をついた。
猫の絵柄がプリントされたお弁当箱を開いて、パックのお茶にストローを刺す。お弁当の中身は、美味しいはずなのにどうしてか味がしなかった。
きっと今頃、志倉は荻野さんとお昼を食べていて。あのきらきらした瞳を彼女にだけ向けているんだろう。そんな事、いつものことなのに。それなのにどうして、こんなにも気になるんだろう。
どうしてこんなにも────叫びだしそうなほど、苦しいんだろう。
お弁当を黙々と口へ運び咀嚼する。生ぬるいそれを呑み込む作業を延々と繰り返すうちに、お弁当の中身はあっという間に空になる。
ごちそうさまでした、と小さく手を合わせる。志倉がいつもしているから、いつの間にか移ってしまったのだ。
歯磨きの為に、次の授業の用意をしてから席を立つ。「私もー」なんて声が聞こえないな、なんて当たり前の事をぼんやりと思った。
志倉はいつも、あたしの名前を一番に呼ぶ。去年の四月に出逢ってから今まで、それが変わることは一度も無い。
あたしにとって、志倉が一番に名前を呼ぶことは誇りだった。どれだけ彼女のことが好きでも、どれだけ憧れていても、志倉は最後は必ずあたしの所に来て、あたしの名前を一番に呼んでくれる。あたしを必要としてくれる。
その関係はあたしにとって酷く心地よくて。「凛ちゃん」なんて甘いあの呼び声が、あたしの脳を埋め尽くすあの心地よい関係のままで居たいのだ。
だから────だから、志倉が彼女をあたしが苦手みたいだと言ったことも、本当は間違ってない。間違っていなくて、それでもそれを知られて嫌われたくはなくて、物わかりの良い「凛ちゃん」のままで居るだけだ。
本当は彼女と志倉が友達になることが嫌で嫌で仕方がない。彼女によって志倉の世界が広がって、そうしてやがてあたしがいなくても大丈夫だと志倉が理解してしまう日が来ることが怖くて堪らないのだ。
この気持ちはなんて名前なのだろう。酷く苦しくて、どうしようもなく悲しい。本当は志倉の視界も耳も全部塞いで、あたしのことだけを考えていて欲しい。あたしが一番だって、あたしの傍が良いってそう言って欲しい。あたしの中ではずっと志倉が一番で、それはずっと揺らぐことは無いのだから。
歯磨きを終えて教室の引き戸を引くと、志倉の姿が視界に映る。志倉、と声を掛けようとすれば、志倉の嬉しそうに微笑む表情に視界が奪われる。
あたしと居るときに、志倉は絶対にあんな表情はしない。あんな風に笑わない。あんな風に、まるで宝物を見ているような嬉しそうな優しい表情はしない。
その表情をさせたであろう人物を思い浮かべるだけで、まるで内臓がせり上がってくるかのような圧迫感に襲われる。苦しくて気持ち悪くて、どうしようもなく虚しい。
志倉が誰と仲良くなろうとあたしにはそれは関係ない、はずだ。志倉の世界は志倉で決めるもので、あたしにはそれを干渉する権利はない。そんな事、頭の中では理解しているのに。
小さく息を吸って、志倉、と声を掛ける。志倉は驚いた表情をしてから、あたしの姿を視界に捉えると「凛ちゃん」とあの柔らかな微笑みを返した。
「荻野さんとのお昼は、どうだった?」
嗚呼、こんなこと本当は聞きたくないのに。それなのに、口は勝手に言葉を紡いでいく。
志倉はその言葉に、きらりと目を光らせると────勢い込んで言った。
「すっごく楽しかった!趣味の話とか色々出来て、定期テスト前に一緒に勉強もしようって誘って貰えて」
────楽しみだなぁ
その言葉に、表情にまるで頭から冷水を掛けられたように急速に体が冷えていく。
嗚呼、あたしは何か思い違いをしていたんだろうか。志倉の中であたしが一番だなんて。そんなつまらない、滑稽な思い違いを。
にこにこと笑う志倉に「よかったね」なんて声を掛ける。それでも、同時に酷く意地悪な感情が顔を出す。
────そんなの、絶対に気紛れだよ
あたしは頭の中で、昔大好きだった絵本を思い浮かべる。本当はとても美しかった、醜い醜いアヒルの子。生きることに疲れきって、それでも最後は美しい自分の姿に気付いた子。
何度も何度も、擦りきれるくらいに大切に読んだ大好きだった物語。大切に大切に、まるで宝物みたいに思っていた物語。
────ねぇ、志倉。それでもやっぱり、アヒルの子はアヒルで、白鳥の子は白鳥なんだよ
白鳥はアヒルにはなれないし、アヒルもまた白鳥にはなれない。どんなに憧れたって、志倉は荻野さんにとっての沢瀉さんにはなれないんだよ。
無くなっちゃえば良いのに、なんて志倉に聞こえないように呟く。全部全部無くなってしまえば、また元通り、志倉はあたしと一緒に居てくれる。あたしが一番だって、そう言って笑ってくれる。あたしが、あたしが、あたしが────
────あたしが、志倉の一番だったのに
浮かんできたつまらない考えに、心の中で小さく舌打ちをして志倉の話に耳を傾ける。
────嗚呼、醜いアヒルは、最後に自分が美しい白鳥だったことに気付いたな、なんて頭の中でぼんやりと思い出す。馬鹿にされ、笑われ、嫌われて、最後に辿り着いた自分の居場所がそんな綺麗な存在だったのだと知ったなら。アヒルにとってそれは、何よりも幸福なことだったのかもしれない。
だけど────だけど、もしもそうだったのなら、醜いアヒルに救われていた存在はどうなる?醜いアヒルの世界が広がってしまえば、アヒルが本当は自分が美しい存在だと気付いてしまえば、白鳥になってしまったアヒルはきっと、自分よりも小さなアヒルになんて目を向けてくれないだろう。
あたしは相変わらず楽しげに「荻野さん」の話をする志倉に目を留めながら、最低な願いを小さく呟く。
────嗚呼、願わくばどうか、荻野さんが志倉の大切さに気付きませんように。
荻野さんが志倉の大切さに気付かなければ、きっといつか志倉も荻野さんを諦める日が来るかもしれない。そうすれば、きっといつか志倉はあたしを見てくれるだろう。
志倉はどうするだろう。優しくて繊細な子だから、きっと悲しむかもしれない。誰だって、努力したのに選ばれないのは悲しいだろう。
────嗚呼、でも。どうかこの「感情」が、あたしの中でずっと息づいてくれますように。
この痛みが、苦しみが、どうかずっと消えないでいてくれたのならば。それはきっと、あたしにとって何よりの幸福なんだろう。
あたしは未だ荻野さんの話を続ける志倉の頬をするりと撫でる。どうしたの?なんて、笑う志倉に微笑み返して、
「────志倉。髪型、お揃いにしない?」
「お揃い?」と戸惑ったように返す志倉に、「そう」と返して耳の辺りをするりと撫でる。
「ここの髪、三つ編みにしてさ。目立たないし、校則にも引っ掛からないよ」
ね、どう?と尋ねたあたしに、戸惑ったような表情のまま志倉が頷く。
「良かった、じゃあ────」
と、言いかけた言葉を遮るように授業開始五分前のチャイムが鳴る。タイミングの悪い自分に内心舌打ちをしたい気持ちを堪えながら、「じゃあ、また後でね」と志倉に手を振って席につく。
志倉は戸惑った様に頷き、手を振り返す。あたしは彼女のその様子を見て、再び満たされた様な感情で目の前の黒板に視線を移した。まもなく、教師が入って来て授業が始まる。
カツカツと小気味良い黒板の音を聞き流しながら板書をとってゆく。席が離れているから、あたしの席から志倉の姿は見えない。
志倉が笑う度に、感情はゆるゆると満たされていく。優しくしたいのに、時折どうしようもなく傷付けたくなる。あたしが一番だって、そう言わせたくなる。どうしようもなく、あたしに依存させたくなる。
きっと、これはもう「友人関係」じゃない。傷付けられれば酷く苦しいのに、傷付くその姿に救われているなんて。
────楽しかった、なんて言わないでよ。志倉
あたしと過ごす時間よりも、優しい顔をして笑わないで欲しい。「彼女」に向けるその表情が、堪らなく苦しくて、悔しい。志倉。志倉、志倉、志倉志倉志倉志倉志倉────
────志倉、あたしは一体、どうすれば良いの?
授業中盤に出題された問題演習の数字を見つめながら、あたしはゆっくりと出口を失っていったのを感じていた。