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私の名前は、side志倉

 

「志倉さんの下のお名前は、何て言うの?」


 綺麗な声でそんな言葉を紡ぐものだから。無意識に持っていた紙パックのジュースに力を入れてしまう。

 ぐしゃ、と紙パックが潰れ、ぼたぼたとジュースが溢れる。慌てたような彼女の声がどこか遠くで聴こえているような感覚がした。

 とは言え私がその時に感じていたことは、彼女が「お名前」と言ったことに対する動揺なのだけれど。



 彼女────夏琳ちゃんと、クラスメイト以上友人未満の関係になってから二週間が過ぎた。彼女は相変わらず優しくて、そして、相変わらず視線の先に「彼女」を捉えたままだった。


 ────今日、放課後予定無い?


 あの日、厚かましくもそんな事を尋ねた私に、「大丈夫よ」と彼女は微笑んだ。彼女と共に夕暮れに溶けていく感覚は、新鮮で、強烈で────愛しくて、苦しかった。

 次の日の朝、真っ先に「夏琳ちゃんと一緒に帰った」と凛ちゃんに報告すれば、なぜだか少しだけ不機嫌そうに、けれど「良かったね」と言ってもらうことができた。



 ────夏琳ちゃんの好きなものって、なに?



 二週間以上経った私達の関係は、彼女の提案によりこうして放課後に公園のベンチで時折お話しする間柄に進展した。とは言え、未だに友人と言うにはぎこちなく、クラスメイトよりは(いささ)か親密な関係ではあるのだけれど。

 夏琳ちゃんは、唐突に投げられた私の問いに「えぇ?」と一瞬目を丸くしてから、すぐににっこりと微笑んで


「そうねぇ、食べ物なら蜜柑が好きね。本なら童話とか絵本が好き。夏夜はミステリーの方が好きみたいだけど」


 当たり前のように付け加えられた「彼女」の情報に砂を噛むような気持ちがこみ上げる。それでも、何とかそれを呑み込み「そうなんだ」と返そうとすると、「ごめんなさい」と彼女から謝罪の言葉が飛び出す。


「貴女といるのに、夏夜のことを話しても面白くないわね。ごめんなさい」


 次から気を付ける、と返した彼女の姿がどこか幼い子供のように見えて、可愛いなぁなんて思ってしまう。そして、そんな自分に戸惑いを抱えている。

 私が抱えていたのは、彼女に対する「憧れ」ではなかったのか。少なくとも今までは、「綺麗」と感じることはあっても「可愛い」なんて感じることは無かったのに。


「…………ううん、そんなこと」


 私は、浮かんできた身に覚えのある感情を誤魔化すようにストローに口をつける。いつもなら特に気にしないがどこか気恥ずかしくて、ぢゅっ、と言う音が出てからすぐにストローを口から離した。

 ふと彼女を見ると、どこか遠くを見つめるような顔をして、ぼんやりと空を眺めていた。私は、間抜けな顔をしてぼんやりと彼女を見つめた。



「────かりん、ちゃん」



 不意に、彼女の名前が口をついて出る。無意識に飛び出した言葉に焦れば、彼女はどこか心ここにあらずと言った様子で私の方を振り返る。

 嗚呼、この不透明で、どこか宙に浮くような不思議な関係はなんて名前だろうか。ただのクラスメイトと言うには少しだけ親密で、けれど、完全に友達だと言い切ってしまうには私と彼女はあまりにぎこちない。

 だから私は、今日も彼女を名前で呼ぶ。不確かなこの関係性に、ほんの少しの親密さを混ぜて。

 彼女はすぐに表情を元に戻して「なぁに?」と答える。ふと思い出したように「そう言えば、」と呟く。


「そう言えば、私は名前で呼んで貰っているのに志倉さんのことは名前で呼んでいないわね」


 ()()()()()()()何の気なしに呟いたであろう言葉に、思わずごくりと喉を鳴らす。自分のその様子に、まるで飢えた獣みたいだなんて自嘲してしまう。

 もしかしたら、と期待する。もしかしたら少しでも、彼女の世界に入り込むことができたのではないかと錯覚するくらいには、彼女のその言葉はあまりにも甘すぎるのだ。


「志倉さんの下のお名前は、何て言うの?」


 ────しまった、と感じた。「お名前」と言うなんて予想してはいなかった。

 私は無意識に、持っていた紙パックに力を入れる。ぐしゃ、と音をたてて潰れた紙パックは、ぼたぼたと溢れて制服に染みを作る。

 慌てる目の前の彼女とは対照的に、私の顔には急速に熱が集まる。脳の奥が痺れるほど甘くて、苦しい。

 優しい彼女は、あろうことか私の制服をハンカチで拭いてくれる。そんな彼女の姿を見れば、邪な考えを持っていることが本当に申し訳なく思う。


「…………っ、だ、大丈夫。これくらい、」


 ────いつもジュースかかってるから


 彼女との距離の近さに慌てて、思わずとんでもないことを口走ってしまう。いつもジュースかかってるって何だ。これでは変な人だ。

 目の前の彼女は、そうなの、なんて特別気にしなさそうに相槌を打つ。その優しさに、再び心臓が早鐘を打つ。そんな場合では無いと言うのに。


「ジュースが染みになったら大変だから、その、公園の水道かトイレで落とした方が良いかもしれないわ」


 トイレは薄暗いから、出来れば公園の水道が良いかと思うけれど、と遠慮がちに付け加えて。


「そ、そうだね。じゃあ あの、待たせたら悪いし────」


「大丈夫、待ってるわ」


 彼女は後に続く言葉を引き継いで笑う。そんなに気を使わないで、なんて続けて。


「早く落とすね」「大丈夫よ」


 くすくすと笑う彼女を見て、早く落とさなければと水道に向かう。キュ、と言う微かに錆び付いた蛇口の音を聞きながら、生ぬるい水をハンカチに含ませて少しずつ落としていく。

 じわりと水が染み込み、スカートはいつもよりも濃い黒へと変色していく。じわりと水が広がっていく様子をぼんやりと見ていた。

 ふと視線を彼女の方へとずらせば、彼女はぼんやりとどこか遠くを見ていた。風が横一列に整えられた彼女の前髪を乱していく。

 どうしようもなく綺麗だと思った。息を呑んでしまうほどに綺麗で、優しくて────そして、ほんの少し悲しかった。

 ある程度落とし終わったところで、キュ、と蛇口を捻って水を止める。微かに水を含んだハンカチを固く絞れば、ハンカチはぽたりと三滴水を溢し、私は固く絞ったハンカチのシワを伸ばして畳む。

 彼女の方へと戻ろうと振り返れば、彼女は未だぼんやりとどこか遠くを見つめていた。澄んだ黒目がちな目が何を捉えているのかはわからない。

 私は小さく深呼吸をしてから、彼女へ声をかける。かりんちゃん、とかあの、とかそんな言葉だったかもしれない。

 彼女は(きょ)をつかれたように、びくりと肩を震わせる。そして微かに────私が気付かないように────深呼吸してから、にこりと笑った。


「ジュースは落とせた?」


 まるで先程のことなんて無かったかのように振る舞う様子に、触れられたく無かったのだと思い至る。

 彼女は優しい。真面目で、公正で、公平だ。けれど────それとは対照的に、排他的でもある。

 先程のこともそうだ。例えば────非常に不愉快だけれども────「彼女」が声をかけたのならば、彼女は一瞬でこちらを向いただろう。あの蕩けるような表情で柔らかく口角を上げて、ゆっくりと優しい声で「××」と彼女の名前を呼ぶ。それに、多分先程も────


「────…………夏琳、ちゃん」


 不意に口にした言葉に、彼女はにこりと微笑んで「なぁに?」と返す。

 大切な名前なのに、呼べば呼ぶほどに苦しくなるのはどうしてだろうか。


「…………夏琳、ちゃん」「……?ええ」


 どうしたの、なんて笑う彼女を見て、どろりとした黒い感情が顔を出す。嫉妬や羨望なんて、もうとうに通り越してしまったような、黒くて粘ついた感情。行き場もなく必死にしがみつく浅ましい感情だ。

 私の名前を、その声で呼んでほしい。その澄んだ目に一番最初に見つめられたい。その隣に、なんの見返りもなく居られる権利が欲しい。先程のように、突然「お名前」なんて言って、その大人びた雰囲気を私の前でも崩して欲しい。(あの)()にだけ渡すみたいに、私にも私にしか見せない表情が欲しい。


 ────…………夏琳ちゃんが、欲しい


 逃がしたくないから逃げないで欲しい。友人未満の、こんな宙に浮いた関係ならばいつまで経っても彼女の視界には入れない。

 クラスメイト以上、友人未満のこの関係なんてきっと新学期になれば消えてしまう。力を入れれば千切れてしまいそうな、そんな関係なんて、最初から望んでいない。

 私の中ではとっくに特別になっているのだから。あなたの中の「特別」の欠片だけでも私に譲って欲しい。


 ────認識されていないのに、彼女の世界に入り込もうとするのは、とても傲慢だよ


 凛ちゃんの言葉を、頭の中で反芻(はんすう)する。嗚呼、凛ちゃんはとっても優しい。あの日、私に沢山のヒントをくれたのだから。

 ()()()()()()()()()()私は彼女の世界へと入ることが出来た。

 私は、するりと彼女の両手をとって目線を合わせるために座る。彼女は相変わらず、にこにこと笑って私の言葉を待つ。


「…………夏琳ちゃん」「なぁに?どうしたの」




「────私の名前を、呼んでくれる?」




 その優しい声で、表情で、私の名前を呼んで欲しい。私の名前を知りたいって言って欲しい。

 貴女の名前を呼びたい。貴女に名前を呼ばれたい。貴女の中の「私」の存在を、確立させたい。


「…………?志倉さん?」


 戸惑ったような彼女の声に、ゆっくりと表情が綻んでいくのを感じる。

 嗚呼、こんな儀式、もう友人関係じゃない。それならば、私と彼女はきっと、もともと友人にはなれないのだ。

 私は彼女の髪を耳にかける。彼女は戸惑ったように、けれども耳を触れられたせいか、くすぐったそうに微かに身を捩った。

 私はそっと、彼女の耳に耳打ちをする。大切な秘密を打ち明けるように。聞いてしまったらもう、戻ることが出来ないように。



「────私の名前は、あかね。志倉、茜」



 彼女はゆっくりと、呑み込むように私の名前を復唱する。


「────しくら、あかね」


「そう。しくら あかね。よろしくね、…………(おぎ)() ()(りん)ちゃん」


 するりと両手を軽く撫でれば、彼女は戸惑ったように、けれどもどこか嬉しそうににゆっくりと頷く。


「貴女と友達になれて、嬉しい」


 まっすぐで優しいその言葉は、心臓がぎゅっと握られたように苦しくて、痛い。

 ────貴女が好きだよ、と心の中で何度も呟く。貴女が好きで、好きで、好きで、好きで、好きで────



 ────貴女が憎らしいほど、好きで、好きで、好きで、好きだよ



 私はそっと微笑んで、彼女の手をきつく握る。離さないように、離れないように。



「私も────()()()()()()()()()。夏琳ちゃん」



 もっと、もっと、貴女の中が「私」で埋め尽くされてしまえば良い。埋め尽くされて、息も出来なくなって、それでも最後に頼るのが私なら、それはどれ程幸せなことなのだろう。

 何も知らない彼女は「こちらこそ」なんて言って、その柔らかい笑みをますます深める。



 ────私の名前は、志倉茜。あの日、彼女を染めた夕焼けと同じ名前。



「私達、良いお友達になれるかしら」



 彼女がのんびりと呟いた言葉に、思わず苦笑してしまう。()()()()()が良いお友達なら、()()()()()()()()()()()()



「そうだね────きっと、なれるんじゃないかな」



 私は貴女を傷付けることはしないから。ただただ、貴女を大切にして、貴女の隣にいるための権利を「彼女」から奪い取る好機を狙うだけだ。

その為なら、何年かけたって構わない。何年も時間をかけて、貴女がいつか「彼女」よりも私を選ぶように仕掛けるだけだ。



「────大切にするね?」



 小さく呟いた言葉は誰にも聞こえることなく、公園の砂利に吸い込まれて消えていった。

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