どうか始まりを終わらせないでいて side???
────恋愛なんて、どこか他人事のような気がしていた。愛し愛されることも、溢れ出しそうで、もういっそのこと告げてしまいたいと思うほどの苦しさも、身を焦がすような熱も。
そのどれもが自分にとって不必要で────恋愛に身を焦がすなんて馬鹿馬鹿しいとさえ感じていた。
────けれど、
新学期。桜の薄い香り。誰かが開けていた窓から、桜の花弁が風に舞って入り込んでくる。
私は頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を見つめていた。一年生の一学期。見知らぬ人ばかりの教室は、入学直後特有の、独特の緊張感に埋め尽くされていた。
不意にがたんと椅子が引かれた音がして、急速に意識を教室へと引き戻す。気が付けば、クラス委員決めはとっくに終わってしまったみたいだ。
私は、先程適当に投票した女の子の姿を思い浮かべる。荻原さんだったか、萩山さんだったか、覚えてはいなかったのだけれど。
早く帰りたい、と言う気持ちを噛み砕きながら、ゆるゆると教壇の前に視線を移す。そして、目の前のクラス委員を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
────クラス委員の荻野です。一年間、宜しくお願いします
そう言って穏やかな仕草で彼女が頭を下げる。私は、まるで閃光が走ったように体の奥がびりびりと震えて。優しげなその表情に目を奪われた。
────なんて、なんて綺麗な人なんだろう、と。
挨拶を終えた彼女が、疲れたように視線を動かす。そして、幸か不幸か動かした視線の先には、間抜けに口を開けた私が座っていた。
余程その顔が面白かったのか、彼女が一瞬、呆けたように私を見つめて、くすりと笑みを溢す。その後彼女は、はっと口元を押さえ、ばつが悪そうに視線を動かした。私を不愉快な気持ちにさせたのかもしれないと感じていたみたいだ。
私は、どこか息苦しくなるような、それでいて心臓が騒がしく跳ねるような感情を持て余しながら、彼女の整った横顔を見つめる。
────…………その日以降、私と彼女が視線を交わらせることは無かったのだけれど。
「おーい。あんた、またそんなに荻野さんの事見つめて。戻ってこーい」
目の前でひらひらと手を振られ、ようやく彼女から意識を戻す。声のした方向をぼんやりと見れば、目の前に座る友人は、呆れたようにため息をついた。
「あんた、すっごい顔して荻野さんの方見てたよ」「えっ」
その言葉に、思わず手で顔を覆えば、「嘘だよ」と返される。その声は、どこか面白がっているようだった。
「あんた、まだ荻野さんのこと見てるの?飽きないねぇ」
そんなに眺めてて何処か良いのか、なんて呆れたように言う声に、「うるさいなぁ」と言葉を返す。
「いいの、百人が百人、荻野さんの魅力を知っていたらつまらないでしょ?」「今まで恋愛に興味もなかったあんたが、あげくの果てに目で追いかけてるのが優等生の女の子なんて……」
そこまで言うと、友人はうっ、と声をつまらせる。どうせ嘘泣きだ、と白けた気持ちで見つめれば、瞬間、「ま、いいや。あたしに関係ないし」とけろりとした表情で呟いた。明け透けで飾らないその態度は、いつも心から言葉を話させてくれる。
「お昼食べよう。机半分貸して」
そう言いながら、彼女は教室の隅の、予備の椅子を引く為に席を離れる。私は慌てて、机の上を占領している四限目の教科書とノートとペンケースを机の中にしまった。
ふと横目で荻野さんの方を見れば、彼女は友人である沢瀉さんと昼食を持って教室を出る。それをぼんやりと見つめていると、こつん、と微かな音がし、「また荻野さん?」と呆れたように尋ねる友人の声がぼんやりと聞こえた。意識を荻野さんへと向けたままうん、と返せば、友人は再び呆れたようにため息を吐く。
「志倉、とりあえずお昼食べようよ。あと、人の言葉に空返事しない方が良いよ」
失礼だから、と言った友人の言葉にはっと意識を戻し、「ごめん」と謝れば、「や、いいけど」と答え、かたりと席をひいて座る。
「荻野さんねぇ……あの子凄く良い子だよね。本当に「優等生」って感じ」
私はなんか苦手だなぁ、と呟いて、ウィンナーをフォークで刺して口に運ぶ。なんとも言えずに視線を左右に動かすと、「あ、違うからね」と、彼女から突然否定の言葉が入る。
「別に嫌味とか、悪口とかじゃないよ。ただ単純に苦手なだけ。いっつもにこにこしてて、なに考えてるかわかんないし」
そこまで言ってから、友人は小声で「あー……」と小さく声をあげて、「ごめん」と謝る。
「ごめん、この話はもうおしまい。それより、五限目はクラス委員決めだよね。志倉、まだ委員会何にも入ってなかったでしょ?」
友人の言葉に、「あっ」と小さく声をあげれば、友人は「鈍臭いなぁ」と呆れたようにお茶のペットボトルに口をつける。
どうしよう、と視線を左右にさ迷わせれば、友人は「チャンスじゃない?」と呟く。
「どうせ今年もクラス委員、荻野さんにされそうだし。ちょうど良いから立候補でもして、仕事を聞いて仲良くなれば?」
友人はそう言って、卵焼きを口に運び、咀嚼する。そんなものかなぁ、と思いながら、私はぼんやりとお茶を飲めば、友人は「大丈夫だよ」と笑う。
「大丈夫だよ。どうしようもなくなったら、絶対に助けてあげるから」
その言葉に、「凛ちゃん、好き」と返せば、「間に合ってます」と呆れたように笑われる。
「ひどーい」と冗談めかしておにぎりを頬張れば、「どっちが」と返される。その意味を問えば、彼女は曖昧に笑って誤魔化した。
その後も、とりとめのない話を交わしている間に、昼休み終了を告げるチャイムの音が鳴る。その音を聞いて、「じゃあ戻るね」と声を掛ける。「うん」と答えたのを聞き、帰ろうと腰を浮かせた途端、
「…………………………志倉」
軽く袖口を引かれ、私は重力に逆らえずに、浮かせていた腰を再び椅子へと引き戻される。
突然の行動に驚いて彼女を見れば、何故か彼女の方が、私よりも酷く驚いた顔をしていた。
どうしたの、と声を掛ければ、彼女自身もその行動の意味を理解できなかったのか、「わからない」と答える。
「………………ごめん、わからない。…………引き止めてごめんね。昼休みもう終わるから、その、」
引き止めた手前言い出し辛かったのか、彼女はしどろもどろになりながら、何とか言葉を絞り出そうと目を左右にさ迷わせる。
その様子にくすりと笑みをもらし、「うん、わかった」と答えれば、彼女は何処か安堵した表情で、小さく声を吐いた。
私は、自分の席へ戻ろうと椅子を抱えた途端、がらりと教室の引き戸が開く。
「…………夏琳、一人でこんな量のプリント運ぼうとするなんて無茶だよ。何でボクに頼ろうとしないの」
聞き慣れた、けれども聞きたくない声が、勝手に耳の中へ入り込んで鼓膜を震わせる。
聞きたくない、と頭が声を閉め出そうと拒否をする。けれども、私の耳は勝手に、その声が紡ぐ言葉を広い集めようとする。
「…………大体、去年クラス委員だったからって、今年も頼むのはおかしいよ。忙しいのはみんな平等なのに」
憤慨する彼女の声に、くすくすと笑う声が続く。「彼女」の声だ、と理解した途端、鼓膜は私の意思と反するように、悲しいくらいにその声を拾おうとした。
「良いの。夏夜が手伝ってくれて、凄く助かったから。ありがとう」
「ボクが手伝うのなんて当たり前でしょ、友達なんだから」
聞きたくない、のに。声は勝手に外耳道を通って、鼓膜を震わせる。
こんな感情はおかしい。だって、「彼女」もあの子も、何も悪くない。何も間違ってない。なのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。どうしてこんなにも、「×××」なんて、「××××、」なんて、そんな感情を抱えなくてはいけないのだろう。
椅子を持つ自分の手が震えているのがわかった。行き場のないこのどろりとした感情を、どこかへ放出してしまいたかった。
けれども、苦しいのと同じくらい、誰も悪くないのもわかっていた。わかっている。誰も悪くないことくらい、私が一番。
────けれど、誰も悪くない、から、何処へもいけないのかもしれない。
「………………志倉」
ふと、隣に座る凛の声が聞こえた。深呼吸をしてから、彼女へと笑顔で向き直れば、即座に「駄目だよ」と声を掛けられる。
「駄目だよ、志倉。自分勝手に気持ちを押し付けることは、与えることじゃないよ。認識されていないのに、彼女の世界に入り込もうとするのは、とても傲慢だよ」
その言葉に、かっとなって口を開く。けれども、寸前で思い留まって俯けば、「ごめんね」と声を掛けられる。
「…………ごめん、そうじゃなくて。そう言うことが言いたかったんじゃなくて、その、」
後悔するように、視線を左右にさ迷わせる友人に、「大丈夫だよ」と声を掛けた。
「…………大丈夫だよ、大丈夫。そう、だよね。凛ちゃんの言うとおりだよ」
私は深く呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせる。落ち着けば、次にするべきことは必ず見えてくるのだ。
「凛ちゃん、私、やっぱり立候補してみる。それで、もっと今よりも、荻野さんと仲良くなってみる」
まずはそこからだよね、と彼女を見れば、彼女は何故か複雑そうに視線を下に向けた。
「…………志倉が、そうだと思うなら。そうしたら良いんじゃないかな」
そして、彼女の方も、深呼吸してから顔をあげて微笑む。
「…………大丈夫。どうしようもなくなったら、絶対助けてあげるから」
凛ちゃんの決まり文句だね、と冗談めかして言えば、そうだよ、と予想外に頷かれる。
「そうだよ。明日も、「優しい凛ちゃん」でいるためのおまじない」
凛ちゃんはそう言って笑うと、「ほら、席戻りなよ」と私の身体を優しく押す。と、同時に、カラカラと教室の引き戸が開いて、先生が戻って来る。
「頑張ってね」
応援してるから、と彼女は微笑んで、ひらひらと手を振る。その優しい表情に背中を押されるようにして、私も席に着いた。
ちらり、と横目で荻野さんの方を見れば、彼女はにこにこと微笑んでこちらを見ていた。
その表情に、思わずごくりと唾液を飲み込む。同時に、もしかしたら自分のことを認識してくれているのかもしれない、だなんて、そんな浅はかな考えも一緒に飲み込んだ。
何故なら────…………私の斜め後ろの席には、「彼女」が座っているからだ。
私は下唇を微かに噛んで俯き、途方もない感情の捨て場所を心の中で必死に探した。
────頑張ってね
優しい友人の言葉を反芻し、こくりと微かに息を呑んで、小さく息を吐いた。隣の男子生徒が怪訝そうにこちらを見る視線など知ったことではない。
────頑張らないと。昨日よりも今日、彼女へと一歩近付くために
私はふと顔をあげて、黒板に書かれた文字を見つめる。
目の前の教師が「じゃあ学級委員に立候補する奴────」と教室内を見回した瞬間、私が手を挙げるよりも先に、その声は飛んで来た。
「荻野さんが良いと思います」
その声は、クラス内に響いて。私は思わず、挙げかけていた手をそっと下ろす。
その声は、所謂クラス内の目立つ中心のグループから発された言葉だった。思わず荻野さんを見れば、彼女は何処か驚いた顔をしていた。
ふと、無意識に視線を「彼女」────…………沢瀉さんにスライドすれば、彼女は不愉快そうに、その整った顔を歪めた。
その表情に、そう言えば、と思い至る。先程荻野さんを推薦したグループは、去年は荻野さんも所属していなかっただろうか。
彼女が沢瀉さんと一緒に行動するようになった頃、丁度彼女達との関わりを完全に絶ってしまっていたから、あまり印象には残っていなかったけれど。
何のつもりなのかな、と彼女達を盗み見れば、くすくすと笑う声が彼女達から聞こえる。その様子に、嫌がらせだ、と思う。
不愉快そうに顔を歪める沢瀉さんとは対照的に、表情が変わらない荻野さんが、何故だか酷く冷たく感じた。
先生は、「そうだなぁ」と呟いて、「荻野、どうだ」と声を掛ける。
声を掛けられた荻野さんは、困ったように眉を下げる。そう言えば、彼女は去年も、断る事を苦手にしていたように思う。
早く立候補しなきゃ、と、口を開きかけた瞬間、
「────…………荻野さんは去年もクラス委員をしていました。去年もしていたからと言って、彼女の意思を無視して今年も彼女に頼むのはおかしいと思います」
真っ直ぐなその物言いに、間抜けに開けかけた口を閉じ、思わず声がした方を見れば────沢瀉さんが物言いと同じく、真っ直ぐに先生を見詰めていた。
その後に、「もちろん、彼女が今年もやりたければ良いですが」と付け加え、ちらりと彼女の方を見る。
思わず彼女────荻野さんの方を見れば、荻野さんは驚いた顔をしてから、沢瀉さんに微かに微笑んで、頷く。
「────お断りします」
はっきりと言葉を吐いた彼女に、内心、とても驚いた感情を呑み込む。
彼女はいつだって優しくて────そんな風に、「自分自身」を出す姿を、あまり見なかったから。
その後、沢瀉さんを見れば、彼女は荻野さんの方を見て、優しく微笑んだ。
その態度に、入り込めない二人の関係性を見せ付けられたような気がして。思わずそっと目をそらし、俯く。
じゃあ平等にじゃんけんだな、なんて呟いた先生の言葉に、余計なことしてんなよ、と呟く声が何処かから聞こえる。
けれども沢瀉さんは、何処吹く風と言った表情で、静かに先生の進行を待つ。その姿は、真っ直ぐで、そして、誰よりも眩しかった。
先生が、クラス委員未経験者のリストを取り出して、教室の後方でじゃんけんをするように指示する。その中には、沢瀉さんの名前もあった。
じゃんけん、ぽんと、一人が声を出す。それに合わせるようにして、全員がそれぞれ思い思いの指の形を作る。
全員の手がハサミの形を作る中で、私は自分自身の手の形を見る。開かれた手は、私の手だけ。
────見事な、ストレート負けだった
「志倉さんが負けでーす」と誰かが先生に大声で伝える。と、ほとんど同時に、教室から「ぶふっ」と吹き出す声が聞こえた。見なくても、その声の主が凛ちゃんだとわかる。
先生は「早いなー」なんて呟いて、黒板にかつかつと私の名前を書く。志倉、と書かれたその文字を、何とも言えない心持ちで見つめた。
「志倉、悪いな。今年一年よろしくな」
先生の言葉に、ふるふると首を振って、はい、と答える。悪くなんてない。だって、ずっとやりたかったのだ。彼女の見た世界を、私も見てみたかったのだ。
「じゃあ────荻野、悪いけど志倉に仕事を教えてやってくれ。志倉はこの時間が終わったら書類を取りに来てくれ。大まかな流れは先生が教えるけど、わからなくなったら先生に聞きにくければ、荻野に教えて貰ってくれ」
荻野、と名前が呼ばれた瞬間、心臓がどくどくと音をたてる。早くなる感情を誤魔化すように、こくりと息を呑み込んだ。
はい、と答えた凛とした声が聞こえた。その声が聞こえた瞬間、心臓さえも酸欠のように、ぎゅうっと縮小する。
「じゃあ次は────」
先生が次の委員会の立候補者を集う中、そっと彼女を見れば、彼女は嬉しそうに微かに微笑んでいて。その笑みが、誰によってもたらされたものなのか、想像するだけで、息が詰まってしまいそうだった。
────仕事を聞いて、仲良くなれば?
そんな凛ちゃんの声を思い出して、小さく息を吸い込んで、吐き出す。よし、と呟けば、「気合い入ってんな」と隣の席の男の子に声を掛けられる。
もちろん、と返して、真っ直ぐに黒板を見る。これはきっと、チャンスで。これを逃してしまえば、もう二度と、彼女の視界へと入ることはないかもしれないと思っていた。
だから────意外だったのだ。
「あの、私と、友達になってくれないかな」
あの言葉に、彼女が頷いてくれるなんて。あまつさえ、私を認識していてくれたなんて。
あまりにも意外で────そして、それは予想していたよりもずっと、甘くて、心地好くて。
どさくさに紛れてそう言ったのは、少しでも可能性がある方へと掛けたからで。ずるい聞き方をしたのは、彼女は断らないだろうと、頭の何処かで浅ましい計算をしていたからだ。
彼女は、少しだけ驚いた顔をして、その後、ふっと微笑む。
「夏夜みたい」
その言葉に、心臓の奥の、柔らかな部分がひやりとする。違う、と反射的に言葉が口をついて出た。
「違うよ。荻野さんのことが、もっと知りたいの」
その言葉に、ありったけの「私」を詰め込んで、彼女へと宛てて送る。はた迷惑な、何処にもいけない「贈り物」を押し付けるようにして。
────けれど、
「あなたとなら楽しそう」
吐き出されたその言葉に、下唇を軽く噛んだ。そうでもしていなければ、息が苦しくて堪らなかったから。
「………………あの子みたいね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟けば、彼女は聞こえなかったのか、申し訳なさそうに聞き返される。その問いに、「なんでもない」と答えれば、ほっとしたように表情を緩めた。
嗚呼、苦しくなる。悲しくて、寂しくて、それでも何処か甘いような、変な感覚だ。
「嬉しい」
心にも無い言葉を、会話を繋げるために吐き出す。やっとの思いで掴んだ彼女との会話を、逃したくはなかった。
それはまるで毒のように、彼女の笑みが、彼女の視線が、声が、自分自身に向けられていることが心地好くて。じわりじわりと心を蝕んで、やがて彼女しか目に入らなくなるんだろう。
嗚呼、どうか。この甘い痛みが、熱が。どうかこれからも、私の心を蝕み続けますように。
私はするりと彼女の手を取る。彼女は戸惑ったように、私の手を握り返す。
「………………これから仲良くしてね?…………「夏琳ちゃん」」
そう言って彼女の方を見れば、彼女は「もちろん」と柔らかく微笑む。無防備だなぁ、なんて心の中で呟いて、握ったままの彼女の手を、気付かれないように軽く撫でた。
頭の中で、ふと凛ちゃんのあの言葉が再生される。
────認識されていないのに、彼女の世界に入り込もうとするのは、とても傲慢だよ
その言葉に、思わずかっとなってしまったけれど。あれはきっと、凛ちゃんなりのアドバイスだったのかもしれない。
裏を返せば────認識された瞬間から、私は彼女の世界へ入り込む権利を得たのだから。
────これは、好機だ。彼女の視界に、世界に、存在するための好機。
私は、頭の奥で「彼女」の姿を思い浮かべる。色素の薄い髪。無表情な、整った顔。その中のどれも、自分自身との共通点なんて、ありはしないのだけれど。
私はふと、「彼女」へ対する、あの「×××」と言う気持ちの名前を思い出す。あの、呑み込まれてしまいそうな、黒い気持ちの名は────
「────嫉妬」
私はそっと息を吐いて、彼女へと微笑む。べたつくようなこの黒い感情を、心の何処かに仕舞い込むように。
何も知らない彼女は、へらりと気の抜けるようなあの優しい微笑みで、私へと笑い掛ける。
────恋愛なんて、どこか他人事のような気がしていた。愛し愛されることも、溢れ出しそうで、もういっそのこと告げてしまいたいと思うほどの苦しさも、身を焦がすような熱も。
そのどれもが自分にとって不必要で────恋愛に身を焦がすなんて馬鹿馬鹿しいとさえ感じていた。
────だけど、
こんなにも、息が苦しくなる感情が、こんなにも、黒い感情が「恋」と言うのなら。
それは酷く────自分にとって必要なものに思えてしまうんだ。
たった一度、自覚しただけで酷く尊い感情に思えてしまうのだから、現金だなぁなんて心の中で呟いて、笑ってしまう。
私は、繋がれたままの私と彼女の手を見て、少しだけ笑った。
嗚呼、良いや。とりあえずは、この関係を現状維持のままで。
狡くても、浅ましくても、彼女の視界へと入ることは出来たのだから。今度こそ、タイミングを見逃さないように。
────好きだよ。好き。貴女が好きで、好きで、好きで、好きで、
伝えられない、行き場のない感情を逃すように、心の中で何度も言葉を吐き出す。
────好きだよ、なんて、そんなこと。簡単には言えやしないけれど
「…………夏琳ちゃんの好きなものが知りたいなぁ。…………今日、放課後予定無い?」
貴女の「特別」の座を狙うことくらいは、誰にだって可能でしょ?
大丈夫よ、なんて笑う彼女に、「少しだけお話ししない?」なんて、声を掛ける。
頷く彼女にほっとして、小さく息を吐く。
────まずは、友人から。一歩ずつ、確実に。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろう」と声を掛ければ、「もちろん」と返される。
二人で教室を出て、廊下を歩く。リノリウムの床が、きゅっと音を鳴らした。
また少しだけ沈んだ夕日が、私と彼女の影をまた傾ける。傾いた影は、少しだけ重なって、一つの影の塊を作った。
────恋愛なんて、どこか他人事のような気がしていた。愛し愛されることも、溢れ出しそうで、もういっそのこと告げてしまいたいと思うほどの苦しさも、身を焦がすような熱も。
そのどれもが自分にとって不必要で────恋愛に身を焦がすなんて馬鹿馬鹿しいとさえ感じていた。
────けれど、
こんなに身を焦がすような熱が、呼吸も出来なくなるような苦しさが、恋だと言うのなら。どうか、始まりを終わらせないでいて、なんて願うのは、少し現金だろうか。
私は、隣で歩く彼女をそっと見る。綺麗で優しくて、何も知らない彼女を。
「────…………逃がさないからね?」
小さく呟いた声は、彼女に届くこと無く、夕焼けの中に溶けては消えていく。
今はそれで良い、なんて思いながら、私は彼女と夕焼けに染まった帰り道を歩いていく。
────僅かな期待と熱を、静かに抱えて。