表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/9

離さないで、離れないでいて side織歌


「あの日、夏琳は本当は、あたしに会いに来ていたの」


淡々と告げる彼女の瞳は、泣いているのか、それとも怒っているのか判断できない。

ボクは────情けないことに、口をぽかんと開けたまま、彼女の整った顔を見つめていた。

織歌は、まるでその日を思い出すかのように、ゆっくりと目を閉じてぽつりと語り出す。


「ねぇ、夏夜。貴女には、どうか覚えていて欲しいの」



────あたしと彼女が、貴女をおかしくなりそうなくらい、大切だってことを



 

  ────ねぇ、織歌。ボクは、織歌の事が大好きだよ


 炎天下の、夏の蒸し暑い公園。蝉は七日間の命を生きようと叫び、小さな子供はそれを捕まえる。

 八日目には消えてしまうと解っているのに。それでも、その抗いがたい儚さと、物悲しさに子供わたしたちは手を伸ばしてしまう。


 貴女は、そんな七日目の蝉のような人。


  彼女は、夏の匂いがする部屋でそっとあたしを抱き締めている。その背中は、悲しくなるほどに震えていた。

  何か、彼女にとってとても悲しいことがあって、逃避のためにあたしを抱き締めているようだった。


 ────………………ごめんね。ごめんね、織歌


 焦がれさせて、傷つけて。それでも貴女は(ずる)いから。あたしがいつでも逃げ出せるように、逃げ道を作って、逃げられた言い訳を探してる。

 だから、あたしはそっと、彼女おねえちゃんの首筋にキスをする。

  息も出来ないほどに貴女に溺れさせて。浮かび上がれないほどに絡め取られて。

  置いていかれるのはいつもあたしだから。こんな子供のような意地悪が、たまにはあっても良いだろう。



「あたしも貴女が大好きよ、「お姉ちゃん」」



────だから、逃げてなんてあげないわ



お姉ちゃんに聞こえないくらいの声で呟いて、そっと首筋を軽く口付ける。

 このキスの意味は、まだ「お姉ちゃん」には教えてあげない。



  ────ジークジーク…………



 騒がしい蝉の声に眉をひそめながら、ゆっくりと目を開ける。同時に、痛いくらいの青が目を突き刺す。

 畳の上に置かれた自分の身体が汗ばんでいる事に気付き、改めて暑さを再確認する。絡み付くような熱い不快感に、舌打ちをしたい気分になる。


「…………嫌な夢」


 憎らしいほどに愛しい昔の記憶に顔をしかめる。いっそのこと彼女に惜しみ無く愛しいと伝えてしまいたいような、そんな気持ちが頭の中でぐるぐるとまわる。


 ───ねえ、織歌。ボクは、織歌の事が大好きだよ


 ───君が望むなら、いくらでも


  頭の中で、あの日の彼女の言葉が何度も何度も繰り返される。どこまでも優しくて、ほんの少し痛みを伴った声だった。

  ふと身体の上を見れば、青よりも薄い色味をしたタオルケットがかけられていた。暑かったのはこのせいか、なんて思いつつも、彼女────夏夜の気遣いが嬉しくて、そっとタオルケットを抱き締める。


  青になりきれないその色が、どうしようもないくらい彼女に良く似ていた。


  ……そう言えば、ガンガンにかけていたはずの冷房は、いつの間にか少し弱められている。きっと身体が冷えていたのだろう。だから彼女はタオルケットをかけたのか。

 

「…………優しいんだね、「お姉ちゃん」は」


  彼女への些細な当て付けと、いつまでたっても大人になれない自分への鬱憤が、 皮肉げにその言葉を呟かせた。

  互いに気持ちを伝えてからも、特にあたし達の関係に変化も無く、流れるような日常に互いに身を任せた。彼女は夏期講習と友人付きあいに勤しみ、あたしは可愛らしい「普通の」妹でいられるように、そんな彼女をただ見守った。

  比例するように、以前のようなスキンシップはあたし達の間には無くなった。時折、連日の夏期講習に疲れた彼女が、後ろから何も言わず肩に乗せる頭を、そっと撫でる以外は。

  けれど、それも仕方がないのだ。彼女には彼女の人生があって、あたしにはあたしの人生がある。

  それを互いに縛ることは出来ないし、彼女と対等の立場に立つ為に、「妹」という立場を利用したくは無かった。

  あたしは、冷房を消してからタオルケットを畳み、カラカラと窓を開ける。絡み付くような夏の風に、心も絡め取られてしまいそうになった。


  ────あたしは、心の何処かでいつも焦りを感じている


  彼女はあたしよりもずっとずっと早く生まれている。そして、あたしよりもずっとずっと早く大人になるだろう。

  今はまだ、互いに好きだと言い合えればそれで良い。でも、彼女が大学生になったら?社会人になったら?結婚する年齢になったら?彼女はいつまでも、あたしの手をひいてくれる訳じゃない。

  あたしがひとつ大人になる度に、彼女も比例して大人になる。いつまでも、「かわいい妹」の手を引いてはいられない。そうして、いつかきっと、そのまま別れる日が来るのかもしれない。

  そう考えるだけで、酷く憂鬱になった。

  身体は、きっといつか彼女に追い付くだろう。背も高くなるし、声も多少は変わる。彼女のように髪を短くすれば、また少し彼女に追い付くことが出来るだろう。

 でも、そんなのは所詮見た目でしかない。あたしよりも早く生まれた彼女には、絶対に追い付けそうにない。

  血は水よりも濃い、なんて嘘だと呟く。離れていかれたときに彼女を繋ぎ止める術を、あたしは何一つ持っていないんだから。

  何よりも、あたしと彼女は姉妹だ。同性以前の問題で、許されることではない。


「…………「好きだ」って思っていた頃は、こんなことなんて考えなかったのに」


  自分勝手に想うことと、相手の立場を考えて想うことは違う。

  いつか見た夢を思い出す。彼女は、白いウェディングドレスを着て、幸せそうに歩いている。あたしは、それを指をくわえてただじっと見ていた。

  彼女に言えば、そんな夢は嘘だと笑われた。織歌を置いていくなんて、ありえないと。ボクはウェディングドレスよりもジャージの方が好きだなぁ、なんて笑う彼女を見て、酷く安堵したことを覚えている。

  そうだと思ったし、また、そうであって欲しかった。優しくて甘いこの夢を、まだ見続けていたかった。

  けれど、それはまるで焼き付いたように、なかなか頭から離れてはくれない。寝ても醒めても、彼女と見知らぬ「男」の姿がしばらく離れなかった。

  何よりも悔しいと思ったのは、彼女とその「男」の姿が、まるであつらえたようにぴったりと「幸せな家族像」に収まっていたことだ。

  彼女は、いつか、あたしの傍から居なくなってしまう。そして、彼女を幸せにしてあげられるのも、本当はあたしではない。

  その夢のことを考える度に、酷く憂鬱になった。

 

  そして────憂鬱の原因は、もうひとつあった。


  彼女の友人────つまり、名前に彼女と同じ一字を持つアイツ────が、彼女に告白をしたそうだ。

  彼女と気持ちを確かめ合った日の翌日、彼女の友人は彼女を夕暮れの教室に呼び出して、気持ちを伝えたらしい。

  ずっと、ずっと好きだった、と。それ以上の関係の変化も望まずに、真っ直ぐに彼女を見つめて。

  もちろん断ったけれど、なんて優しく笑う彼女の表情に、柄にもなく安心してしまったのは。きっと、心の何処かで感じている焦りが顔に出てしまったんだろう。

 

  ────ピンポーン


  突然、思考を破るかのようにインターホンの音が頭の中に響いた。夏夜だろうか、と思いながら、そっとモニターを見れば、見慣れた彼女の高校の制服が視界に入り、思わずはてと首をかしげる。彼女なら鍵を持って学校へ行ったはずだが。

  ほんの少しの違和感と、甘い期待が顔を出す。時刻は夏期講習開始30分前の、8時30分を指していた。


「はい。どうしたの、駄犬。鍵、持ってなかっ────」


  言いかけた言葉が、ドアを開けた瞬間に打ち消える。苦々しい思いが、胸の中に充満して吐き気がする。



「おはよう、織歌ちゃん」



  そこには、二度と会いたくない「アイツ」が、心なしか困ったように立っていた。


「…………何の用ですか?」


  彼女の姿を見ると、つい、刺々しい口調になってしまうのは。きっと、姉────夏夜に、気持ちを伝えたと聞いていたからだろう。

  そうでなくとも、彼女とは会いたくはないけれど。

 

「そんなに怒らないでちょうだい」


  もう、私は夏夜の隣にはいられないんだから、とどこか寂しそうに彼女が笑う。

  そんな顔は、ずるいと思った。夏夜にもそんな顔で接しているのなら、彼女は罪悪感を感じずにはいられないだろうから。

  夏琳は、何処か痛みを伴った目であたしを見ていた。息をすることも苦しくなるような、そんな感情を抱かせる。

  あたしは、ドアノブをぎゅっと握りしめる。血が繋がらなくても、同い年と言うだけで、夏夜の傍に()られる彼女が羨ましくて、憎かった。


「…………ずるいのね、あんた」


  そんな顔をしたら、夏夜は気にするに決まってる。自分に出来ることならなんでもする、だなんて言い出しそうだ。

  彼女はいつもそうだ。人を綺麗なものだと信じすぎている。


  ────だから、あたしと夏琳(こいつ)みたいなのに好かれちゃったんだわ


  誰よりも綺麗で、優しくて、それでいて一番狡いあたしの「姉」。そんな不安定な存在に焦がれるのは、同じように狡いあたしのような人間か、彼女のような夢見がちな「女の子」だけだ。

  彼女────夏琳は、心なしか困ったように笑う。そうして、ゆっくりと口を開いて、言葉を押し出す。


「ずるくもなるわよ。私は、夏夜に救われたんだから」


  夏琳は、ぽつりと呟く。泣くことを我慢する、子供のような声で。


「………………救われた?」


「ええ」


  夏琳は、ゆっくりと笑う。あたしは、彼女の鞄を持って、部屋の中へ戻る。


「…………どうぞ、あがったら」


  夏琳は、少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと唇をほころばせる。


「…………じゃあ、そうさせてもらうわね。お邪魔します」


「お邪魔ならいつもしてるじゃない。適当に座って」


  嫌みを含んで答えれば、彼女はふふっ、と笑う。

  いつもと違う彼女の様子に少し戸惑いながら、二人分のガラスのコップに氷を入れ、麦茶を注ぐ。


「お構い無く」「そう言うわけにもいかないでしょ」


  彼女にそう答えて、コップを差し出す。やっぱり、彼女はいつもとは少し違う。

  あたしが最初にコップに口をつけると、彼女もコップに口をつけた。妙に律儀なその姿が、「誰か」に似ていて思わず苦笑する。


「…………で、一体何の用なの?夏夜ならいないけど」


「知ってるわ。今日は、織歌ちゃんに話があって」


  夏期講習、サボっちゃったと彼女は呟く。そこまで大事なら夏期講習の無い日に話せば良いだろうに、と白けた気持ちで麦茶を口に含んで、ごくりと飲み込む。


「夏夜に告白した件なら話は聞いてるわ」


「…………そ、なら話は早いわね」


  彼女は、再び麦茶に口をつける。そして、小さく息を吐いて言葉を押し出した。


「フラれちゃった。「ボクは君を、「恋人」としては愛せない」って」


  カラン、と、コップの中の氷が音を立てる。その事に、ぼんやりとしていた事に気付き、慌てて意識を戻す。

  彼女は、目元を隠すように俯く。麦茶に、頬を伝った涙がぽたり、と入る。

  あたしは、動揺を飲み込むように、こくりと口に含んでいた生温い麦茶を飲み込んでから、立ち上がって彼女にティッシュを差し出す。


  ────…………彼女は、そこまで言ってしまったのか


  あの優しい姉がそこまではっきりと拒絶をしたことに、動揺と嬉しさが混じる。

  ありがとう、と彼女が笑うのを見て拍子抜けしてしまう。この間までの威嚇していた人は、一体誰だったのか。


「夏夜も織歌ちゃんも、優しいのね。ありがとう」


 そう言って笑った彼女に、思わず自分の姿を重ねた。彼女に拒まれたら、あたしもこんな感じになるのだろう、なんてぼんやりと考える。


「…………お姉ちゃんは優しいけど、あたしは優しくないわ。その時にしたいことをするだけ」


 少し考えてからそう答えれば、彼女はゆっくりと左右に首を振って微かに笑った。


「そんなところも似てる」


 何だか調子が狂ってしまいそうな、しおらしい態度に言葉が詰まる。

 聞けば、彼女と夏夜は高校入学時に席が前後だったことから仲良くなったらしい。優しくて、温かくて、でもどこか孤独な夏夜から目が離せなかった、なんて彼女は笑う。


「…………好きだったのよ、夏夜の優しくて、真っ直ぐなところが。伝えなければ、彼女とこの先もずっと一緒にいられると思ってた。恋人にはなれなくても、一番近い友人になれるんだって、勝手に想像してた」


 馬鹿みたいでしょ、と彼女は自嘲する。


「息も出来なくなるほど、好きで、好きで。ずっと傍にいるために、「良い親友」で居続けた。小さな我儘も、夏夜ならなんだって許せた」


 夏夜は我儘なんて言わなかったけどね、と、夏琳は笑う。目元が、痛々しいほど赤くなっていた。

 彼女は、人を溺れさせる。その優しさとアンバランスな冷淡さに戸惑い、深く理解しようとすればするほど溺れていくのだ。そうして、あたしも彼女も抜け出せなくなってしまった。


「………………夏夜が、好き」


 囁くように、夏琳が呟く。自分に言い聞かせているのか、それともあたしに言っているのかはわからないけれど。

 彼女────夏夜は、優しく見えて、その実誰よりも残酷だ。誰も彼もを平等に扱うその姿は、本当は誰にも興味なんて無いんじゃないかと思う時がある。

 

「………………お姉ちゃんは、ひどい人なの」


 夏琳の赤い目元を見つめながら、思わず言葉が飛び出す。一度飛び出してしまえば、言葉は留まることを知らない。


「あたしの気持ちだって、本当は何年も前から気付いてた。気付いた上で、あたしの気持ちに見ないフリをして、蓋をしようとした。

 耳障りのいい言葉ばかりを並べて、本当はあたしに束縛されるのを待ってた。そうやって、あたしを自分に繋ぎ止めようとしてた」


 頭の中で、「ごめんね」と呟きながら、あたしの事を抱き締めた彼女を思い出す。紫陽花が雨粒に濡れた、梅雨だった。

 夏琳は、黙ってあたしの言葉の次を待つ。言葉は相変わらず吐き出され続ける。


「焦るのよ。あたしは、お姉ちゃんと違って年下で、お姉ちゃんと同じ時間を生きてきたわけじゃないわ。ずっと傍に居られるだなんて約束もない」


 あたしは、夏琳の瞳を見つめる。すると夏琳は、まるで同じ痛みを請け負ったみたいに、表情を歪めた。

 

 嗚呼、今日は本当に、どうかしている。


 彼女にこんな言葉を投げつけるなんて。敵に塩を送るような真似はしたくなかったのに。

 本当は、不安で不安で仕方がない。彼女に置いていかれてしまうのではないか、彼女がいつか誰かに奪われてしまうのではないか、いつもほんの少しの劣等感と共に焦りを感じている。


 ────どこか遠くで、蝉が鳴いていた。


 夏琳とあたしは、互いに見つめあったまま、その場から動けずにいた。

 それは、「()」なんかとは違う、けれども、どこか熱っぽさを持った、不思議な時間が流れていた。

 嗚呼、本当に、いがみ合っていたあの時期が、もう遠くへ行ってしまったみたいだと、頭の中でぼんやりと考える。彼女は目を逸らさずに、穴が開きそうなほどあたしを見つめていた。

 

「…………()()()()()恋じゃない」


 夏琳は、ほんの少し寂しそうに、けれど、確かな自信を持った顔で笑う。

 ────()()()()()。その言葉に、思わずカッとして、言い返そうと口を開く。

 

「あんたね────…………」


 しかし、夏琳の、痛みを堪えるような表情に、思わず言葉が詰まる。



 ────夏琳は、あの日のあたしと同じ目をしていた

 


 泣き出すのを必死で我慢する子供のような表情に、あたしの知らない「夏琳」が見えた気がした。

 恋じゃない、と、夏琳はもう一度呟く。こんなに苦しい気持ちが、恋なんかであるはずがないと。それは、あたしに言っているようで、まるで自分自身へと語りかけているかのようだった。


 ────夏琳と織歌は、きっと気が合うと思うんだ。仲良くしてくれたら嬉しいなぁ


 彼女────夏夜が以前、能天気に呟いた言葉を頭の中で反芻(はんすう)する。あの時は、「とんでもない」と、拒否したけれど。

 あたしは、にっこりと笑って彼女をみる。互いにままごとのような牽制をし続けた、愛しい日々へ宛てて。



「…………()()()()()恋じゃないわ」



 恋なんて、そんな優しい言葉では言い表せないほどの苦しさを、彼女もあたしも知ってしまったから。

 夏琳は驚いたように目を見開いて、瞬間顔をゆっくりと綻ばせる。


「…………良かった」


 こんなにも苦しい気持ちが、()()()()()()本当に良かった、と笑う。少しだけ、泣いているみたいだった。

 ヴーンという、冷蔵庫の稼働する音が静かになった室内に響く。あたしと彼女は相変わらず向かい合ったまま、静かにその生活音に耳を澄ませていた。

 

「…………ねぇ、織歌ちゃん」「…………何よ」


 頼りない声にぶっきらぼうに答えれば、夏琳は泣き出しそうな顔で笑った。



「………………もしも、私が男の人だったら、少しだけ何か変わったかな」



 その言葉に、心臓が掴まれたような息苦しさを感じる。同じ事を毎日考え続けていたから。

 付き合っていくなら、世間からみれば男性の方が確実に良いだろう。

 あたしと彼女の関係を他人が知れば、余計な詮索をする人もいるだろう。あたしだけじゃなくて、彼女の事を色眼鏡で見る人も出てくるかもしれない。そうして、そうなったときに、あたしは彼女を本当の意味で守ってはあげられない。

 あたしと彼女は、普通にはなれない。その事が、泣き出しそうなほど、悔しかった。

 夏琳は、もしかしたら否定の言葉を求めていたのかもしれない。そんなことはないと、ずっと好きでいいと、言って貰えることを望んでいたのかもしれない。

 

 それでも、あたしは────……そんなことない、とは言えなかった。どうしても。


 あたしと彼女は、再び沈黙に包まれる。いつの間にか、彼女に出した麦茶は、空っぽになっていた。

 新しい麦茶を注ごうと立ち上がれば、彼女は手を差し出してあたしの行動を制止する。


「…………そろそろお(いとま)するわ。夏夜が帰ってくるから」


 そう言われて時計をみれば、時計は12時35分を指していた。そんなに長い間話し込んでしまったのかと驚く。

 夏琳は、心なしか憑き物が落ちたような顔をしていた。きっと、彼女ではない他人に話すことで、自分自身の気持ちに整理をつけられたんだろう。

 玄関を出て、途中まで彼女と共に他愛もない話をしながら歩く。

 夏休みの宿題のこと、夏夜の夏期講習のこと、そして、これからも夏夜が好きだということ。

 あたしは、ただ黙って夏琳の話を聞いていた。夏琳も、特に返事は求めていなかったように思う。

 蝉は相変わらず、騒がしく泣き喚いていた。


「もう、ここまでで大丈夫よ。ありがとう」


 交差点に差し掛かる手前で夏琳が笑う。彼女の表情は、いつも通りの表情だった。

 聞きたいことが、沢山あった。彼女に気持ちを伝えた時は、怖くなかったのか、とか。どうしてそこまで、彼女をずっと好きでいられたのかとか。……彼女と、本当はどうなりたかったのかとか。

 それでも、それを聞いてしまえば、全てが変わってしまいそうな気もしていた。あたしは、彼女が気持ちを伝えたときの()()()も何処かで恐れていたのだ。

 人の気持ちは、絶対に変わらない訳じゃない。あたしは、彼女────夏夜を、失いたくない。

 ────だから、あたしと彼女はただ黙って、蒸し暑い夏の中に立ち尽くしていた。

 蝉が、まるで狡いあたしを嘲笑うかのように、騒がしく鳴き喚いていた。

 

「ねぇ」


 交差点を半分ほど歩く彼女を呼び止める。すると、彼女は足を止めてこちらを振り返る。少し驚いているみたいだった。

 彼女がゆっくりとこちらへ歩いてくる。信号は、そんな彼女を急かすように点滅を始めた。駄目だ、もう間に合わない。

 信号が完全に赤になったと同時に、彼女はこちらへ到着する。最後に急いだのか、ほんの少し息を切らせて。


「どうしたの、織歌ちゃん?」


 ────…………どうしたの、織歌?


 彼女の姿が、幼い頃の姉に重なる。行かないで、と駄々をこねたあたしのもとへ、必ず戻ってきてくれた優しい姉と。

 油断をすれば、泣いてしまいそうだった。彼女と対等になれない自分自身が悔しくて、どうしようもなく悲しかった。

 ぼろぼろと、目から涙が溢れてきているのがわかる。けれど、自分自身では拭えなくて、それでも涙が止めどなく流れているのがわかって。

 目の前の彼女が、狼狽えている気配が伝わった。子供のように小学生と対等に喧嘩をする癖に、こんな時ばかり大人のような彼女のコントラストが、妙に()()しかった。

 (しばら)く待っても動かないあたしに困り果てて、彼女はそっとあたしを抱き締める。そして、あやすようにぽんぽんと背中を小さく叩く。

 子供みたいだからやめて、なんて言おうとして、言葉が出なくなっていることに気付く。それでも、涙だけは最後まで(こら)えた。

 淡い色のハンカチを差し出す彼女の目を、真っ直ぐに見つめる。彼女なら、答えを知っているような気がしていた。


「…………織歌ちゃん?」


 彼女は、不思議そうにあたしを見る。ハンカチを受け取らないあたしの代わりに、そっとそのハンカチであたしの涙を拭った。

 ああ、本当はあたしの代わりに彼女が夏夜の傍にいるべきじゃなかったのかなんて。そんなことを考えたら、また涙が溢れる。

 彼女は困ったような顔で優しく笑って、ゆっくりと何度も何度も頭を撫でる。その手の感触が、夏夜にほんの少し似ていた。


「大人に、なりたいの。彼女を守れるような、そんな、大人に」


 涙混じりに呟いたその言葉に、彼女は驚いたように目を見開く。そうして、あたしを真剣な眼差しで見詰めて、大きく溜め息を吐いた。


「……………………そう」


 彼女は小さく笑うと、信号を見詰める。信号は、まだ赤だった。


「……………………ね、織歌ちゃん」


 彼女────夏琳は、少し屈むと、あたしの耳元にそっと囁く。

 その言葉を言い終わると同時に、信号は青に変わる。


「じゃあ、また今度ね?」


 そう言うと、夏琳は走って交差点を渡る。その姿を見送ると同時に、後ろからぐっと手を引かれる。何事かと後ろを振り返れば、良く見知った愛しい姉の顔がそこにはあった。


「……………………お姉ちゃん」「…………どうして、夏琳と一緒なの?」


 夏夜は、慌てて走ってきたように息を切らせてあたしを見つめる。その姿にほんの少し戸惑いながら、彼女の乱れた髪を直す。


「…………夏琳が、お姉ちゃんに会いに来たの。…………夏期講習のこと、忘れてたみたい」


 ほんの少しの嘘を、多数の真実に織り混ぜる。彼女は、それを聞いて納得したような表情で笑った。


「ああ。…………なんだ、そうだったんだ」


 良かった、なんて。彼女が本当に安心したように笑うから。

 あたしは繋がれたままの彼女の手を引いて、耳元に囁く。それを聞いて、彼女は慌てたように顔を赤らめる。


「………………っ、ああ、もう!」


 帰るよ、なんて、少しだけ怒ったように今度は彼女があたしの手を引く。


 ────大好きよ、なんて、柄にもなかったかな


 少し照れ臭く思い、隣を歩く夏夜を見つめながら、彼女に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟く。


「……………………ずっと、一緒にいてくれる?」


 すると、夏夜はちらりとこちらを見て、呆れたように溜め息を吐く。その溜め息に、ぴくりと肩を動かすと、彼女はするりと手を離して、強い力であたしを抱き締める。


「………………ボクは、手の掛かる妹以外にこんなに心が動いたことはないんだ。嬉しくなったり、嫉妬したり、愛しくなったり。くるくる勝手に感情が動いて困ってしまう。そんな事を教えてくれた人を、今更手放せるはずが無いんだ」


 だから、心配なんてしなくていいよと彼女が笑う。触れられた肩は、少しだけ熱を帯びていた。

 夕暮れに染まる帰り道を夏夜と二人で歩く。夏夜はあたしの少し前を、あたしはその後ろを。きっとその距離感は、これからも変わることは無いのだろう。

変わらない関係に対する安心と、ほんの少しの寂しさを噛み砕きながら、あたしは頭の中で、夏琳が言った言葉を思い出す。


 ────あのね、夏夜は昔から、貴女の事ばかり言っていたよ。私も、夏夜のことばっかり考えてた。私達は、貴女が思っているよりも、ずっとずっと子供なんだよ


 あたしは、地面を蹴って、彼女に飛び込む。彼女は慌てて、けれど、しっかりとあたしを抱き留める。

「どうしたの」なんて、彼女の慌てた声が、あたしの鼓膜を震わせる。

 離さないで、なんて、彼女に聞こえるか聞こえないかの声で呟く。彼女がゆっくりと微笑んだ気配が伝わって、安心してそっと目を閉じる。


「………………………………織歌?」


 そうしてゆっくりと意識を手放したあたしに、夏夜がそっと呼び掛ける。あたしが眠ってしまったことを確認すると、そっと微笑んでまたあたしを抱き締め直す。


「…………ふふっ、昔みたいだね。織歌」


 夏夜はあたしを抱き締めたまま、ゆっくりと夕暮れの中を歩く。

オレンジ色の夕日と、夏夜の匂い。五月蝿い蝉の声が、夕焼けに融けてしまったように聞こえなくなる。



「……………………離してなんてあげないよ。織歌」



 君も、どうかボクから離れないでいて、なんて呟いた声に返事をすることは出来なかったけれど。

 この先も、ずっと一緒にいられる未来が見えた気がして。あたしはゆっくりと顔をほころばせた────

織歌の話を聞き終わると、身体から少しずつ力が抜けていくような感覚がして。ボクは、夏琳に気持ちを伝えられた日のことを、思い出さずにはいられなかった。


────ね、夏夜。私、本当はずっと貴女の事が────


夕暮れの教室で、ほんの少し震えながら夏琳がボクに気持ちを伝えてくれた日を思い出す。

あの日、今まで見ない振りをし続けていた夏琳の気持ちに応えたのは。もう、彼女の気持ちを見ない振りをすることが出来ないと思ったから。


────優しくて誠実なボクの友人に、もう、曖昧な態度はとれないと思っていたから。



────ボクは夏琳を、誰よりも好きだし大切だ。…………でも、それは「友人」としてなんだ。君を、「恋人」としては愛せないよ


────織歌の代わりは、世界中何処を探したって見付からないんだ。………………だから、ごめんね。君と同じ気持ちを返すことは、ボクには出来ない


そう答えれば、夏琳は悲しげに、それでいて何処か安心したように笑ったのを思い出す。


────よかった、と、彼女は確かにそう呟いた。


パタパタと、夏琳が走って教室を出る。その姿を見つめながら、ボクは夏琳の告白の内容を思い出す。


────貴女の事が、息も出来ないくらいに好き


それは、ボクから織歌に対しての感情で。夏琳には、どうしてもその気持ちを抱くことも、返すことも出来なかった。

ボクは、砂を噛んだような気持ちで、バン、と教室の扉を叩く。じん、と痛む掌が、行き場のない感情を余計に追い詰める。


「………………っ、くそっ………………」


何処か遠くで、五時を告げる音楽が鳴っていた。




Side 夏琳


息も出来ないくらい、彼女の事が好きだった。

受け入れられなかった帰り道、ぽつぽつと涙を道路に落としながら思い返す。

それでも、先程彼女に「恋人としては愛せない」と言われたとき、私は確かに安心したのだ。


────嗚呼、彼女は今もずっと、まっすぐで綺麗なままだ、と。


私は、顔をあげて夕焼けを見つめる。涙が溢れて、止まらなかった。


────ねぇ、夏夜。貴女は覚えていないかもしれないけれど。あの日、私は確かに、貴女に救われたの


私はそっと目を閉じて、私は夏夜と初めて出会った日のことを思い返した────

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ