ボクと夏琳のある日の事
ボクは風に捲れたページの中に浮かぶ、ひとつの写真に目をとめる。
夏琳と、ボクと、そして赤いランドセルを背負う織歌が映る。
「ふふ、あの時の僕達は、まるでドラマみたいだったな」
夕焼けに照らされる彼女があまりにも綺麗で、ただただ愛しかった。
ボクは、瞳を閉じると、あの日の事を思い出す。夕焼けに浮かぶ、あの日を────…………
絡みつくような熱風が、ボクと夏琳の間をすり抜けていく。
ボクと夏琳は、いつも通り裏庭の定位置で昼食を食べながら思い思いに怠惰な昼休みを貪った。とは言え、ボクはあまり好きではないチョコレートパンに眉をひそめていたから、あまり楽しい昼食にはならなかったのだけれど。
「ねえ、夏夜」
その日は、七月のある蒸し暑い夏の一日だった。購買で購入したイチゴ牛乳をずずっと啜りながら、夏琳が呟く。
「なに?」「………ん」
チョコレートパンのもそもそとした食感に再び眉をひそめながら視線を寄越すと、夏琳が真剣な表情でボクの食べかけのパンを指さす。
「────パン、珍しいね?お弁当じゃないんだ」「ああ、うん」
たまにはね、と返すと「そう」と呟いて、夏琳が少しだけ寂しそうに視線を彼女のお弁当に落とす。その理由が、表情が気になって「どうしたの?」と返せば、夏琳は少しだけ気まずそうな表情をしてから「何でもない」と俯いた。
その表情に、少しだけ違和感を感じて俯いた夏琳の頭をそっと撫でると、夏琳はますます視線を落とす。
「────…………どうしたの?」
何でもないと繰り返す夏琳に、甘やかすようにゆっくりと「夏琳?」と名前を呼ぶ。それでもなかなか話し出さない夏琳に、最終手段を使う。
「────夏琳。ボクは夏琳にとって、頼りない?」「────っ、そんなこと無いわ!」
慌てて顔を上げて言葉を返す彼女に、気付かれないように小さく溜め息を吐いて、「じゃあ教えてくれる?」と尋ねる。すると夏琳は、視線を宙に彷徨わせてから深呼吸をして。そうして、まるで叱られる前の子供のような表情で気まずげにボクを見た。
「────夏夜。私────」「うん」
「私、本当は────」
夏琳の色白で柔らかな曲線を描く頬が、ゆっくりと桜色に染まってゆく。その姿に、表情に、思わずひゅっと息を呑んだ。
────嗚呼、夏琳。どうか────
────どうか、終わらせないでくれないか?
紡がれる言葉に、いつも通り気づかない振りをして。そうしてから、少しずつ上手な言葉を押し出してゆく。
「────ありがとう。ボクも好きだよ」
驚いた表情の夏琳を見つめながら、ボクは「さて、どうしようか」とゆっくりと思考を巡らせる。何か上手くかわす言葉は無いものかと思いながら、視線だけをきょろきょろと動かす。すると、甘いチョコレートパンが視界に映りゆっくりと口を開く。
「────あー……美味しいよね、このパン。ボクの好みじゃないけど、夏琳は好きだと────」「違うわよ!」
普段声を荒げたことがない夏琳に、物凄い剣幕で怒鳴られながら頭の片隅で「まぁそうだろうな」と呟く。大方見当がついている内容からは大きく外れた回答を叩き出してしまったためだった。
「違うの?じゃあ────」
「────じゃあ、ボクには解らないな」
夏琳は、ほんの少し目を伏せると、ぽつりと呟く。
「……だって、夏夜、怒ってるんじゃないかなあ、って思ったから……」
そう呟くと、恥ずかしそうに俯く。
「怒る?ボクが夏琳に?どうして?」
「だって……」
夏琳は一瞬気まずそうな表情をして、お弁当のおかずを口に運びながら
「私、また織歌ちゃんと喧嘩しちゃったじゃない…。だから、夏夜──……」
織歌。
その言葉が出た瞬間、身体中の血が急激に沸騰した気持ちになる。
耳の奥がジン、として、世界から音が遮断される。
──…あたしから離れたら、おしおきだって言ったでしょ?
熱を持った織歌の声が、耳の奥に木霊する。
その後に重なった唇の感触まで鮮明に思い出し、思わず顔が火照る。
──……なんて、ね。
「……よ?夏夜!」
夏琳の声で、急速に現実へと意識が向けられる。
「え……。ああ、ごめんね。何の話だったっけ?」
「もう……夏夜ったら……」
夏琳は安心したようにそっと溜息を吐く。
その姿を横目でちらり、と見ながら、心の中で大きく溜息を吐いた。
──……あの日から、妙に織歌を意識してしまい、顔がろくに合わせられない。
ボクは、まるで青い絵の具を紙一杯に塗った時のような、どこまでも青く澄んでいて、そして何処か寂しい色を纏った空を見つめる。
「織歌、何してるかな……」
思わず口を吐いて出た言葉に、驚く。
織歌。
声に出さず、口の中でそう呟けば、身体中の力が抜け落ちてしまいそうな気がする。
──あたしから離れたら…
──おしおきだって、言ったでしょ?
──キーンコーンカーンコーン…
「わっ、大変!」
錆びついたチャイムの音に急かされるようにして、ボクと夏琳は慌ただしく屋上を出た。
五月蠅い位に泣き喚く蝉。揺らぐ陽炎。
今日も、暑くなるだろう。
六時間目の授業中、社会科教師の板書を写していると、後ろの席から手紙がまわってきた。
「……?」
教師が黒板へと向き合っている隙に、後ろを振り返ると、真後ろの夏琳がにこにこと笑いながら、声に出さず
「ま・え」
と指を指す。
恐らく夏琳からだろう、と見当を付け、手紙を開く。
『今週の日曜日、…人で遊園地…行かない?』
夏琳の、ほんの少し掠れた端整な文字で書かれた文章を見つめると、紙の余白部分にシャープペンシルで返事を書いて投げる。
『いいよ』
そう書いて後ろへ投げ返した瞬間、小さく「やった!」と呟く夏琳の声が聴こえる。
その声を聞きながら、ボクはぼんやりと「織歌も連れて行ったら駄目なのかな」と言う考えを頭の中で巡らせていた。
「夏夜」
授業も終わり、教室に残る人もまばらになった時に、ふと夏琳に呼び止められる。
「うん?どうしたの?」
突然名前を呼ばれ、驚いて顔をあげると、嬉しそうに顔を綻ばせた夏琳が目の前に立っていた。
「一緒に帰ろ?途中までになっちゃうけど」
スクールバッグを肩にかけた夏琳が言う。
一瞬、織歌の顔が頭をよぎったけれど、すぐに打ち消して笑う。
「勿論だよ。帰ろう」
そう微笑むと、夏琳は嬉しそうに微笑み、二人で教室を出た。
「ねえ、夏夜。私達で行こうね、遊園地」
夕暮れに融けていく道路の中で、夏琳が不意に呟く。
「……どうして?」
思わず口を吐いて出たのは、この時に出る筈の『肯定』の言葉ではなく、『疑問』の言葉だった。
その事実に、少なからず驚いたのは、ボクだけじゃなくて夏琳も同様だったみたいだ。
「……どうして、って……。だって、書いたじゃない。手紙に。
それとも、誰か他に誘いたい人でも居るの?」
不思議で堪らない。そんな表情をしながら、夏琳は呟く。その表情に、あれは『二人』だったのか、とボクは今更ながらに気付く。
「私は良いのよ。だけど、チケットが足りないじゃない?
今回は、私と夏夜の他に引率として私のお母さんが来てくれるから、チケットが三枚しか無いの。ごめんね、夏夜」
申し訳なさそうに目を伏せる夏琳を見て、慌てて首を左右に振る。
「ううん、そういう事じゃないんだ!我儘言ってごめんね、夏琳」
慌ててそう言うと、俯いた夏琳がくすり、と笑う。
「ううん、夏夜に我儘言われるのは嬉しいわ。…あら、あれ…」
前方に何かを見つけた夏琳が顔を顰める。
「お姉ちゃん!今帰り?私、迎えに来たんだっ」
その声がボクの脳内を甘く、優しく占拠する。
ボクの目に映る少女は、世界にただ一人の少女。
この狭い世界の中で、ボクの傍で笑うあざとくて可愛い唯一人の妹。
「織歌……?」
逢いたくて、逢いたくて堪らなくて。
可笑しいほどに焦がれて居た、少女。
「……で、そこの邪魔なクズはさっさと帰れば?」
綺麗な黒髪が風に舞う。
愛おしい妹──織歌が、赤いランドセルを背負ったまま、挑発的に立っていた。
「お姉ちゃん?何を見てるの?」
いつの間にか、開いたままのドアから入ってきた織歌が、ひょっこりと顔を出す。
「アルバムを見ているんだ。懐かしくて」
そう微笑むと、織歌がこちらへ歩いてきて、ボクの隣に寝転んだ。
「私も見る」「いいよ」
ボクは織歌の隣に腰をおろすと、織歌と同じようにカーぺットに寝転んで、アルバムを開いた。
「…あ、これ、私とクズとの喧嘩じゃない」「はは、本当だ」
写真に写るのは、織歌と友人の喧嘩だ。真ん中で困ったようにただ笑っているボクに呆れて溜め息を吐く。結局、ボクは昔から何一つ変わってない。
「この時は、どうしたんだっけ?」
こちらを見上げてくる織歌の、綺麗な目から逃げるように視線を写真に向ける。あまり、面白い話では無かった。
「じゃあ、次はこの日の話をしようか」
そう言うと、ボクはゆっくりと目を閉じた。