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七月×日朝 夏夜


「────あ」


夏休みも中盤に差し掛かった午後。残り数ページのテキストを片付けようと、茣蓙が敷かれた自室に丸い折り畳みテーブルを設置した時だった。祖父からもらった型の古いラジカセの隣に無造作に置かれたアルバムがふと目に付いて、テーブルから手を離すとアルバムを引き抜く。何のアルバムなんだろうとパラパラと捲れば、どうやらそれは自分と親友の夏琳。そして幼い妹────織歌のアルバムのようだった。

笑った顔、怒った顔、泣いた顔。様々な表情がくるくるとアルバムのページを彩る。それは何処か、感傷的な感情を残してゆくには十分過ぎるほどで。


「────懐かしいなぁ」


ぺらぺらとページを捲るボクの頭には、もう既に投げ出した宿題のことなど、頭には無かった。

 静かな室内にアルバムのページを捲る音と、近所の老夫婦が縁側に置いている風鈴の音が響いた。涼しげなその音に耳を澄ませながら、ボクは小さく「懐かしいなあ」と呟く。淡いオレンジ色のアルバムを持ったまま手につかなくなった残り数ページの夏休みの宿題を机に投げ出しごろりと茣蓙の上に寝転べば、少し青臭い香りが柔く鼻腔を擽った。

 開け放した窓から絡み付くような生温い風が入って、申し訳程度に棚に掛けた風鈴を揺らす。随分前に家族で旅行へ行った際に買った金魚の絵が描かれた風鈴が、ちりんと涼やかな音を奏でた。

 ボクは寝転んだまま窓を閉めようか迷ったものの、そこから起き上がる気力もなく、結局諦めて茣蓙に寝転んだままアルバムをめくった。

 夏特有の生温い風が半袖から露出したボクの腕を軽く撫でた。それに小さく身じろぎすれば、短く切った髪が頬に触れた。


「……お姉ちゃんはあたしのもの、ね」


 随分前に妹から聞かされた甘い言葉を思い出して思わず笑みが零れる。束縛も、執着も、愛情も、望んだものを全て与えてくれるこの関係ではどちらがそうなのか解らないと言えば、きっと「彼女」は怒るだろう。

 ボクは次第にさがる瞼に抗う術も無く、流れる様にその重さに身を委ねる。まどろんでゆく意識が、何故だか酷く心地よかった。


「────織歌」


 柔らかな微睡みの中で呼んだその声に返事をする人は、今はまだいない。


 ────たん、とん、たんと体重の軽い子供特有の足音が聞こえてつい頬を緩める。ボクは制服を着替える手を止めると、これから乱暴に開かれるであろうドアをぼんやりと見つめる。やがて足音の主は予想通りボクの部屋の前まで来ると、壊れてしまうのではないかと思うほどの爆音と共にドアを開けた。


「お姉ちゃん!」「おはよう、織歌(おりか)。……ドアはもう少し優しく開けてね、壊れちゃうから」


 爆音と共に開かれたドアの前で、仁王立ちをしてボクの名前を呼ぶツインテールの妹・織歌(おりか)に注意をしてから再度制服を着替えるために顔を背ければ、織歌はそれが気に食わなかったのか、はたまたいつも通りの『遊び』の延長線上なのか子供らしいあどけなさの残る甘い声でとんでもないことを言った。


「────()()()()()()()()()()()()、お姉ちゃん」「ぶ────っ!」


 最後のリボンを着け終えると同時に高らかに宣言されたその言葉に「意味が解ってるのか」と思いながら織歌の方を見れば、織歌は「うわ、もう、きったない!」なんて憤慨しながら、それでも真っ直ぐな澄んだ瞳でボクを見ていた。

 小さな身長に華奢な体躯。サラサラとした指通りのよさそうな艶やかな黒髪のツインテールと、濡れたように光る黒目がちな大きな瞳。それを縁取る長い睫毛は薄桃色の頬に柔らかく影を落としている。わざわざこんなつまらないことをしなくとも喜んでついてくる子が多いだろうにと思いながら「何を馬鹿なこと言ってるの」と窘めれば、織歌はその薄く形の良い唇を開くと、まだ幼さの残った声で「本気よ」と呟く。「子どもだからって侮ってると痛い目に遭うの」と続ける彼女に思わず呆れて溜め息をつけば、織歌はむっとした表情でボクを見て。やがて着替えを終えたボクの腕を両手で掴むと、背後にあったベッドに思い切り打ち付けるようにボクを押す。咄嗟に動けなかったボクは、間抜けなことにそのままベッドに押し倒されてしまって。何とか起き上がろうとした瞬間、その上をまたがるように織歌に乗られてしまう。

 この間買い替えたばかりのシャンプーの香りが柔らかく鼻腔を擽った。いたたまれなくて思わず顔を背けて「どいてよ」と出来るだけ優しく言い聞かせれば、織歌からは無情にも「どかない」と言う短い答えだけが返ってくる。


「……織歌」「うるさい。どかないって言ったでしょ。あんたはあたしが本気だってわからないみたいだから、教えてあげる」


 織歌はそう言うと、ボクのワイシャツの第一ボタンをぷつりと外す。体温の高い子供の手で触れられている部分だけがやけに熱を持っているように感じられて、それが妙に生々しくて思わずぎゅっと目をつむる。その間も織歌は、まるで気にしないかのようにボクの頬、首筋を指で撫でるようになぞっていた。


「────これじゃ、どっちがお姉ちゃんか解んないね。……夏夜(かよ)」「……っ、織歌」


 不意に耳元で、織歌の甘い声がボクの名前を呼ぶ。それに驚いて思わずぴくりと肩を跳ねさせれば、それを見た織歌は酷く楽しげに笑うと、「夏夜(かよ)」と先程よりも幾分か甘い声でボクの名前を呼んだ。


夏夜(かよ)ってば。ねぇ、返事してよ」


 織歌の華奢な白い手が柔らかくボクの首筋を撫でる。少し冷たい指先に、皮膚がぞわりと粟立つのが解った。


「……っ、織歌。いい加減にしてよ」「しない」「あのさ────っ!」


 ボクとの対話を面倒に思ったのか、織歌は再度ボクの首筋に触れて。「やめてよ」と今度は先程よりも少し強く言えば、織歌は一瞬だけだじろいだものの、すぐににやりと笑うと「すぐに逃げられるでしょ?」と耳元で囁く。


「あたしは夏夜より力も弱いし、身長もないのよ。……ねぇ、それなのに、逃げないのはどうして?」


 織歌はそう言うと、ボクの首筋を華奢な指でつ、と撫でる。冷たい指先が撫でる感触と、近付いてきたことでより強く香った織歌の香りに、思わずそくりと背中が粟立つのが解った。

 押しのけるなんて出来るわけがない。だって相手はボクよりもずっと小さくて弱い子供なんだから。

 織歌は黙り込んだボクに痺れを切らしたように、再度「夏夜」とボクの名前を呼ぶ。つけっぱなしにしていた部屋のクーラーから出る冷気が、やけに生温く感じられた。

 織歌の細い指が、首筋からボクの鎖骨までを辿るようになぞる。「夏夜」と自分の名前を呼ぶ織歌が、やけに遠く感じた。


「……ねぇ、夏夜。あんた、もしかして────」「夏夜ー! 織歌ー! そろそろ起きないと遅刻するよー!」


 突然、階下から自分たちの名前を呼ぶ母の声が聞こえて。織歌はそれを聞くと、まるで悪いことをした子供のようにびくりとその小さな肩を震わせてから、「……残念」と呟いて、ボクの上から身体を離した。


「……お母さんに怒られちゃうから、夏夜も早く行った方が良いんじゃない?」「……ばっ、誰のせいだと……ああもう、今後は一切ああいうことはやめてよ。次やったらお母さんに報告するからね」


 織歌のせいで着崩れてしまった制服を直しながらぶつぶつと文句を言う。織歌を叱った時特有の「ごめんね」とこちらの機嫌をとるように甘えてくる態度を予想しながら、ちらりと横目で彼女を見れば、


「────言えば?」「……え、」


 予想外の言葉に面食らって思わずそんなことを呟けば、織歌は「言えばいいでしょ」と再度同じことを言った。


「言えば良いでしょ。それで夏夜があたしを意識するならあたしは構わない。怒られたり引き離されたり、気持ち悪がられたりしても別にいい」「……ちょ、織歌?」


 こちらを突き放すような醒めた瞳に戸惑っていれば、織歌は「言えればね」と言うと部屋のドアを開けてボクの部屋を出てゆく。綺麗に結われた長い髪を揺らしながら、ドアを閉める直前に振り返った織歌は、彼女にしては珍しくどこか寂し気な表情で呟いた。


「────あたしを子ども扱いして本気にしないのは、()()()()()()()()()()()()()


 織歌はそう言うと「じゃーね」と言ってボクの部屋のドアを閉めると、ぱたぱたと足音を響かせて階下へ降りてゆく。


「……こっ、子どもじゃん……」


 ボクは彼女が去ってゆく足音を聞きながら、気の抜けた声でそう言うことしか出来なかった。

 途端に開け放した窓から強い風が部屋へ吹き込んでくる。風に揺れる自分の髪を抑えながら慌てて窓を閉めると、窓の外には近隣の中学校の制服を着た女子生徒三名が、楽しそうに笑い合いながら家の前を自転車で通り過ぎてゆくのが見えた。


(……楽しそうだな)


 ぼんやりとその様子を眺めながら窓を閉じたボクの耳に、ぴしゃりと言う音がやけに大きく聞こえた。

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