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アドロアの家を訪れてから数日たった頃、オリビアとシンはオリビアの執務室に居た。
自身の机で仕事をしながらオリビアはシンを盗み見た。
最近、宣言通りあまり眠ることをしなくなったシンは見るからに疲れていた。睡眠をとることを促しても頑なに首を振るだけだった。
何度か彼が眠るところに遭遇したがそのたびに彼は辛そうにうなされていて、彼が言うように起こしてしまわないといけなかった。
本当に彼は何と戦っているのだろうか? オリビアにはそれが見えない。
ここ数ヶ月、いつも一緒に居て彼のことを理解していけていると思っていたのに、凄く遠い所に急速に離れていく。
「なぁに?」
シンは視線を感じて自分に与えられた机からオリビアを見つめた。
「…疲れてるね…」
シンは口元に笑みを浮かべて悲しそうに呟いた。
「そうだね」
「作り笑いしないでよ」
一瞬目を見開いたけれど、シンはそれを止めなかった。オリビアの中にぐるぐると何か分からないものが渦巻く。
いつも一緒に居るのに、どうして明かしてくれないのだ? 自分はその価値もないのか…シンがそんな人間ではないとわかっているのに疑ってしまう。
シン、わたしを信じて、どうか疑わないで。
不覚にも泣いてしまいそうになる。
シンはオリビアの心の動きを見たのだろうか、ゆっくり近づいてくる。
シンは真面目な顔。
「…僕が、変な事言っても聞いてくれる?」
その言葉はシンの不安が滲み出ていて、オリビアは安心させるつもりでゆっくりと頷いた。
「じゃあ、隣に座ってくれる?」
シンがソファを指差して自分がまず座って半分をオリビアに譲り渡す。
そこにオリビアが座るのを見ていたシンはしばらく迷ったあと口を開いた。
「…僕が食べてるのは記憶だけだと思う?」
唐突に聞かれた事にオリビアが首をひねる。彼の能力は確かに記憶を食べる事だと思っていた。それ以外にも彼には能力があるというのか。
「僕の中には僕じゃないモノが沢山いるんだ」
「シンじゃないモノ…?」
こくん、と頷くと続ける。
「本当は僕の仕事…コエケシは不必要な記憶だけを食べるだけじゃないんだ。それだけも出来るけど。…暗殺の一種にだって使えるんだよ。それは知識としてじゃなくて本当に、僕が沢山行なってきた事だ。僕を、軽蔑する?」
「そんな事…しないよ」
少し寂しそうにシンはオリビアに笑いかける。
けど、その瞳は笑っていない。
本当にそう思ってるのかを見通すような瞳にオリビアは不安になる。なんだか、いつものシンじゃない。
「…すると思うよ。僕は僕自身を軽蔑する。人一人の記憶を丸ごと奪い去るんだ。言語も、習慣も、家族も夢もその人が歩いた人生全てを一瞬にしてこの手のひらが奪い取るんだ。それはその人を全部消し去る事。構成するものが何もないなんて、ただの器でしかない。いっその事その場で切り殺されたほうがマシなんじゃないかと思う」
シンの視線に金縛りのように動けなくなっていたオリビアはシンが自身の手のひらに視線をうつした事で解放された。
「多分、罰なんだと思う」
何かを確認するように、それでいて諦めたような言葉。
「罰なんて…」
「沢山の人の人生を台無しにしてきた僕に対する罪は、僕が奪い返される事で償われる」
それは神様からの信託を告げているような声音。
「でもっ」
驚いて声をあげるとシンは感情の消えた顔をオリビアに見せる。
「僕の意識以外の存在が…僕に取って代わるかもしれない」
「そんな事がどうしていえるの?」
オリビアはシンの手を握る。その手は彼が言うほど怖いとは思えない。ほんのり彼の温かさを伝えてくれる。
彼は、酷い人間なんかじゃない。
「僕の中に記憶が混在する。到底一人の人間が一度に経験できないはずの記憶や感情が沢山」
以前にシンが記憶のあり方を聞かせてくれたことを思い出してオリビアは頷いた。
「今、僕の中にあるひとつの記憶が急速に浮かび始めてるんだ。綺麗に収まらずに僕に無理矢理それを見せつけ続ける。…それを抑えることができない」
ぽすっ、とソファに背中を預けたシンは力なくオリビアに右腕と手のひらを握られたままだ。
「い、今まで抑えてたんじゃないの? その訓練をしてきたのではないの?」
左手で顔を覆いながらシンは微かに首を振った。
「完全に押さえ込んだことは無いよ。出来ない。自分で経験がないものが、僕の中では初めてじゃない。何ヶ国語も話せるし料理も仕事も出来る。それは、僕が彼らの記憶を使ってるから…」
言葉が途切れて、オリビアは静寂の中シンの言葉を待った。
「利用する分、彼らの記憶が強く反応するものに出会った時…記憶は再生される。強制的にフィードバックが始まるんだ。僕が勝手に彼らの記憶を見ていくように記憶が僕に見せ付ける」
シンを乗っ取ろうとするものがいる…。
それは、どんなものなのだろう。
自分の意識が奪われていくなんてそんな事なのだろう? それを自ら行ない、今それが彼に返っていこうとしている。
「今までは何とか、僕はなんとか戻ってきた。でも、今後は分からない」
「どうして…?」
「強い記憶の力が僕を引きずっていくから…」
諦めたように呟かれた言葉。
「それが、この前おばあちゃんに会いに行ったときから? 何かあの家に記憶を引き出すモノがあったの?」
シンは顔を覆っていた手のひらを取り払うとオリビアをちゃんと視界に捉えた。
「アドロアだよ」
普段の彼なら絶対しないこと、敬称もつけずにおばあちゃんの名前を彼は言った。
「おばあちゃん…?」
「あぁ、彼女にコエが反応して僕の中で蠢いている。彼女に関する記憶ばかりだ」
シンの中にある記憶はアドロアを知っているのだ。
しばらく無言が続き、シンは大きくため息をつく。
「ごめんね、変な話で」
「ううん、私が聞きたいっていたから」
シンはしばらく更に遠くを見ていた。オリビアが見通すことができない遠くを。