九話 身の振り方
陸奥国北部に位置する南部藩に、上方より鋳造師が招かれ造られたのが始まりとされる。
当時の藩主の名前が南部氏であった事から南部鉄器と名付けられたそうだが、細々と土地の名前であったりというのが多く出てくる話というものは、うつらうつらし始めた意識のまま、耳を傾けられる話ではないことを、絹は知っていた。
子どもの飽きというもものはとても正直に、訪れるのもあっという間の事だ。まだ半刻も経っていないというのに既に集中力は途切れ途切れの散漫気味。
部屋の隅で静かにそれらを見ている自分がそれに気付き、まるで手本のように姿勢を崩すことなく子どもたちの前で話をする、人当たりの良さそうな微笑みを浮かべている恩師が気付かぬわけがないのだが、恩師がわざわざその様ことで腹を立てるほど気の短くないことも絹は理解していた。
おおらかを絵に描いたように寛容で、懐がとても広い。
情に厚く、他者へ手を差し伸べることを一切厭わない、一周回って思わず疑ってしまいそうになる。それほど、善良なる御人。
名を、西条銀嶺と言った。
西条銀嶺という男は、絹の亡き父・三ツ江文左衛門が贔屓にしていた商人の一人だ。
父は家業である両替商をする傍らに生家のある武蔵国を離れ、甲州街道の吉野宿において、趣味で旅籠屋を営んでいた。
目利きの行き届いた調度品の並ぶ店は、そんじょそこいらの商人が易々と敷居を跨いでいいものではない。
父・三ツ江文左衛門は、少々性格に難を抱えていた。
たとえいくら大金を積まれ、他の旅籠屋ではなくこの店に泊めろと言われようとも、酒癖が悪く給仕の女中に手をあげた事のある客には、二度と店の敷居を跨がせようとはしなかった。
泊まりたいという客を自ら追い払い、客足がどれだけ遠のこうとも気にしない。
あくまで本業ではない、というのは口癖か。あるいはただの独り言であったかの真偽を、今になって知る術はもう何も無い。
人の選り好みが激しかったそんな父が大層お気に召していたのが、今の絹の雇い主でもある、銀嶺という男だ。
「さてさて絹さん、私の話は如何でしたでしょうか?退屈ではございませんでしたか?」
「退屈などとんでもありません。大変、為になる話でした。
……ですが、まだそういった物に多く触れることもない、あれぐらいの子供達では少々退屈に感じてしまうこともございましょう。」
「そうですね、今回それは私も見ていて思わされました。
常にこういった機会に巡り合えるとは限りません。貴重な時間を棒に振らしてしまったのは間違いなく私の責任です
ですので次は、もう少し彼らが関心を示せる内容に致しましょう。」
「それが、よろしいかと。」
西条銀嶺という人間は、そういう《、、、、》人、だ。
どのような些細な事であっても、上手く事が運ばぬ事があれば誰か、ではなく自分自身の責任として捉える。
言葉を借りるのなら、改善の為にどうすればいいのかを考えるのに貴重な時間を費やす。棒に振る、とまで行かないのは彼という人間が、キチンと次までにどうすればいいのか考えたそれを結果へと導くことが出来るからだ。
多分などではなく確実に、次に寺子屋へ呼ばれて子供達の前で話を、となった時。彼は子供達が飽きる事のない、興味を示せる話をするのだろう。自然と、その光景が目に浮かぶ。
だが、
「御無理は、あまりなさらないでくださいまし。」
「自分の体の事は、自分が一番分かっております。善処は、致しましょう。」
絹が銀嶺の元に身を置くようになったのは昨年の春の終わり。
『もし、行く宛がないのでしたら私を訪ねてきてください。貴女の器量の良さを、私は高く評価しております故。』
趣味で父が始めた店だ。
父が亡くなったその翌日には、早々に店を畳もうとしていた矢先、銀嶺は絹の前に姿を現した。。
旅籠屋を始めて早八年。当初より父の手伝いで一緒にいた絹が知らぬわけがない。五年以上は少なくとも店に通い続けている彼から、そんな誘いを受けた。
父の生家に、その亡骸を送り届けた後。絹は彼の言葉を思い出し、武蔵国を出立し山城国を目指した。そうして――、
「銀嶺殿、」
手を、貸す。
言った側から、と悪態を吐くのではなく心の底から相手の身を按じ、絹は彼の名前を優しく呼んだ。
銀嶺は、既に六十半ばを過ぎた老体である。
昨年の内はまだ付き合いが浅く、自身が人の身ではない、という事にも関わってくるのだが人間にとっての六十を過ぎた老体がどれほど衰えているのかを、絹はまだ知らなかった。
それを絹が知ったのは、夏が終わりを迎え、実りの時期を迎えた頃。
江戸の頃であれば武蔵国と山城国の間の運搬にはおいては廻船問屋がおり、それによって積み荷が一度に多く、海路で運ばれる事があったが、討幕後のこの時代にはこれが存在していない。何より、武蔵国と山城国における関係も近年良好とは呼べない状況が続いている。
その為、この時代における主な運搬方法は信濃国や甲斐国が発祥とされる中馬という、馬を用いた手法だ。
江戸の港を介することなく、山岳地帯――山や峠を越えるのに特化した馬が役目を担っていた。
しかし春以降、甲州街道の山道沿いに出るという狼の群れによって荷だけでなく運び手にも被害が出ており、これ以上人手まで失うのはゆくゆくは商売が回らなくなってしまうからという理由で断られる回数が増えていた。
それなら甲州街道ではなく中山道から日光街道を経由し江戸へ向かうか、東海道を進めばいいだけだというのに、それを口実に運賃の引き上げであったりの問題がどんどんと浮上したのだ。
そして、銀嶺の所有する土地の蔵が、荷で溢れかえるのにそれほど時間は掛からなかった。
『私と共に、江戸に行ってはくださいませんか?』
自身の正体が人の身でない事を、絹は銀嶺に伝えていない。絹が本当は人間ではなく、人の姿をした狼であり、既にそれらの道理や枠組みからも逸脱してしまった存在であることを伝えていない。
が、銀嶺という男の勘は鋭く、時に言葉にせずとも心内を見透かしたかのような事を言い当てる時があった。 それは、またしても運んでもらえそうにないと、そんな話を小耳に挟んだ矢先。縁側でそんな事を屋敷の者が話していると絹自身が銀嶺に伝えた時だった。
銀嶺という男は、語る時と全く語らぬ時でその差が大きく、多くを語らぬ時は大抵、相手へ配慮をした上で言葉数を減らすような相手だ。
決して、強く出る事はしない。
先先代から続く家業であるからと、それを継いだというが正味、勝ち負けの存在する商いという職があまりにも似合わない、優劣や争いからはかけ離れた存在だ。
一つの季節を、その側で見ていたというだけの絹でもそうなんだと分かる。西条銀嶺とは、そういう男なのだ、と。
『私と共に、江戸に行ってはくださいませんか?』
それは単に、自分がいればどうにかなるのではないか、というもので。
絹は、それに応えた。
そんなこんなを経て江戸に到着した後、相模国で大変盛えているという榊扇の里に立ち寄った十月の中頃。怪我一つなく目的の荷を運び終え、息抜きにと立ち寄った絹と銀嶺の二人だったが、これで後は無事に帰るだけと思った矢先に不運にもそれに巻き込まれる事になってしまった。
榊扇の里を発つ前夜に里を襲った落雷に巻き込まれ、避難をすべきか決めかねている際、里の者と思しき逃げてきた者に突き飛ばされ、銀嶺が足の骨を折ってしまったのだ。
それは絹からすれば、という話になってしまうのだが、絹は“色持ち”であり、且つ人の身でもなければ普通の狼ですらない。故に怪我の治りというものが昔から異様に早く、父が亡くなった晩に僅かな間対峙をした鬼の子より喰らった強烈な蹴りで折れた肋骨も、半刻も経たぬ内に治っていた。
それでも致命傷と呼べる怪我を負えば、それで亡くなってしまう事ぐらいは頭では分かっていて。
だから、だからまさか、まさかたかだが足の骨を折っただけでそのまま暫く自分一人で歩けなくなってしまうなんてそんな、絹は知らなかった。
年は跨ぎ、もう間も無く銀嶺の元に絹がやって来てから一年が経つ。昨年の秋の骨折は、あれから半年以上が過ぎようというのに、未だに銀嶺をこれまで通り自由にはさせてくれない。
その場に一緒にいたのに何も出来なかった負い目を感じたからという理由で、それまで以上に甲斐甲斐しく彼の側にいるようになった絹だが、あまり意味はないように思えてしまうほどに無力だ。
足元の、躓いてしまいそうになる小石を見つけて予め避けておいたって、何もない場所でだって体が上手く動かずに倒れそうになってしまう事だって数えきれないぐらいあるのだから。
ジッと大人しくする、というのは彼の性分には合っていないのだろう事はよく分かる。でなければ六十半ばという歳で自ら商談の為に相手方の方へと出向く事もなければ、偶々声が掛かったからと、元々頼んでいた相手の都合がつかずに他を探していると前日に言われて、それだけでわざわざ寺子屋に赴きなどしない。
『自分の体の事は、自分が一番分かっております。善処は、致しましょう。』
優しく、その身を按じるように彼の名を呼んだばかりであるが、しかしと絹は考えた。
そろそろ、少し強くお伝えした方がいいのではないか、と。
そうである。
生前の父は酒癖の悪い客をひどく毛嫌いする一方で、自身は毎晩毎夜の様に酒を口にしていた。
あまり飲み過ぎは良くないと、自分が詳しく知っていたわけではないが店で給仕として働く女中仲間から聞いた体なり、歳なりの理由でそれを何度も止めるように言いはしたのだが、まるで意味を成さなかった。
酒の飲み過ぎと、骨を折った後の無理はあまり釣り合わないのではないか?という疑問を抱きつつも、あまり無理をしてほしくないという気持ちに嘘偽りはなく、絹がその旨を銀嶺に伝えると、しかし彼から返ってきた反応は絹の全く想像するところではなく。
思わず無言になり絹は困った。
『東海道沿いの海岸に工房を構えているという、硝子職人の御手洗工房をご存知でしょうか?』
どう返したものかを考えている間に小さく時間が過ぎた。
『みたら、い……工房?』
聞き慣れない、聞いた事もない名前だ。
海岸に工房を構えている、であったり職人という言葉が出てきた事で、硝子を作る工房であるというのぐらいは察する事は出来るが、東海道といっても江戸は日本橋から京の三条大橋まで続く、中山道に続き、二番目に長い街道である。ただ、硝子は硝子でも物によるがその硬さ故に加工時に響く音が大きく、という理由だったかは定かでないが人が多い場所にはあまり、なんていう話を聞いた事がなくもない。
五街道の東海道を除いた奥州街道、日光街道、甲州街道、中山道は四方に人里があって当たり前だ。が、東海道に関しては海沿いに進む場所もある為、音を気にするという理由が本当なのだとすれば東海道沿いの海岸に工房を構えているというのに納得がいく。
がしかし、何故そんな事を訊くのかと、絹は抑えられずに率直に銀嶺に訊ねた。
銀嶺曰く、どうやらここ最近になって、その工房で造られているという硝子製品の技術の高さが、この京でも噂として耳にする機会が増えたのだと言う。
大口の取引が殆んどの西条の荷は、一度に運ぶ量がどうしても多くなってしまうが軽量で済むような荷は今でも運送は行われているようだ。
甲州街道沿いではなく東海道を経由した道順であるならば春先から荷の行き来も安定しつつあるそうでそんな噂も流れ着くようになったそうだ。
『そう、なんですね……?』
が、それだけでは何故銀嶺が自分にそんな話を振ってきたのか、その答えには至れていない。今やそのお側に仕えて、彼の身の回りの世話を、その介助を行う絹からすれば、もしや……なんて気もしてくるのだが、それを仮に言われてしまうとなると、これまで自分がしてきた諸々はあまり意味を成さなかった、とそう言われているような気持ちになりかねない。
と、目が合う。
ニコリ、柔和な表情。一旦はそれ以上言葉が続く事はなかったものの、暫く時間を置いてから銀嶺は言った。
『私はですね、絹さん。貴女にはどうか、どうかもっと多くの物を目にしていただきたいと、そう考えているのでございます。
生前の三ツ江殿……、貴女の御父君は店の手伝いばかりをされる貴女を姿を見る度に、貴女のこれからについてをとても気にされていらっしゃいました。このまま外を知らぬまま大きくなってしまい良いのかと、責任を感じて居られたのでしょう。
昨年は、他に手が浮かばなかった為に貴女の御力に頼る結果となってしまいました。本当に申し訳ございません。
私が怪我をした事に関しましても、それに貴女が責任を感じる必要など全くないと言うのに。貴女は本当に、三ツ江殿に似て御心の優しい方なのですね。
……ですが私は、貴女にはなるべく自由に居ていただきたいと考えております。』
『自由……ですか?』
『えぇ、そうです。』
亡き父があの場所を、どうして吉野宿に旅籠などを構えたのかを絹は知らない。父の言葉の真偽がどうであったかを知る術がないのと同じに、自分から訊ねた事もなければ、父がそれを語る事も一度もなかったものだから、その真意が全く分からないのだ。
それでも時折、夕暮れ時になると住処にでも帰るという合図でそれをするのか、山道の方から一際大きく、遠くまでよく響く同胞の遠吠えに、つい意識が傾いてしまう事が度々あった。そしてその後は決まって、自分を柔く見つめる父と目が合った。
『ですが私は、貴女にはなるべく自由に居ていただきたいのです。』
もしあの日々の中で幾度も目にした父の眼差しと、それが意味するところが、同じ意味を持つのであるとしたら、と。そんな身勝手な事を、自分にとってただ都合のいい事を絹は考えてしまった。考えてしまって、それから
『分かり、ました。』
昨年の秋、銀嶺は絹を連れて、到底荷運びに慣れぬ二人が運びきれるとは思えない量を荷車に詰めて、五匹の馬に引かれて甲州街道を経由する形でを目指した。
道中には当然の如く狼の群れに道を阻まれ、荷や馬だけでなく人の命まで糧にしてやろうとする彼等と対峙を余儀なくした。
が、荷だけでなく馬も無傷で何一つ奪われる事なく、銀嶺も絹も山道を抜ける事が出来た。
それは、絹が本来の姿で彼等へと立ち向かったからだ。
銀嶺という人間は、絹の生まれ持った姿をその時目の当たりにした。その一部始終を静かに見ていた。
獣と人が交わり間に子が為されるなんて事はない。なんだったら銀嶺は一度武蔵国にて、直接三ツ江の生家に偶々立ち寄る機会があり、三ツ江の妻を見た事もあるという。
人と人の間に生まれた子が、獣の姿で生まれ落ちるなど、ありえない話だ。
銀嶺という人間は、きっとそれら全てを知っている。絹が自分の口から語るのを憚るそれが何であるかを、本当は三ツ江と絹の間に血の繋がりがないこと、を。
それでも、それでも銀嶺は絹に対し、これまで通り変わることなく三ツ江の事を絹にとっての“父”と呼んだ。
たったそれだけと言われてしまえばそれだけなのかもしれない。しかしその言葉は、あの日あの場所で店を早く店を畳もうとしていた自分に掛けてくれた言葉と同じぐらい――いや、それ以上に心に深く、深く刺さった。
三ツ江の生家には、自分と背丈だけでなく外見もよく似た一人娘がいた事だろう。それらを全部分かった上で、西条銀嶺は絹の事を、“三ツ江 絹”と呼んだ。
そうだ。
だから、だから絹、は――――
「ですから私は一人でこうして再び榊扇の里に訪れたというわけ、なのですが。」
一人、絹は肩を落とした。
以前の自分をふと思い返してみると、ここまで分かりやすく何か体を動かしてまで落胆をするような事はなかったものだが、それは旅籠の給仕長として客の前で粗相やら取り乱してしまったり等を防ぐ為のものであった筈だ。
銀嶺の側で身の回りのあれそれを片付けるようになったが、客商売なり品を直接売り付けにやってくる商人や、安く仕入れようと買い付けに訪れる者も多く、それらをの相手をする内に今までのような反応の薄さは却って面倒だと考えるようになったのだ。
多少は嘘でも大袈裟に言ってみた方が、事が上手く運ぶ事もある事を学び、今となってはそれが癖付いてしまってついつい表に出てきてしまった、というところだ。
なんでも昨晩、里の中で凄惨な事故があったらしく、暫くの間は里への出入りは全て行えなくなっているのだとか。
同情を誘ったところで何の意味もない。
深くため息を吐いた後、しかし項垂れる事はだけはないままトボトボと、絹は近くの低い枝木に引っ掛けていた手綱を取りに戻った。
それからこちらを心配そうに見てくる、二匹の馬の顔を一撫でしてみせる。
(これははたして、里に入れるようになるのは何時になることやら……)
七月二十一日 榊扇の里・西門
絹は思いがけず足止めを喰らってしまった。
蒙霧升降、風知草 九話
弥代の意思が大主の元へと届くのに、そう時間は掛からなかった。複数人を介すことなく、速やかに伝達が行われた。
そこからの流れはあっという間であった。
意識を取り戻して数日の間は、二、三刻程度しかまともに起きている事が出来なかった弥代にとっては、少々酷に思えるほど慌ただしく屋敷内では出立の準備が行われたが、その準備も三日足らずで終わった。
予めある程度準備が行われていたとしか思えない(遅かれ早かれどうにか事は転ぶと踏んでいたのだろう)周到すぎる手際の良さには、思わず相良は苦笑いを浮かべざるをえなかった。
仮にも弥代は、あくまで七月二十日に起きた一連のそ騒動を、その元凶たる身内が犯した罪により、暫く里にいてはならない、縁座を免れる事は叶わなかった立場だというのに、だ。
否、相良はきっとこうなる事を薄々想像がついていた。
一万にも及ぶ民の明日を担う、多くを考えねばならぬ里の女主人という立場に、彼女・扇堂杷勿は在るからこそ出た言葉であるだけで、そこに私怨は一切ない。
寧ろ弥代のいなかった、古峯の兄妹を交えての席では孫娘が無事で本当に良かった、と本音をぽろり溢していた。
屋敷での支度が終わり次第、晩の内に弥代は屋敷から討伐屋へと移動をする手筈になっている。。
同時に、屋敷周辺に布かれていた立入禁止令が解除され、一時空き家状態となっていた家々や店に人が戻ってくる流れとなっている。
屋敷からそのまま里の門へと移動をするとなると、移動手段にもよるが少なく見積もっても一刻は掛かってしまう。夜半の移動とはいえ、いくら人目を避けようとも完全に避けるのには無理がある。現状の屋敷周辺だけで事が済むのであればそれでいいが、里の門まで人避けがされているわけではない。
それなら距離だけを見れば屋敷より二十町程離れた位置にあり、屋敷よりも少しばかし里の門に近い討伐屋からの移動が些かましであるという判断だろう。
屋敷の周辺には他所から大主との商談を目的に里を訪れた商人が泊まる為の、他と較べると少々値の張る立派な旅籠の他に、里の中でも大口の商家が店を連ねている。そういった場所には決まって夜遅くまで暖簾を掲げている飯屋もあるものだ。今はそこら一帯も人が立ち入れない状況となっている為に静かではあるが、立入禁止令が解除された後にそれらを避けるのは困難だ。
だから禁止令が解除となる前夜に先に討伐屋へ送り出し、その晩の夜半に里を出る算段となっている。
四月の暮れにあった鶴見亭を介しての揚げ屋の一件でも思った事だが、何ともまぁ一々手の込んだ事を考えると感心してしまいそうになる。
まるで幼子が親にバレまいと必死に、あの手この手出来る手を全て尽くして、それで悪戯を隠匿するみたいではないか。
随分と考えが若々しいというか、少々派手に見えもする大主の采配は、還暦は既に過ぎている者の考えと言われても俄かには信じ難いものだ。
ともあれ、支度が終われば呼びに来ると言われてから半刻程。今は確か屋敷のお針子が仕立て終わった服に実際に袖を通してと、最終的な調整が行われている筈だ。
わざわざ待つ為だけに、ここ暫くの間に間借りしていた部屋とは別の部屋を用意されたが、既に半刻を待った身の相良がこれ以上大人しく部屋で待つなど、当然出来るわけもなく。
廊下に顔を出して左右を要確認し、近くに見知った顔の女中がいないと分かるや否や、相良は早々に弥代のいる北の広間へと向かった。
入り組んでいて覚えるのに苦労しそうだと思っていた、複雑でややこしい造りをしている西区画さえももうお手のものだ。但し、屋敷の中でも厄介と名高い女中頭や上女中の姿が視界に入れば、見つかっては部屋に連れ戻されかねないと隠れたりを幾度か繰り返した。
迷う事は一切なく、記憶と体の感覚を頼りに突き進んでいく。最後に突き当たりの角を右へと曲がれば、それほど距離のない短い渡り廊下から、庭に面する広間の外郭が見えた。
と、目と鼻の先に広間の襖が見えてきたというのに、相良はその場で静かに歩みを止めた。自分の手が届くよりも前に、襖が静かな音を立て開かれたからだ。
「それでは、こちらで失礼いたします。」
長い前髪が垂れ布のようにするりと滑る。
会釈をした後、大きな袖口を顔の高さにまで持ち上げ、顔そのものを隠すようにそそくさとすれ違う、それが恐らくは屋敷のお針子であろう。すれ違い際にちらり見えた顔には、顔全体にひどい火傷痕が見えた気がした。
が、相良はそれ以上去っていった屋敷の者を目で追うこともなく、入れ違うように締められたばかりの襖に手を掛けた。
「失礼いたします。」
一言。
そして、部屋に踏み入るまでもなくその姿を視界にはっきりと収めた。
「よく、お似合いで。」
返事はない。
しかし相良の言葉に反応するかのように、その目がゆらり動いた。
「少し、驚いております。そういったお色は、あまりお好きではないと思っていましたので。」
一際目を惹く、赤を指す。
屋敷が用意しているだけあってか伊達襟ではなく初めから縫い付けられた重ね襟だろう。
少し前までは上布の反物で仕立てられた物に袖を通していたり、今の時期にはまだ少し早過ぎる気がしなくもない装いではあるが、暦が八月を迎えているという事はこれからあっという間に肌寒さを覚える秋へと移り変わる。
一箇所に長く留まるわけではないし、暫くの間は宿を借りるか、日によっては野宿をせねばならない可能性を考慮するのなら、夏場の薄手よりは適切やもしれない。
「別に……、好きで選んだわけじゃねぇよ。」
視線がかち合ったのは束の間のこと。直ぐに逸らされた視線を下手に追いはしなかったが、相良は弥代をその視界に収めたまま次の句を紡ぐ。
「貴女が赤を纏うのは、とても意外です。」
それは、“色持ち”であるが故か。
特に弥代は自身の髪色や瞳の色よりも鮮やかな色を纏うことをこれまで避けている風に相良の目には映っていた。
四月に見た、春らしい華やかな色合いの装いも少々意外ではあったが、後日聞いた話ではあれらは自分で選んだものではなく、姉が贔屓にしている呉服屋であれこれと勝手に選ばれたものだったそうで数えはしない。
相良がこの里において初めて弥代を目にしたのは、昨年の扇堂家の縁談話に巻き込まれた際、榊扇の里が祀りあげる貴き存在、神仏・水虎と対峙をする羽目になったその時だ。
身元も素性も分からぬ者を屋敷内において野放しにしておけないと、目覚めるのを待たずに屋敷の西側にあるという地下牢に一時隔離されていると聞き及んでいたというのに、少し目を離した隙にいなくなった春原に抱えられる形で、地下牢からどうやってか出てきたのであろう弥代と鉢合わせたのだ。(しかし神仏と祀られる存在を相手に、ただ刀を振るえるというだけの人間が到底力が及ぶわけがなく、相手の怒りを鎮める事も敵わぬまま、春原共々気を失うに終わった。)
随分と褪せた色をした格好をしていた。
今更その格好が、真っ当な生き方をしていればしないだろう浮浪児のそれに見えたのは触れるつもりはないが、大方それ一枚しか着れるものなど持っていなかっただけやもしれない。
扇堂家から誘いを受けて、榊扇の里に移り住んで暫くした頃の、芳賀に招かれる形で討伐屋に上がり込んでくるようになった際も、全てが全く同じ色というわけではないながらも、鮮やかな色をどこか避けているように見えた。
最近になってわざわざ新調したのだという羽織や夏物も、これ迄同様に色味は大変抑えられており。
そういう色が好み、と言われてしまえばそれまで。そうなのだろうで終える事も出来る話ではあるが、恐らく弥代は別に好みであるからとそれらを選んでいるわけではない。意図してか、あるいは無意識に避けてきたであろう色を、この時になって選び纏おうというのは、そういった影響があるのやもしれないと思えてならないのだ。
だがそれ以上、相良の望むような反応を、弥代が示すことはなかった。
弥代は、それを見ていた。
そんな事が起こりうるのか、と目の前の光景をどうしたって受け入れきれぬまま、それでも見ていることしか出来なかった。
ゴキッ、とやたらと派手な音が届いた時にはもう、彼女の体はあらぬ方向へと折れ曲がっていて。
それを目の当たりにしてからやっと、今さっきの音はきっと骨でも折れてしまった音なのだろう、と。そう、思えた。
居場所を失った血が、勢いよく一斉に噴き出し、白が赤へと染まっていく。
それまで地に足を着けていた彼女は、微かに宙に浮かんでいるようにさえ見え。下肢を伝い落ちる血が、真下に血溜まりを作るのはあっという間の事で。
もし仮に今、自身が駆け寄ったところで何の意味がないことを、救えぬことなど分かっていた。
未だに腕の中にいる、友人のその身を按じつつ、状況の全てを、どうしてこうなってしまったのかを、その原因を、意味を、弥代は必死になって無意識に探していた。
徐々に徐々に目の前でひしゃげていく、原型から随分とかけ離れていく有り様はあまりに惨たらしく。
それは、彼女を模っていたその全てがなくなる瞬間まで続いた。
そうして、そこには血溜まりだけが残った。




