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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
中篇・菊花開、霽月の徒路(全50話)
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七十一話 暗闇

 何時(いつ)、どのようにしてこの場所に辿り着いたのかさえも(さだ)かではない中、そんな状態でも一つだけ、はっきりとした感覚を(さが)()は忘れられずに過ごしていた。

 “色”を持ち生まれた身でありながら、傷の治りは人並みよりも遅い。それ(ゆえ)にどれだけ忘れたいと望もうとも忘れる事の(かな)わないモノを自分は多く抱えている自覚がある。ただそれだけであれと願う反面、それだけが理由な訳がなかろうと、否定に走る自分が何時(いつ)だっている。

 そう――、だ。

 だから今になって、今も(なお)、相良の中にはそれが深く、自分自身のことであろうとも気付くのにさえどうしても時間が掛かってしまう程までに深い場所で根付く、それを解決することすら出来ない。

 心の在り(よう)などというものは、三歳になるまでに決まるものという考えが存在する。

 それに(なぞら)えてしまうのなら自分の在り様というものは、そうだ、(まさ)しくあの人によって定められた、(しめ)されたそれ以外を知らずに、広い世界に触れながらも(せま)き枠組の中でのみ生きてきた。あまりにも救いようがない。

 知れる機会は其処(そこ)(かし)()にあった。でも自分は、(さが)()()(ろう)という子どもはそれを選ぶことはなかった。

 だって当時の彼には――自分には、祖父という存在がいたから。

 生まれて間もなく、運悪く賊の手に掛かり絶命したのだという両親に代わって、誰よりも深い愛情を持って(せっ)してくれる、“色”を持って生まれてしまった忌むべき(存在)を、ただ血の繋がりがあるからという理由だけで手を差し伸べてくれる、見捨てることなく側にいてくれる尊き存在。

 疑いようがなかった。疑う理由など何一つ、持つ資格すらも自分は持ち()ていなかったのだから。



 ()(ない)(とど)まることを知らぬ、西条家が用意した手形が(もたら)す、威光と恩恵の大きさにただただ相良は驚かされた。(いや)、しかし。しかしそれよりも、そんな事よりも驚かされた事が相良にはあった。

 動けないでいる、一晩()っても意識を取り戻すことのない()(しろ)を抱えることしか出来ずにいる自分に代わって、春原(すのはら)がそれをやってのけた事、だ。

 出雲国(いずものくに)でこれからの段取りを、複雑に入り組んだ複数の街道(かいどう)(かい)し、南下を目指す、その一連の流れを確実にする為に彼の横で地図や、(ひと)()てに()き得た内容をまとめ上げていた、目星をいくつか立てていた(はた)籠屋(ごや)に関しても(しか)り。度々相良が復唱をしていた、それを覚えていたのだろう。

 山間部は夜半に急に雨が降る事が多く、足元を掬われかねない状況に見舞われはしたものの、夜間は閉まっている事の多い関所を(かい)さない形で、備後国(びんごのくに)へと日の出を待たずして至れた点も大きい。

 更には夜半より朝方に駆けては雨宿りの為に一時(いっとき)だが旅籠を利用するも、そこから相良が(ふところ)へとしまっていた手形を抜き取り(もち)い、それが唯一使える(りょう)(がえ)(しょう)の店に移動し、部屋を貸してほしい(など)、と。

 その様な手を相良は使ったこともない。一体どのようにして彼がそんな手を知るに至ったのかについては気になる(ところ)ではあるが、今はそれに()ける頭を相良は持ち合わせていなかった為に目を(つむ)った。

 あぁ、それより……も。そんな事よりもやはり何よりも、相良がいま気に掛けねばならない存在が、今は他に()た。忘れたわけでは、ない。

 敷地の奥まった場所に位置する、二階の六畳ほどの物置部屋。普段は人が踏み入ることがないと少々埃っぽさが目立ちはするものの、物置といってもそこまで荷が散乱していたわけではない部屋の中。厚意に甘える形となり片付けてもらった(あと)、部屋の中には一組の布団が()かれ、そこに静かに息をし横たわる存在がいる。

 (おと)昨日(とい)のやり取りが原因となり一時だが自分の前から姿を消した、昨晩(さくばん)やっとその(ゆく)()の手掛かりが掴め、その場所へと自分が(おもむ)いた事で見つけられた存在――、だ。

 死んでなどいない。命があるからこそ微かにだが、耳を澄ませていなければ聞き取れないぐらいのあまりにも小さくだが、呼吸をしている音がする。大して重たくもない掛け布団が僅かに上下するのも(しか)と、息が出来ている、生きているなによりもの証明だ。

 それに安堵をしたい気持ちがないことはないのだが、今の相良からするとそれは(いささ)か難しい。

 その身が既に、自分の手ではなく事情をある程度知ったこの家の女性の手を借りる形で(きよ)められた後であるのを知った上でも、それでもそれは難しい相談なのだ。

 何時(いつ)、一体いつになれば彼女は目を覚ますのだろうか。

 少しでも早く目を覚まして安心させてほしい気持ちと、いざ彼女が目を覚まして、その時になってまた一昨日の様に拒絶を示される事を恐れている自分がいる、(せめ)ぎ合いが自身の中で起きている事を自覚しつつも、相良はその部屋から動けずにいた。

 朝方に()()んだと思っていた雨音がまたしても響き、部屋の中にでも入り込んでくるかのよう。

 向き合い方を、接し方を一瞬でも忘れてしまった。迷い、正しい声を掛けることが出来ずに彼女の心を傷付けてしまった、そんな自分がこの場所に居続ける、深い眠りから彼女が目を覚ますその時を待ち望む。その資格が自分にあるのかさえも分からない、誰一人としてその答えを自分に教えてくれる者がいないのを分かっていながらも、相良は留まることを自身の胸の(うち)に決めた。






 菊花開(きくのはなひらく)霽月(せいげつ)徒路(かちじ) 四十六話






 怖い、目に()った。

 遭った、と言ってしまうとそれはもう過ぎ去ったことに、終わった事のように思えるかもしれないが、実際にもう終わったかどうなのか、というのが今の弥代には分からなかった。

 ただずっと、ずっと静かな場所にいる。

 ポツポツ……ポツポツ……と、雨音だけが聞こえる。

 誰の声もしない、物音一つ聞こえないような場所で一人、どうやら横になっている。

 (いや)、耳を澄ませてみると時折、木の音……だろう、か?

 いつだったか誰かが、雨の日は木で出来た家というものはギィギィと、どれだけ手を打ったとしても(きし)んでしまう様になっていて、それを仕方がない事、慣れるしかない事なのだと言っていた。

 そうだな、と思う。同じ、ではないと分かっているが似ている。どれだけ手を打ったとしても勝手にそうなってしまう事は仕方のない、慣れる事でしかやり過ごすことが出来ない事が大なり小なり、生きていればそんなのは()(まん)と、人によってはきっと数えられないぐらいあるのだ。

 長く暮らす、生活を送る上では欠かせない、雨風を凌ぐ為の家々がそうなのだから、受け入れてしまった方がずっと、ずっと楽だろう。

 だからそう、だから弥代は諦めようとした。

 いくら抵抗を続けたって、どれだけあの場所から逃げようとしたって抑え込まれて、嫌だとどんなに泣き喚いても、意味もなくごめんなさいと謝ってみたって、痛い思いをさせられ続けた。

 (あらが)ったから、こんなのは、二人が待っている場所に帰れないのは嫌なんだ、と。

 (つくろ)える、自信があった。こんな目に遭うのはなにもこれが初めてではないのだか、ら。

 何事もなかったかのように振る舞い、これまで通りの旅を、目的地として据えている旧国までの旅路を(とどこお)ることなく再開させることが出来る、と。心配をさせてしまった事にはキチンと謝って、許してもらえる時までいつもよりも物分かりが良さそうな態度を見せて、そうしてそれで上手く、上手く誤魔化せるだろうと信じていた。

 でも、次第に。そう次第――に。

 時間が経つに()れて、どうして自分が、自分が二人と――相良と春原のいないこんな場所で怖い目に遭っているのかを、徐々に弥代は思い出してしま、い。帰りたい、二人が待っている場所に帰りたいと願う一方で、本心では帰ることを(こば)んでいるんじゃないか、とそんな事を考えだしてしまった。

 だって物を奪われた、大切にしなくちゃいけないと大事にしていた物を目の前でチラつかされた時、弥代はそれまで力の入らなかった体を駆使して、奪い返そうと掴み掛かる事が出来た。頭を狙われ殴られるその前まで、二、三人はいた男達にのし掛かられはしたものの、その程度で大人しくなることはなかった。

 やれば出来た、心の奥底から逃げたいと考えていたのなら絶対に逃げられただろうという確信が、静かな場所で横なっているだけの今の弥代にはあった。

 ――そう、だから。だからこれは、これは仕方のない事。

 今は静かに過ごせているけども、もしかしたらこれは夢の中で、目を覚ましてしまったらそれで、またあの続きがあるのかもしれないと思えば少しでも、体を動かそうという気が湧いてこないのは、多分弥代じゃなくても、同じような目に遭ったことがある人なら同じだと、思いたい。

 雨音と、木々が時々軋む、音。

 それに意識を傾ける。

 本当に、怖い目に遭った。

 なんというか、実に運が悪かった。

 あんな、あんな風に扱われたのは恐らくこれが初めて、だ。

 執拗なまでに名前を呼ばれる。教えた覚えのない、見ず知らずの相手に名前を連呼された挙句、最終的になにが行われるかは分かっているというのに、そこに至るまでの時間がひどく、どうしようもなく長ったらしく感じた。触れていない箇所なんてもう何処にもないんじゃないのかと思えるぐらい、余すところなく撫で上げられた後の肌には、それに何の意味があるかも分からぬ儘、口を寄せられた。

 寝入っていた処で雨に降られたのに気付けず、そのままで暫くして目を覚ました時に肌を這い回っていた蛞蝓(なめくじ)の見つけた時のぞわぞわとした感覚に似ていた。

 それは表面上だけに留まらず、先刻の仕込みだ何だと言って股を(いじく)り回してきたあの男と似たように。他に抑えてくる相手がいなかったものだから、腕を動かすのは相変わらずひどく痛みが強かったものだからいくらか自由が効くようになった足を使って拒もうとしても、力の入りきらない足でどんなに弥代が蹴っても、しんすけ(、、、、)と態々自分から名乗ったあの男は、弥代の股から目を逸らすことなく、笑みを浮かべるばかり、で。

 昨晩、も。昨晩も目にしたはずのそれは(否、目にしたモノが多すぎてどれがどれであったまで覚えてはいないのだが)、その中でも一番に大きいと思っていた、熱を持つそれが少しして()てがわれる、(にぶ)い痛みばかりで、これまでは耐えられた、それぐらいならと我慢出来ていた筈の箇所に走った痛みは、あまり覚えのないもので。

 逃げようとした、そう、弥代は逃げようとしたのだ。

 でも、身を捩るのにはどうしても、あの体勢からでは、逃げようとするのに肩周りにどうしたって意識が向いてしまい。勢いよく回りはした体も、苦手とする痛みに止まってしまった。止まってしまい、そうして、一度止まったと思った相手の動きが、相手の手が腰へと伸びてきた次の瞬間、強く後ろへと引き戻された。

 元々そんなに離れたわけじゃない。身を捩っても動けたのは些細なものだった。腕を前に出して、それで身を引き寄せるように、這いつくばるようにして逃げる事は痛みによって出来なかった。だから、だから止まったまま。男が弥代の股の中心へと、それを強引に押し進め潜り込んできた、奥の奥で留まった、そこが限界であると挿し込まれた弥代自身だって分かる場所だったのに。

『昨日よりもちゃんと、奥まで入ったなぁ?』

 背を向けた体を後ろから抱き抱えられた。最初に戻ったのかと錯覚しそうになるぐらい、また執拗なまでに名前を、弥代の名前を口にして、やけに粘ついた、どろりとした唾液で口の中をいっぱいに、腰へと打ちつける勢いが収まってくれることはないまま、自分よりもずっと大きな体に上から乗られ、押し潰されそうに何度も、何度もなって――――、

(夢だったら、良かったのに。)

 そこまで思い出して、そんな事を考えてしまう。

 思い出す、その鮮明さが夢などではなかった、紛れもない現実に起きた事なんだと自分に突きつけてくる。まったく優しくない。優しさなんてこれぽっちもあったもんじゃない。

 否、優しいと思う。だって今の弥代が見ているこの夢の中では誰も、誰一人として弥代の近くにはいない。だからこそ、だからこそ雨音と、木々が軋むだけの音がずっとしていて、それ以上余計なモノなんて何一つありはしないから静かに、弥代は穏やかに過ごすことが叶っている、それが出来ている。

 目を覚ましたいと思わない。あんな、あんなのの続きがあるなんて御免だ。

 頑張る、と。向こうが満足するだけの金を稼ぐことが出来たのならそれで自由だ、と。二人の元に戻っていいなんて事を言われはしたものの、それが一体いつになるのかすら考え直せば直すほどに分かったものじゃない。

 覚えがどうのこうの、と好き勝手言われた。でも弥代は覚えが悪い方だ。見様見真似をした方がずっと身につけられるけども、似たような事をしている相手を見たいなんて気持ちは先ず浮かばない。それならずっと、言われた通りに大人しく過ごしていた方がいいのだろうがきっと、途方もないぐらい時間が掛かってしまうかもしれない。

 こんなのが、こんなのがどれぐらい続くのかを、そんな事を考えずには居られず、だからつい、つい弥代は、確か。

『助けて……、相良さんッ』

 馬鹿だな、と。そう、思う。

 そうか、そうだ。あの男と二人きりになって(しばら)くして、弥代は珍しいことに助けを乞う言葉を口にした。ふざけ半分だとか、冗談混じりなんかじゃなく、心の底から助けを求めた。

 そしたら、それで、男はひどく激情した様子を見せたわけだがそれよりも――、

(そこは相良さんじゃなくて()(かた)のが絶対助けてくれるじゃんかよ。)

 夢であるのをいいことに、そんな事を考えてしまう。

 失礼だな、という考えはあるのだが未だに、弥代は未だに春原よりも前に出てどうにか事を収めてみせようとする相良というのを見たことが、相良が強いのだと感じる場面に遭遇したことはない。

 駿河での時、相良の肩を持つような態度を示す春原を前にして、自分よりも腕があるだろう春原が向こう側に付くという不利な状況の中、小耳に挟んだ限りでは討伐(とうばつ)()の中でも春原に()いで相良は腕があるらしく。余計、に。自分一人でどうこうというのは難しそうだな、と思い大人しくしてはみたものの、あれから二月(ふたつき)程は()つ、三人きりでの旅路が始まって半月程が経つ中でも相良の実力というのを見たことは一度もない。

 だから、誰に邪魔されるわけでもない今、今この時に、悪いとは思うのだがそんな事を考えてしまう。そう、今だから、こそ。

 でも、そんな弥代が実力を知らない、一人でどうこうとした事のない相良が自分の手を、他の誰でもなく弥代に向き合ってくれたのは紛れもない事実、で。

 一月(ひとつき)程前の事があったからこそ、あの満月の晩の出来事があったからこそ、弥代に相良が向き合ってくれたからこそ、弥代は先ほど相良の名前を口にした。相良の名前を口に、彼に助けを求める声を漏らしたんだ。

 よっぽど、だったんだろう。

 日頃、何かにつけて内心で助けを乞うことはあっても、内心で済むものなんてたかだが知れている。そんなに必死になるモノじゃなく、時間が経てばどうにかなる事の方が多い印象だ。だから態々口に出していた、自分でも後になって思い出して分かるぐらいに、そうなってしまう、という事、は。

(アレからどれぐらい経ったんだ、ろう?)

 男達の前で素っ裸にされて転がされていた、それが自分が相良を殴ってしまったのと同じ日の出来事であるのなら、大柄なあの男と二人きりだったのは翌日の事である筈、だ。

 落ち着いた、落ち着けている、今。

 夢の中で見つめ直す、時間を掛けてゆっくりと振り返る事が出来た今ならば、もしかしたらどうにかなるんじゃないかという考えが少しずつ浮かんでくる。(いや)、もしかしたら目が覚めたら夢の中で考えた事を綺麗さっぱり自分は忘れてしまって、なんて事も起こりうる。今だけ、それは今この時だけしか思い浮かぶことのない、そういったモノであるかもしれない、が。この後に(およ)んで、この後に及んでも未だに奥底で諦めきれていない自分がいることに(いや)()が差す。

 泣きたく、なる。夢の中だから誰も、誰にも止められるなんて事はないだろう事ぐらい弥代は分かっているが、もう散々泣いた後だ。上手く泣けるとは思わない。

 そう思ったら後が早い。目は瞑ったままであるのに、じんわり、気付いた時にはもう熱が集まっていて。それは、それはとても分かりやすく、堪えきれるわけがないものだからちょっとすれば直ぐに、すぐにでも(あふ)れ、零れ落ちてしまうものを弥代だけではどうにも、どうしたって抑え込む事が難しそうな代物、で。

 でも、その時。

 その時、弥代は自分の手に触れる温もりがあることに気付いてしま――い。

 やっと今になって、どれだけ時間が経ったのかも分からない、ずっと閉じていた重たかった瞼を持ち上げ、て。そうして、そうして彼を見た。

 深く、深く安堵する。

 息が一気に軽くなって、それでやっと、やっと自分が満足に息すらも吸えていなかった事に気付いて、それをすんなりと認めることが叶い。

 途端、今まで自分が現実に起きたと思ったそれら全ては、ただの夢だったんじゃないか、と。悪いことをしたから、謝らなきゃいけなくなるような酷いことをこの人にしてしまった、から。だからそれで、そんなだったもの、だから怖い、長い夢を見ていたんじゃないか、なんて。

「相良…………さん?」

 驚いた顔を、している。

 大きく(かたむ)いている目器(めき)と、いつもとは違って崩れてぐしゃぐしゃになった前髪が余計に、彼の驚きが嘘などではないと(うった)えでもしてくるように見えて、しまい。

 自分がどれほど、あれからどれぐらい寝入っていたのかを、心配してしまう。

 そうか、だから彼は、彼はこうまでして驚いているんだ。

 一晩じゃない、きっと半日とか、一日とかそれぐらい。寝入る前の記憶は、おやすみなさい、といつもの様に声を掛けてもらった覚えはないものだから、それが何時(いつ)であったかさえも弥代は未だに分からないが、分からないのだ、が。でも、大丈夫だ、と。もう、大丈夫なんだ、とそれを疑わない、疑いようがない。

 目を覚ましたらこの人がいてくれた。弥代の手を取って、弥代が目を覚ましたそれを泣きそうになりながら見守ってくれ、て。なんと抱きしめてまでくれる。少しだけ強引、に。回された腕、背に回された腕がある箇所を掠めたその瞬間、息が一瞬、止まった。

 痛く――、痛いわけじゃ、ない。

 そんな、そんなワケないのに、だって今まで弥代が耐えがたいと思っていた、でも堪えねばならないと思っていたそれら全部は現実には本当は起きていない筈、なのに。

 反射的に腕を捩じ込んで、突っぱねてしまう。

 またしても、同じ(あやま)ちを重ねてしまう。違う、違うんだ、こんな、こんな事がしたいんじゃ本当はないんだ、と首を振る。暫く鳴りを潜めていた涙が、またポロポロと、ポロポロと溢れてきてしまい、なんだか、胸の奥が苦しくて堪らなくなる。

 言えたらいいのに、さっきは声が出たのに思い通りに出てきてくれない。自分の体に覆い被さっている掛け布団に指先を突き立てて、その軟い感触に埋もれるように顔を伏せって、震えが落ち着くのを弥代は待った。

 時間が経てば経つほど、ちょっとの(あいだ)だけ出てこなかった声を絞り出すことにやっとの思いでせいこうして、でも出てくる言葉はどれも、どれも「ごめんなさい」の五文字だけ、で。

 言っている、口にしている弥代自身がそれの、それが意味する処を何一つ理解していないのだからそんなの、そんなのが彼に届く、通じるわけがないと分かって((いや)、彼は――彼は弥代自身よりもずっと、ずっと弥代の事を理解してくれている筈なのだから)、分かっていても――――それでもッ‼︎

「ごめんなさっ、い…………お、俺……ッ、おれ……俺がっ、」

 甘えている。弥代はずっと、今も相良のそれに甘えたまま、だ。











 触れてはならないことぐらい、相良は分かりきっていた。

だから同じ部屋の中に居続けても、彼女が横たわる布団の傍へと近寄ることなく、近付いてなどしまわないように襖の前で、背を正し、目を覚ますその時を待っていたのだから。

 だというのに、それを崩してしまう事などしてはならなかった筈なのに、体が動いてしまった。

 布団の中で身を捩り、小さくだが息苦しそうに呼吸を乱す、自分が幼いと見た彼女が、悪夢にでも魘されてでもいるような様子を見せるのに、それに我慢ならず体が動いてしま、った。

 端を捲り、中にあった筈なのに不思議と冷え切った、冷たくすら感じる手を両手に取らずにはいられなかった。

 切り揃えられてから悠に()(つき)()とうというのに、伸びるが人よりもずっと時間の掛かる、眉に掛かるか掛からないかの、(まば)らな前髪の下で刻まれる、隠しようがない皺が子どもの顔にして色濃く。

 こんなにも苦しんで尚も、目覚めてくれないその理由がなんであるか、それがなんであるかが相良には、(いな)、相良は(いや)という程、その原因が分かっている。

 今も、まだ残る。見ず知らず男目掛けて振りかぶった拳の、肉を打つ感触がありあり、と。

 だから思わず、思わず弥代がやっと、やっとその重たい瞼を持ち上げた瞬間、相良は動いてしまった。触れてはならないと思った、驚かせるような、怖がらせるような真似だけは絶対にしてはならないと頭では分かっていた、分かっていた筈なのに我慢、ならず。

 顔を見られぬようにする為、か。布団に顔を擦り付けるようにして、しかし譫言のように、ごめんなさいと繰り返す様があまりにも、あまりにも痛ましく、それは、それ以上は拙いと分かっていたにも関わらず相良は、相良はそれから目を離せぬまま、血の気が一気に()せていく感覚に襲われながら、声一つ漏らす事も出来ぬまま――全てが、途絶(とだ)えた。

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