七話 新月
何と、言ったか?
地震、雷、火事、親父とかいう言葉は、確かそれは恐ろしい順に並んでいるとかそんな。
雷が落ちたわぁ、と溢す白髪頭を一瞥。今まで隠れたことも頼ったこともない大きな背中。その肩口からほんの少しだけ……、そうして彼の先で肩を分かりやすく窄めて、無言を貫いている存在を弥代は見た。
それは寝台の上に上体を起こしている春原で、そんな彼の更に奥には相良がいた。
何だかそれだけでもう、何となく今し方コチラにまで響いてきた声の主も、それが先刻同様に上手く聞き取る事は出来なかったが、どのような趣旨のモノであったのかが理解出来てしまった弥代は、覗き見るのを止めて浮かせた腰を静かに下ろした。
「そういう言い方あるよな?」
「あるねぇ?内の二個なんやから恐ろしゅうて見てられへんわ?」
「へーぇ、何か意外だな?てっきり肩持つのかと思ってたわ?」
「時と場合があるやろ?」
「……ふーん。」
あっさりと見捨てるような口振りのくせして、勢いよく広げた垂れ布の(窓掛けと呼ばれる、障子変わりのようなものらしい)、その先を気に掛けたような反応を示す和馬に、弥代は素直じゃないな、という感想を抱いた。
間違って口にしようものなら、筋張って堅い拳で側頭部をゴリゴリと挟まれかねない。でも同じ気持ちを言葉にしなくても分かち合いたい気持ちが今の弥代にはあった。それからチラリ、左手を見遣る。
と、そこには春原同様に寝台の上で上体を起こした、春原とは違って肩を窄めているからではなく、単純に日頃から猫背で曲がっているだけの和馬よりも一回りは大きそうな大柄な男・館林が居た。そして弥代と目が合うなり、弥代の意図を汲んだかのような反応を示すと、開いていた右眼を閉じた。
「全く……、ですねぇ。」
雪那が目を覚ましたのは、七月二十二日の明け方の事。
治療の必要そうな怪我が見られない事は、意識が戻らない二十日の晩の内に彼女の身の回りの世話を行う下女によって確認が済んでいた。
翌朝の明け方には、屋敷外から呼ばれた医師によって再度様子を診られたが、安静にさせておけばそれで問題はないと医師の見解が述べられ、彼女の周りの者はそれに従う形となった。
しかし此度、彼女が普段生活を送っている東の離れは、屋敷への侵入者の手によって、所々が破壊されており、その様な場所で休ませるわけにはいかない、と。彼女がこれまで自ら立ち寄る、足を運ぶ事のなかった屋敷の西側へと運ばれる事になった、そうだ。
目を覚ました直後、暫くは何とどれだけ呼び掛けられても大して起伏のない、薄い反応しか返す事が出来なかったが、半日も経つ頃には、これまで通りの反応を雪那自身は返せてるつもりになっていた。
そうして求めるままに、和馬に様々な事を問うた。
それは自分の置かれている状況や、屋敷の現状。知らねばならない本当の事から避けるように、普段なら訊ねもしない些細な質問を繰り返して、そうしてその日はやり過ごしてしまった。
翌日、七月二十三日。
前日の自身の逃げの姿勢が良くないものであると自覚があった雪那の取った行動は早いものであった。
自分の傍に当たり前の様にやって来る、和馬と下女の戸鞠に対してお願いをした。
和馬にはこれから足を運びたい場所がある、其処への同席を。戸鞠には自分の世話ではなく、屋敷の奥隅で休んでいるという友人の、弥代の面倒を見た上で伝言を託したのだ。今の雪那にとっては必要な事、必要な線引きであった。
「一時、弥代さんにこの里から離れていただく事は、叶いませんでしょうか?」
言葉にして、漸く自分が可笑しな事を述べている事を、雪那は知った。
里の、屋敷外に及んだという被害状況の確認に、屋敷周辺に暮らす者は一時的に退避が命じられているそうだ。
これまでになかった対応である為に、里に身を置く民の不安は計り知れた物ではない。下手に民を不安にさせる事を毛嫌う、どうにか屋敷内に事を留めて対処をこれまで講じてきた里の主人が、止むを得ずそうまでしなくては状況の確認が行えぬ程の惨事。
傍らに控えた、その場において自身が前もって同席を望んだ、和馬に一つ一つ確認を取りながら、雪那は淡々と自身の祖母・扇堂杷勿に自身の要求を述べた。
一万にも及ぶ民の、今日だけはなく明日の事さえも考えねばならぬ、視野に入れた上で話にいつだって挑まねばならぬ大主の重責がどの様なものか、自分がそれを直接背負った事がない故に分からなかったが、此処の処は里の方々へと扇堂家の遣いとして足を運ぶ機会が増えたものだから、少なからず分かったつもりで雪那はいた。
祖母の負担を今以上に増やしたいわけでは決してない。だとしても、それは今の雪那にとっては譲れぬものであった。
「自分が何を言っているのか、分かっているのかい、アンタは?」
案の定と言っていい返答だった。
心のどこかで、そんな返しが来るだろうと想像がついていた。だから雪那は予め用意してきた言葉を並べた。
「弥代さんに里から離れていただいた方が、きっと都合よく事が運べるのではないかと、私はそう思ったのです。」
それで誰よりも心が穏やかでいれるのは他でもない自分だ。しかし雪那はそうは決して聞こえぬように、言葉を選んだ。
「里がこの様な状況にある中、落ち着くまでの間ずっと屋敷内で匿い続けるのも無理があると私は思えます。」
「既に弥代さんの身内の方が、あの晩に何かをした、と。そういった噂も出回っているのだとすれば、事が起きたこの時期に深い関わりのある弥代さんを屋敷に置くのも賢い選択とはどうにも思えません。」
「春先のお婆様が床に臥せっていた件に関しても、なるべく外部に漏れぬように、としていたそうですが、それでも一部には漏れてしまったとお聞きした事もございます。」
「他に隠す場所がないからと、一時凌ぎに屋敷の奥へと追いやる行為は、あまりにも短絡すぎやしませんでしょうか?」
「そこの処を、お婆様はどの様にお考えなのでしょうか?」
なるべく感情を乗せぬように、と雪那は務めたつもりだ。それでも幾らか乗ってしまうものはあったのだろう。クツクツと喉奥を揺らしてみせたのは、祖母としてあるいは榊扇の里の主人としての立場、どちらによるものか。その真意はどうあれ、雪那は自身の要求が通る事だけを強く望んだ。そして、
「そうだねぇ……お前さんの言う通りだよ雪那。一時凌ぎにしかならんだろうよ。ただ、もう少しして本人が目を覚ましたらね、あたしも何処か他所に行ってほしいっていうのを伝えるつもりでいたんだよ?
いやいや、駄目だねぇ?まさかアンタの口からそんな言葉が出てくるなんてあたしゃ考えてもなかったもんだから、おったまげちまったねぇこりゃぁ?本当に、ねぇ……、」
――誰に、似たんだか
態々口元を軽く覆って溢された言葉だが、その言葉を雪那の耳はしっかりと拾っていた。
否、違う。どちらかといえば雪那は、
『一時、弥代さんにこの里から離れていただく事は、叶いませんでしょうか?』
(…………弥代、さん。)
呼べな、かった。
それは単に、それが祖母の、この里の主人の前であったからなだけかもしれない。思い返してみると、自分はこれまで一度も扇堂杷勿という人間の前で、弥代のことをいつも呼ぶみたいに、“弥代ちゃん”、と呼んだ事はない。
祖母とこうして直接言葉を交わすのさえ、何だか随分と久しぶりの事に感じる。どちらかといえば実の祖母よりも叔母にあたる分家の扇堂美琴と言葉を交えている方が多くあった。
だからなのだろう、と自分に言い聞かせる事は、理由を見繕う事は存外難しい事ではない。でも雪那はそれをしなかった。自分の意思で、それを今はしたくない、と思った。
弥代と、距離を置きたい。
出来るなら直接その顔を見たくない、その声を聞きたくない。これまでどのように接してきたのかを忘れたてしまったわけではないが、これまで通りに何事もなかったように接せられる自信が、雪那にはどうしてもなかった。それだけ、なのだ。
何もそれは、あの晩の事を思い出したくないとか、そんなわけではない。そんな事は許されない、許されていいワケがないのだ。
ただ、本当に。
たった一つ、その現実を受け入れるのに覚悟が足りない、だけで。
今の雪那にとって、弥代と直接関わると言うことは、受け入れきれない現実にどうしても向き合わねばならない事を意味してしまう。だからどうしても距離を置きたかった。
蒙霧升降、風知草 七話
顔を見ない、言葉を交わさないつもりでいたというのに、何故か手を伸ばしてしまった自分がいた。
もしかしたら軽く前髪を払い除ければ、今までも数回しか直接お目に掛かった事のない寝顔が拝めるかもしれない、なんて。ちょっと前の自分ならその機会をよく狙っていたものだから、そちらの方がすこしだけ勝ってしまっただけかもしれない。
自分の今の思いとは裏腹な行動が突然出てしまったものだからやや驚かされていると、自分へと伸びた何かの気配にでも気付いてしまったのか、相手は小さく身動いだ後、薄く瞼を開きながら雪那の名前を呼んだ。
揺れる短めの前髪は、ちょっと前に切り揃えてもらったとものだと話していたのを、覚えている。記憶にもまだ新しい。
「…………あ、れ?」
薄暗い月明かりも差し込まない部屋で、慣れぬ寝台を前に。しかし高さが丁度良かったのだろうか?寝台に上半身が凭れるように、俯せの体制で寝息を立てていたのは弥代だけではない。弥代の近く、似たような体勢で同じ様に和馬も寝息を立てていた。
あぁ、そうである。元々雪那は和馬を迎えにこの部屋に訪れたというのに、それがどうしてだか目的の和馬ではなく、弥代の方へと意識が傾いてしまった。
顔を見たくない、声を聞きたくない、暫くの間は関わりたくないと思った、弥代に意識が傾いてしまったのだ。
「……えっと、ぁ……雪、那?」
今の、まだ受け入れる覚悟の足りきっていない自分が弥代と会うという事は、それを受け入れねばならぬ事に繋がってしまう、と雪那は間違いなく考えていた。そうであったはずなのに、それはどうにも不思議な感覚、だった。
(…………アレ?)
その姿が、どうにも頼りなく見えた。
自分がよく知る、弥代という相手からあまりにも掛け離れて見えてしまった。それが、それがどうしてかは分からないが、何故だろういざその姿を前にしても、雪那が考えていたような、覚悟が足りないが故に受け入れねばならない現実というのも、今この時は思えなかった。
「…………。」
自分がまだまだ未熟であるという自覚が、雪那にはあった。話す内容を元からしっかりと決めていたなら、ある程度はそこから逸れる事なく、自分の考えや意思を伝える事は出来るようになったが、はっきりと定まっていない事柄の前では揺らいでしまう事が多々ある。
一番身近にいる和馬からさえも、話が突然逸れてしまう事を指摘されたのは何度もあった。
だから、だからこの時、雪那は考えてしまった。関心が、そちらへと大きく傾いてしまった。自覚があっても、まだまだそれを元通り、舵を切り直す事が雪那には難しい。だから既に……、既に和馬を迎えに来たはずなのに、彼ではなく弥代の方へと意識が傾いてしまった時点で、雪那は、
「弥代……ちゃん、」
呼ぶ。
本人を前にしてるからなだけかもしれないが、数日前の祖母の前で呼んだような、弥代さんという呼び方ではなく、いっつもみたいに、弥代ちゃん、と。
たったそれだけの事なのに、何だかそれは随分と懐かしい気持ちになれて。それ、で。
「少し……、お外へ行かれませんか?」
複雑な心が全てなくなったわけではないが、雪那は弥代を誘ってみせた。
誰かに触られたような、そんな気が弥代はした。
春原と館林が居座っている部屋に、和馬と二人して入り浸って話し込んでから結構な時間が経っている気がする。頬だか肌を軽く掠められたような感覚に、薄く瞼を持ち上げてみると、そこには居たのは多分どうせ、と弥代が予測を立てていた相手とは全く違う相手で。
なんだったら暫く本当に顔を合わせる事は叶わないだろうと、そう思っていた相手であった。
どうしてこんな所にお前がいるのか、と素直に訊ければ良かったのだが、寝起きという事もあってか喉奥から上手く声が出てこずに、また何と伝えたいのかも全く相手に伝わらないような、そんな音だけ。最後の最後に相手の名前を紡ぐ事は叶ったが、以降はやっぱり嘘のように何の言葉も出て来なかった。
可笑しいな?さっきまではこの部屋で今までの自分みたいに振る舞えて、楽しく話せていたはずなのにどうしてなんだろう?と自然と考えてしまう。
感覚は、今朝の本堂での直後に近い。
決して明るくはない。寝台の頭側にある窓枠、その格子の隙間から月明かりが差し込んでいるぐらいで、他に光源などはないのに、やけにはっきりと弥代には相手の、彼女の顔が見えて。それだけ、それだけ自分は彼女から目を逸せす事が出来ないのだと、思えてしまって。
『弥代……ちゃん、』
そう、自分を呼ぶ。そんな彼女の姿が、なんだか自分の事を初めてそうやって呼んだ時の姿と重なって弥代には見えた。
『少し……、お外へ行かれませんか?』
その誘いに、自分は何を期待したのだろう。
誘われた手前、弥代はそれを断る事はなく、小さく手招かれる侭、外へと歩み出た。
どこへ、行くのだろう?と弥代はその背を追った。
ここ数日はあまり自分が前へと出る事はなく、誰かの後ろをついて行く事が多かったものだからか、何の疑問も抱かずに後ろに続く。
「…………。」
それは、初めての感覚だ。
彼女と、扇堂雪那という相手と出会ってから既に一年以上が経っている。自分が里を離れて、彼女と会えない期間というのもあるにはあったが、それでも一年以上――一年半ぐらいの付き合いになるのに、彼女の背中を追うという行為そのものが初めてというのも、何だか変な話だ。
けれどこれ迄を思い返してみると、自分は彼女の横に並ぶか、彼女の方が二、三歩後ろから着いてくる事ばかりで。なんだか、
(コイツ、こんなだったっけ?)
先を行く、歩みに合わせて毛先が揺れている。
長ったらしい髪だと、初めて会った時から思っていた。手入れに掛かる時間や手間を考えてしまえば、自分はそんな伸ばそうなんて考えは絶対に浮かばない。
実家がこのご時世に時代遅れかと疑いたくなるような、貴族なんて肩書きを名乗るものだから、形ばかりの使用人か何かに手入れでもさせているのかと馬鹿にしたように訊ねれば、本当に身の回りの世話をしてくれる相手がいて、その者が全てをやってくれるのだとか、それを笑いながら話していた。
世間知らずの、人の悪意だとか思惑だとかに一切曝されずに、ぬくぬくと温かい所で愛されて育った。少なくとも、最初弥代は雪那に対してそんな印象を抱いた、はずだ。
なのに、今はそんな風には見えない。
「弥代、ちゃん?」
呼ばれて、ハッとする。
弥代は今、手を差し伸べられていた。
「ぁ……え?」
「足元に、気を付けてください。」
言われて、視線を落とすと数段の段差がある。
そこでやっと、弥代は自分が今いる場所があの渡り廊下である事が分かった。
「ぁ……、あぁ、」
一段だったか、二段だったか。足元に意識を向けたままゆっくりとそれを降りる。
「はい。」
と、気付いた時には借りたはずの手はもうなく。変わりに目の前に草履を差し出される。
「庭を抜けましょう?」
「……に、庭?」
「えぇ、西側は入り組んでいて私、あまり好きではないのです。」
それに、夜はもう遅いですし、と末尾に添えられる言葉はどことなく幼く聞こえた。
あぁ……、なんてちょっとだけ弥代は納得した。
添えられた言葉だけでなく、先の室内のような格子越しに注ぐ、隙間を縫ったような月明かりではない。幼く聞こえたのもそうだが、その表情もどことなく子供っぽい、悪戯をこれからするのだと告げてくるような、そんな風に弥代には見えた。
だから、考えすぎかな?なんてそんな事を考えて。彼女の手元から草履を受け取って、昼間のような調子を取り戻せたかのように、腰を屈めて爪先を突っ込んだ。
「弥代ちゃん、」
「何だよ、雪那?」
やっと、返せた気になる。
差し出された草履を先に履き終えて、渡り廊下から庭へと降り立つ。呼ばれて、勢いよく振り向けば、そこにはついさっき子供っぽい表情を浮かべていた、彼女が、いて。
「……弥代ちゃん。」
丁度、月を背にしているか。
あるいは、分厚い雲に邪魔されて月が隠れてしまったからか。どうしてか彼女の表情が、先まで見えていた顔が見えなくなってしまう。ヒヤリ、汗が伝う。たったそれだけで、それだけでちょっと前に返せた言葉が、二度目は出て来づらくなってしまった。慌てて、一歩距離を詰める。詰めて、そうして下ろされた、力のなにも篭ってなさそう彼女の手を取って、その腕を弥代は軽く引いた。
「外、行くんだろ?」
「…………、」
「行かねぇ、の?」
「……いいえ、行きます。」
「……そ、っか。」
どうしても言葉が続かない。
今まで自然と紡げていた言葉が、都度詰まってしまったように出てこない。背中を追った時に感じたの非常によく似た、初めての感覚。可笑しいな?本当に日中はどうにか振る舞えていたのに、と堂々巡りを既に何度も繰り返している。
渡り廊下から庭へと移った、その時はそんな事はなかったというのに。
「…………、」
「……。」
自分だけがソワソワと落ち着きがない。
やっと横並びになった彼女は、しかしどうしてだろういつもなら長い前髪があるから自分の左側に並ぼうとする事はないのに、今日はそれになってしまう。それでは表情が、彼女が何を想っているのかが全く分からない。背後に回って彼女の左手に移動しようかを考えるにしても、広い庭だというのに左手にはあまり余裕がない。
直接、左側に移ってもいいか?と聞ければ、それでもしかしたら彼女は、分かりましたとすんなり受け入れて、それで弥代は望み通りにその表情を窺う事が叶ったかもしれない。それが出来なかったのは勿論、勿論……何だろう。
分からない答えは、きっとそれほど難しい事ではないのだ。簡単な事。なのに、答えがいつまで経っても見つからない。
自分が今みたいな状態でない、これまで通りなら何も躊躇せずにいれたに違いない、と考える。考えて、考えてそれで、煮詰まって足取りが重く感じてしまう。
あぁ……そういえばいつぞやの晩に、考えてばかりでそれで雁字搦めになってしまうとか、そんな事を口煩いあの男に言われたなぁ、なんて思い出して。
朝の本堂で向けられた言葉の数々を忘れたわけではないし、何も彼が自分の味方、というわけではないのが分かった事だから、一々そんな相手の言葉を思い出しなんかして、それで態度を改めるのも変じゃないかと弥代は思うのだが、今この状況を自分の知恵だけで打開する事が難しいなんて事は自分自身が一番分かっていたから。
だか、ら……
「あの……さッ!」
意を決して、声を張る。
それでも、まだ一緒に行動をしてから大して時間は経過してないが、弥代は一番声を張った。
だから、これで彼女が何の反応も示さなかったら、それは恐らくそういう事なのだと、納得して大人しくしてようと自分に言い聞かせた。だってそうだ、彼女はきっとあの晩の弥代の行動を許していない。
「弥代ちゃん。」
呼ばれる。
自分が張り上げた声なんかよりも、ずっと控えめな声量であるというのに、その声はよく通った。
気付けば、いつの間にか自分と彼女の間には、十歩ほどは距離があった。その距離は、詰めようと弥代が試みれば十歩どころかその半分、五歩足らずでどうにか埋まってくれそうな距離だというのに、やけに遠く感じた。
足が人と比べれば少し短いのだからやっぱり五歩じゃ難しそうだな、と今の状況からはあまりにも掛け離れた、的外れな事を思い浮かべてしまうのは、どうしてだろう。
「弥代ちゃん。」
また、呼ばれる。
何度か呼ばれる内に、あぁこれは自分の返答を彼女は待っているのではないか、と。そう、弥代は思えた。足を止めて、その場でしっかりとこちらを振り向く。月はきっと、まだ雲間に埋もれたままその姿を見せてはいない。
いつかを待つ。
弥代は、月明かりが差し込むその時を待った。
そうすれば、そうしたらこの距離でさえも窺えきれない、彼女の表情がはっきりと見えて。表情さえ分かれば何とか自分が彼女にどう返せばいいのかが分かってくるような、そんな気がして。弥代はただ、ただ彼女を見た。
彼女を、扇堂雪那を見
「何を、期待されているのですか?」
「何を、期待されているのですか?」
ぽかんと、噤んでいた口が開いた。
力が、自然と抜けた。
少しだけ目を、見張って。
そうして漏れ出るのはまた、あ、とか。え、なんかのあまりに情けない音だ。何も伝えようという意思がないわけではないのに、実際に紡げる音はどこまでも頼りない。
これでは一向に彼女に対し、まともな返事を返せない。
詰まらせてしまった。声の出し方を忘れてしまった、なんていうのは多少大袈裟かもしれないが、真っ直ぐに見据えられた、自分へと向けられた問いかけの一つにも応えられないこの状況はただただ弥代を焦らせた。
「答え……られませんか?」
「ち………がっ、」
分からないのだ。
彼女が、扇堂雪那が何を思い、何を考えてどういう意図でそのような事を自分に問うたのか。
せめて、せめてその意図さえ……、否、違う。自分の中に明確なこれという答えがあれば、時間は掛かるだろうが言葉に出来るかもしれない、のに。
そうだ、今の弥代にはそんな明確な、これと呼べるものが無い。今までどれだけ間違っていると分かっていても、それしか術を知らないのを言い訳に、盾にして掲げ続けてきたものを失ってしまった。
それが招いたであろう、あの晩の結末を、目にしてしまったから。
どこで間違えてしまったのだろう、なんて分からない。でも、もうずっと、ずっと間違えていたんじゃないだろうか?だからこそあの時、それらは全て、全てが手遅れだったんだ。
「……ぁ、」
目を、逸らしてしまった。
今まで逸らした事のなかった、彼女から弥代は自分の意思で目を逸らしてしまった。
一度それをしてしまえば、もうどうすれば元に戻せばいいのか分からない。ぐらり、揺れるのははたして視界だけか。
最後に口にしてからそこそこ時間は経っているからか、反射的に抑えた口から、固形物が出てくるという事は無かったが、変わりに鼻に付くツンとした匂いが鼻腔を刺激した。それから直ぐに自分が膝を付いていることに気付いた弥代は、慌てて顔を持ち上げた。
それは、それは何とも分かりやすい拒絶だ。
だって、だってそうではないか?
彼女からの問いかけに、彼女からの呼び掛けに一向に自分は答える事が出来ず、挙句こんな、こんな風に突然、胃の中は空っぽだというのに我慢ならず吐き出して、しまったの、だから。
怖かった。
弥代は、怖かった。
彼女が、扇堂雪那が今どんな顔をして自分を見ているのかを知ることが怖かった。でも違うんだ、と。既に体は反応を示してしまった後なのに、そんなつもりはなかったのだ、と強く訴える様に顔を、持ち上げた。
だが、
「ふふっ、」
自分がそんな反応を示してしまったものだから、もしかしたら彼女を傷付けてしまったかもしれない、と。そんな可能性を弥代は同時に恐れていた。傷付けたくないのだ。彼女……彼女には出来るなら笑っていてほしい、と。彼女自身が望む形で幸せになってほしいと、そんな事を弥代は願っていた。
だが、弥代の心配とは、危惧していたのとは全く違う。それが何故かは分からないが、彼女は笑っていたのだ。
笑うのを我慢出来なくなった時によくするように、手の甲を口元に押し当てるようにして、肩を小さく揺らしている様に、弥代には見えた。
「せ……つな?」
今になって、漸く紡げた、発する事が出来たのは、結局のところ彼女の名前だけで精一杯で。
「ごっ、ごめんなさい。
わ、私ったら……何だかとても、とても可笑しく、って。」
(可笑、しい?)
返された、言葉の意味が弥代には理解出来なかった。
何が、何がはたして可笑しかったのだろう。
別に、自分は何も変な事をしていない。返事をどうにか返そうと諦めずにいた、だけだ。でも、どうにも思い通りにならなくて、駄目だと分かっているのに目を、逸らしてしまって。
彼女はそれを可笑しい、と堪えられずに笑う始末であったが、もしかして気分を害した、それを隠すつもりでそんな風に言葉を選んだのではないか、と。自分に都合の良いように捉えようとしている、弥代は気付いていたが、そうであって欲しいと心の底から願ってもいる自分がいることに気づいて、いた。
『何を、期待されているのですか?』
そうだ、期待している。期待、しているんだ。
彼女とも、たった一人の友達と弥代が呼べる存在である扇堂雪那と、これまで通り……今まで通りの関係を続けらられる事を、何よりも望んでいる。
あの晩の出来事を、自分が見誤った結果が招いてしまったかもしれない、それを忘れてなどない。なかった事になんて出来るはずがない事は、他でもない弥代自身が分かっているのだ。
彼が、彼女にとって……雪那にとってどれほど、どれほど大切な存在であったかも、それぐらい弥代にだって分かる。唯一無二の決して、欠けてはならない存在。彼女が自分に出会うよりも前、あの歳までどうしてあんな思いを胸の内に抱えながらも生きてこれたかが、それが答えに違いない。
弥代が、弥代が彼女から奪った。
彼女から、彼女にとって無くてはならない大切な存在を、奪ってしまった。
直接手を加えたわけじゃないが、あの場で弥代が少しでも別の行動を選んでいたのなら、彼は死なずに済んだかもしれない。
ずっと、ずっと、そうだ。
もうずっと、弥代はそんな事を考えている。
何も考えないように努めたって、何もする事がなくなれば自然とそれが頭を過った。考えたくなくて、目を、逸らしたい一心で目を瞑った。
弥代は、弥代は逃げた。
(そうだ……だから、俺はっ)
許されない。
許されて、いいわけがない。
でも、それでも弥代は期待していた、望んでいたのだ。
彼女と、雪那とまた一緒に過ごせる、その、時間、を。
「弥代さん」
堪えていた涙が、落ちた瞬間だった。
雪那は、何度かとてもそれが不思議に思えてならなかった。
だって、本当に可笑しいったらありゃしないのだ。あんなにも、あんなにも何でも知っている風な立ち居振る舞いで、どれだけ失礼な態度を指摘されても一向に直そうとしてこなかった、身分だとか、立ち場だとかそんなものを一切考えない、そんなものに一切囚われないように自由気ままに過ごしてばかりだった弥代が。
……何だか、とても幼い子どもの様に見えてしまって。
(…………でも、きっと本当はこっちの方が、)
そんな風に、そんな風に今まで弥代の事を見ていた、自分のその考え方も可笑しかったのかもしれない。雪那は、そう考えた。
(だって、そうだわ。だって、この人は、弥代ちゃんはずっと、そうだった。)
忘れていたわけでも、覚えていなかったわけでもない。でも雪那はずっと、弥代の方が自分よりも大人な部分がある、と。自分よりもしっかりとしていて、自分が知らない事をいっぱい知っていて頼りになると、そういう風に見ていた。
思い出すのは、もうずっと前の事。
榊扇の里が、扇堂家が崇める神仏の怒りに触れたのか、何故だか雪那の目の前に、頑丈な筈の屋根を突き破って落ちてきた。
気を失った体を抱き抱えた事が、一度だけ雪那にはあった。非力な雪那でさえ抱える事が出来てしまった、薄っぺらい体のそのあまりの軽さに、相手がまだ子どもである事を、雪那は知ったはずだった。
そう考えると、忘れてなかった、覚えていなかったわけではないが、今の今まで思い出す機会がなかっただけではないか、と雪那は自覚する。
(何を、私はこの人に求めていたのだろう?)
(本当に期待をしていたのは、この人じゃなくて私じゃないのかしら?)
雪那には、まだあの晩の事を受け入れる覚悟は足りなかった。だが今この時、弱々しい弥代の姿を前にして、何かが大きく……、大きく雪那の中で動いた。
そしてその感覚に、雪那は覚えがあった。
「…………弥代さん。」
努めた、つもりだ。
どうにか頑張って、これまで通りに雪那は弥代を呼んだ。でもそれに、そこに雪那の望んだ反応は一切なかった。なのに、それ……なのに。
弥代は、泣いていた。
泣いて、泣いて、いて。
それ、で。
伸ばした手は、何も掴むことは出来なかった。
だというのに、何故だかこの結末に雪那はどこか安堵した。あぁ、これで本当に、自分は暫く弥代の顔を、弥代自身に関わる機会がなくなってくれるのではないか、と。
雪那は、小さく微笑んだ。
そういえば、と渡り廊下へ戻ってきてからふと、雪那は思い出す。
自分と一緒にいる最中、頻りに弥代は空を仰ぎ見ていた。なんだかアレは、月明かりが早く覗くのを待っているように雪那には見えた。が、それもまた変だと、可笑しく思える。
だって今宵は、月など見えぬ日なの、だから。




