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六話 脇見

『おまえのソレは!どうせ誰だって良かったんだろうっ‼︎』

 ――ピクリ

 立てたばかりの指に、変な力がこもる。

 あの晩、彼女から向けられた言葉を、そこに込められていたであろう憤りの、その元凶とも呼べよう自分のこれまでの行いが同時に脳裏を過ぎる。

 少しばかし喉の奥に違和感を覚えて、弥代はいま目の前にいる男の名すらまともに紡げなかったが、それでも(かぶり)を振るい、またしてもこんなのは間違っていると自覚を抱きながら彼に縋りついた。

 今この時ばかりは、一人で満足に立つ事さえ難しかった。






 ちょっと前にも、似たような事があったような、そんな気がする。泣き(じゃく)る自分の背中をやけにゴツゴツとした手が、優しさや気遣いとは無縁そうな手付きで、それっぽい動きだけを見せて(さす)る。

 アレは確か、今年になってからであった。

 雪那と芳賀(よしか)の行方が分からなくなったから自分と一緒に探してほしいと、春原に頼まれた事があった。

 丁度あの頃、弥代と雪那との間には何が原因だったかまでは、恐らくあまりにも些細な事で細部までハッキリと思い出す事が今は出来ないが、あまりにも幼稚でくだらない喧嘩が原因で数日会うことすら避けていて、それで、 

「…………。」

 自分の中には、まだ当時はなるべく触れてはならない突っ掛かりのような物があって、あの日あの時、偶々誤ってそれに触れてしまった。

 そこから一気に、堪えていたモノが決壊してしまった。フラフラとまともに自分の足だけで立っていられなく、なって。何だかそれは、今の自分の状況によく似ている様な気がして。その場に膝を抱えて(うずくま)ることしか出来なくなった弥代に最後まで付き合ってくれた、一人でちゃんと立てるぐらいに回復するまで傍にいてくれたのも、正しくいま目の前にいる、春原であった。

「もぅ、大丈夫か……弥代?」

 見慣れた、膝ぐらいまで丈のある、深い色をした羽織を今日の彼は身に付けていない。数日前の自分が着ていたのによく似た、簡素な装いをしている。

 そうして直ぐに春原と館林もあの晩、あの場にいて、自分と同じように怪我が酷く扇堂家の屋敷へと運ばれたのだと、そんな話を昨日の朝早い支度の中で相良から聞かされていた事を思い出した。

 本当なら昨日の内に一回でいいから二人の顔を見ておきたいと、古峯の二人との会話の後に足を運ぼうと決め、傍にいた相良にもその(むね)を伝えていた。だが話し終える頃には弥代の気持ちは沈んでしまい、結局昨日はそれ以降は何をする気も湧かずにゴロゴロとするだけで終わってしまった。


『大主様をあまり待たせてはなりませんよ?先を急ぎましょうか?』

 先刻、西の広間から本堂へと向かう際は相良が、物音がした部屋の中に一人入り込んだと思えば、くぐもっていてしっかりと聞き取る事は出来なかったが、何やら大声で喚いていて、その部屋にきっと討伐屋の二人がいるのだろうな、なんて事を考えていた筈だ。

『お待たせしました。』

 言葉通り、部屋での用事を手短かに済ましたであろう相良()は、弥代に先に進むように促していた。

 そんな事があった後だからかは知らないが、弥代が伏せていた瞼をほんの少しだけ持ち上げて春原の表情を見てみると、弥代が知っているはずの無表情よりもちょっとだけ、強張(こわば)りが強い印象を抱いた。

 自分に縋り付いて膝を折って泣き(じゃく)っている弥代を気に掛けているのは間違いないのだが、ちらり……ちらり、とその目が弥代の後ろ、屋敷の本堂の方へと向けられているのに弥代は気付いてしまった。

「…………相良さんなら、当分まだ戻って来ねぇよ。」

 伝えた方が良いのかどうかを暫く悩んだ(のち)、なんだか春原という男がそれを気に掛けて目の前にいる自分に集中しないという状況は少しだけ、本当に少しだけそれが嫌で、弥代は自分の知っている限りを口にした。

「あの婆さんと、まだ少し話したい事があるからって……、飯食ってから戻ってくるって言ってた、から。」

「……そう、か。」

 強張(こわば)っていた表情が徐々に(ゆる)んでいく。ジッと下からその様子を見ていれば、なるほど重たい前髪に隠れていてよく見えなかったが眉間周りに力が籠っていたようだ。見知った感情の読めない表情に戻るのに、それほど時間は掛からなかった。

 それを見届けてからやっと弥代は先の、春原からの問いに小さく答える。

「もぅ、大丈夫だ。」

 と言っても、少しの間とはいえ派手に泣き(じゃく)ってしまったものだから目元なんかはきっと赤く腫れているかもしれない。鼻奥が詰まったようなあの不快感だってあるし、これは一度しっかりと鼻を()むまでは(ぬぐ)いたくても拭えそうにない。

 自分よりも明らかに上背(うわぜい)のある男の手を一度借りてしまえば、立ち上がるのなんて造作はない。しかし立って、見知った距離感で改めて相手の顔を見てみて、弥代は妙にはっきりと違和感を覚えた。

(……ア、レ?)

 (うずくま)って、彼に縋り付きながら泣いている時は、その腕の中に収まっていた時は感じなかった物だ。






 蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 六話






 西の広間から本堂へと向かう道中の廊下は非常に入り組んだものであった。

 左に曲がったと思ったら突き当たりを右に曲がって、もう一回右に曲がる。と思えば今度は左を二回繰り返して、再び右に曲がったり。これは直前と同じ様にまた突き当たりまで進んだ処で左に曲がってという流れでないか?と思えば何故か左ではなく右だったり。突き当たりまで進むのに変わりはないのであれば意外にもそれほど迷う余地がないのではないかと思った矢先には、突き当たりまで進まずに枝分かれした通路を途中で曲がる事もあった。

 思い返してみると、向かう道中何故やけに相良が細々とした説明をしていたのかが弥代は分かった。


 この屋敷の西側、主に住み込みで屋敷に(つか)え働いている者らが暮らす北側の居住域はあまりにも入り組んでいる。

 二百人以上が殆んど同じ屋根の下(といっても繋がっている場所もあれば、(むね)自体が離れている事もあるそうだが)で生活を送っているのだから、その密集度合いは馬鹿にならない。一応は男女で区分けはされているようだが、屋敷に身を置く大半は女性だそうで、人数の少ない男連中は広い屋敷内で肩身の狭い思いをしている事が多いのだとか。

「それでねぇ……えっとぉ、後は何だったかなぁ?私もね、ちゃんと初めの頃は色々と教えてもらったんだけど、美琴様付きとしてお側に置かせてもらってからね、あんまりこっちの事情とは詳しくはないんだけどね?でもね、雪那様のお世話を任されるまでは戸鞠がね、よく私の事を捕まえて愚痴ってたから色々と知ってるんだよぉ〜?」

 そんな事を言う割に、それ以上新しい情報はこれぽっちも出てきやしない。けれども女中の案内なくして西の広間まで迷わずに戻れる気がしない弥代は、へぇ……なんて気の抜けた適当な合槌(あいづち)を挟みながら、彼女・巴月(はづき)の少々気の抜けたお喋りに耳を傾けた。

「でもでもぉ、本当に良かったのかなぁ?討伐屋さんの、えっと……、春原…様も、一緒で?」

「へ?」

 言われて、弥代は自分の横を見た。

 なんと彼は言っていただろうか……?ちょっと前のやりとりだがあまり思い出せない。ただ相良に言われた通りに弥代が広間まで戻ると言った時に何だったか……、もう少し一緒に居たいとかなんとか。そんな(むね)の事を言って、それで確か付いてきていた筈だ。

「姉さんがね、春原様は部屋から出さない方がとか、そんなのを言ってたんだけど……どう思う、弥代さん?」

「いやそんなの……、今更振られても返しようが無くねぇか?」

「うううぅぅうん……、そっ、そうだよ、ねぇ?」

 しっかり者できびきびと動き働く戸鞠に対して、彼女が一番心を許している仲の良い巴月という女中はいつも何かしら気が抜けている。一昨日に弥代が目を覚ました時だって、腕の中に抱えていた水の入った桶を慌てて広間に落として行った。

 数日意識を失っていた事で食事を行えなかった弥代に対し介助をし食べさせようとした際も、手元を狂わせて熱々の粥か何かを弥代の上に落としていたし。

 遠くの物を見るのが確か苦手で、といつだったか自分から話してくれた事があったが、近くの距離感を測ったりというのも得意ではないのかもしれない。

(って言うか何だ?俺は弥代さんで、コイツの事は様って呼んでんのか?)

 口に出す事はなかったものの、そんな事を弥代は気に掛けた。弥代が気に掛けている間も巴月は、特にあまり意味のないのんびりとした中身のない、ゆったりとした話を途切れさせる事なく続けていた。なので弥代もこれまで通り気の抜けた適当な合槌を挟みながら暫くその後ろを追った。



「それじゃぁ、ご飯は春原様の分も持ってきたら良いよね?今から戻るにしても、また一人じゃ戻れないもんな?」

「それで良いよな?」

「……構わない。」

 自分が()かなかったら、絶対にこの男は答えなかっただろうという謎の自信が弥代にはあった。

 そんなものあったところで何の腹の足しにもなりはしないし、なんならこれから飯が運ばれてくるといったところだ。そんな自信があったところで本当に何にもなりはしないし、口に出す事もない。

 広間に繋がる廊下の、その奥へと消えていく巴月の背中に弥代は軽く手を振ってみせた。突き当たりの角を左に曲がったのを見届けてから、横に立つ男を見遣る。

「ぁ」

「ん?」

 それは、何もこれが初めてではない。時たま訪れる、これでもう何度目かも分からないような不思議な感覚。自分と彼の仲はこんなものであったか?という疑問だ。

 そしてその(たび)に弥代は彼とのこれまでを思い出してしまう。だがたとえ思い出したところで、どれだけ考えてみたって弥代のその疑問を取り除ける程のモノは何もない。そんなの分かっているのに、それでも繰り返してしまうのはきっと、今度こそ見つからない答えを見つけたいと願う気持ちが少なからずあるからなのかもしれない。

「どうか、したか?」

「いや……別に?」

 襖を開ける。

 言わねばいつまでも廊下に突っ立っているような男である事を弥代は知っている。だから自分が一歩、中に踏み()ると同時に、中へと招き入れる言葉を口にする。

 すればやはりその男は弥代の言葉には従順だ。そんなにすんなりと聞き入れられてしまうのは変な気持ちだ。だがこの男を前にすればこれが普通なのだ、という気持ちを味わう。

「座れよ。」

「……分かった。」

 言葉に、する。

 多分この男には、普通なら一々言葉にしなくても通じるような事が通じなくて、言葉にして初めてそれをしていい物と捉えるのかもしれない。先の駿河での相良と男のやり取りを見ていた限りの感想だ。確信はない。

 けれども相良はいつだったか、弥代にもっと言葉にすればいいのに、とそんな意図が込められているような言葉を投げ掛けてきた事があった。

『相良の言葉は、信じていい。』

 しかし、そもそも弥代が相良の言葉に耳を傾けるようになった、その言葉をなるべく汲むようにと考えるきっかけを作ったのは、間違いなくいま弥代の真隣(まどなり)に腰を下ろしている男だ。

 駿河での、かつて神として祀られた存在のなれ果てとの対峙において、自分が出来た事など限られていたが、自分よりもそういった存在――人ならざる存在(モノ)と渡り合う事に長けている、それを生業(なりわい)にしてきた二人を信じるのは必要である、と。足手纏いにならない為にもと判断しただけのつもりであったのだが、それ以降も相良の言葉を何かと思い出す事が増えていたのは事実であるし、以前よりもこの男を……春原千方という存在に目を向ける機会も増えたように弥代は感じていた。

 ただ、それでも先に覚えた疑問が消えない。

 これまでこんな風に春原を、自分の横になど座らせる事が弥代には果たしてあった、だろうか?

「……どうか、したか?」

「え?」

「弥代が、俺とこんなに近く座るのは、とても珍しい。」

「ぁ」

 声が、上擦った。

「めっ、珍しい、か?……あっ、やっやっぱりそう、だよな⁉︎そっ、そうだよなぁって俺も思ってたんだよ。でも、なんだ……、えっと、…………ほ、ほら!この(あいだ)の事とか、話しときたい、事とかあって、な?」

「………………、そうか。」

「……。」

 言いながらなんて苦しいんだろう、と弥代の言葉尻は次第に落ちていったというのに、春原はそれを一切気にするような素振りは見せる事なく、理解するのに少々時間を(ゆう)したのだろうがそれでも聞き慣れた言葉一つで納得した様子を示した。

 春原という人間がそんな相手を気遣ったりなど、細やかな気遣いが出来るとは思っていないし、嘘が吐けるほど狡猾(こうかつ)で舌が回る男でもないのを弥代はよく知っている。弥代の知る限りこの男以上に不器用という言葉が似合う者はいないぐらいだ。そういった事は全て春原ではなく、春原を常に気に掛けている相良の得意分野に違いない。

 だから春原がその言葉を口にして、納得したような反応を示すのなら、そっくりそのままその言葉で表す事が出来るぐらい簡単で分かりやすい、そういう事なのだ。

「…………ごめん、」

「……何故、謝る?」

 自分でも分からない。でもそうなのかもしれないと考えが至って、そしたら弥代の口から自然と漏れ出た三文字は、発した弥代自身も何の意図があって口にしたのか本当によく、分からなくって。

「……俺、お前の事」

 それに続く言葉を、弥代は知らない。

 でもこのままで良いわけがなくって、ぐるぐると急いで自分の中にある彼への、申し訳ないと感じている部分や出来事を探す。そうして先ほど苦し紛れに口にした、この(あいだ)の事に触れる。

「怪我っ……、巻き込んじ、まった。」

「……弥代が、気にする事じゃない。」

「でもよ……、」

 この(あいだ)の事で弥代が思い浮かべる事は他にも多くある。あげ出したらキリがないが、春原という男はその全てを同じ言葉で片付けてしまう気がしてならない。事実、弥代が春原に協力を仰ぐ事がなければ彼は怪我を……

「怪我…………を、」

 弥代は慌ててその場に立った。そして自分の真隣に今も大人しく座っている春原の全身を見渡す。

「怪我はっ⁉︎」

「……治った。」

「はっ⁉︎」

 そんなワケねぇだろお前‼︎と思わず肩を掴みたくなるのをグッと(こら)える。そして昨日の朝に相良が話していた彼の具合を思い出す。

「たっ、館林さんのはどうなんだよっ⁉︎」

「館林はまだ治っていない。伽々里が三ヶ月は力仕事を断るように、釘を刺していた。」

「お前の足は⁉︎歩けねぇぐらい酷いって相良さんがっ‼︎」

「…………治った。」

「そんな早く治るわけねぇだろうがっ‼︎」

 けれども本堂と屋敷の西区画を繋ぐ渡り廊下からこの場所まで春原が自分の足で歩いていたのは事実であるし、なんなら渡り廊下の真ん中で(うずくま)ってしまった自分の元まで彼は確か小走りのように聞こえたが走ってきてもいたはずだ。

 怪我が治った、というのは疑いようのない事実なのだろうが、だとしても、本当にそうだとしても何だかそれは釈然(しゃくぜん)としない。

 たとえ春原が“色”を持った、“色”を持たない人間とは違っていたとしても、それだけでは納得がいかない。ただ“色”を持っているだけでそんなに怪我の治りが早いというのなら春原と同じように“色”を持っている、三ヶ月は力仕事をしないようにと釘を刺されたという館林だって治ってなくちゃ可笑しい。全く同じなんて事はありはしないだろうが、だとしてもせめてもう少し早く治るとかそれぐらいならまだどうにか飲み込めたかもしれないがこれはあまりにも無理な相談だ。

「何でお前だけそんな治んのが早ぇんだよ⁉︎」

「……可笑しな事を言う?俺だけ、じゃない。弥代の怪我も治ったと俺は聞いている。」

「俺のは違うだろっ‼︎お前なんだそれ⁉︎(わざ)とか?態となのかオイっ‼︎」

「弥代は難しい事を言う。」

「分かってるクセしてスッとぼけてんじゃねぇぞ!って俺は言ってんだよ⁉︎」

「……なら、初めからそう言ってくれ。分からない。」

「あーーーーッ!もうッ‼︎」

 それは、何だか久しぶりの感覚だ。

 なんだかもう随分と味わってなかったように思えてしまうのに、思い返してみればそんな随分と、なんて感じるぐらい前の事でもない、割と最近にあった事。

 なのにそれを、それを久しぶりだと感じてしまうのはきっと、きっとこのところ色々な事が重なりすぎてしまって、全てにおいて余裕がなかった、からかもしれなくて。

 そんな風に感じてしまえば、さっきまであった疑問も違和感も気付いた時には鳴りを(ひそ)めてしまう。今この時、必ずしも気に掛けなくてはならない事ではないのではないか、と考えてしまう。

 だから弥代は、自分が知っている春原とのこの距離を、接し方を今は大切にする事にしてみた。今、だけは。






「何が治っただテメェ⁉︎

 なーんにも治ってねぇじゃねぇかッ!おいゴラァアッ‼︎」

「……すまない。」

 ぶつくさと文句を垂らしながら、弥代は自分よりも頭二個分は大きい、上背(うわぜい)のある男を背中に()ぶって廊下のど真ん中を歩いていた。自分より体の大きい相手であるが、負ぶる事によってどうにか運べるかと思っていたが、膝から下が動かないという相手の足は床に擦れないように浮かせる事も叶わず、ズルズルと床に触れて引き摺る形となってしまう。

 それでも、脇下に腕を差し込んで無理な体勢をさせて引き摺ったりするよりはマシだろうとお構いなしだ。

 本日通るのは三度目となる道なわけだが、たった二回通っただけでは勿論分かるわけもない。入り組んだ廊下を進むのを諦めて、いっそ庭側から簡単に渡り廊下の真ん中まで出てしまって、それから療養室だか治療室だかの部屋に戻しては駄目なのか?と考えは勿論過ったが、それが初めから許されているのなら今朝相良と移動する際もそうしていたのではないかと考えた。

 挙句、先の扇堂杷勿(せんどうはな)とのやり取りを思い返してみれば、自分はこの屋敷内で恐らく勝手な行動が許される立場には今現在いない。あくまでもこれまで屋敷に纏わる件で、いくらか待遇が緩くなっているというだけ。態々(わざわざ)中庭を経由せずに、長い西区画の廊下を移動せねばならない理由が恐らくはある筈なのだ。だからいくら頼りなくとも、たった二回の案内をどうにか……どうにか弥代は思い出そうと何度も試みる、のだが…… 

「出来るかーーーーーーーーーっ⁉︎」

 春原が言っていた通り弥代の怪我は既に治っているが、それでも二日前までは八日間も目を覚ます事なく眠っていたような身だ。昨日一昨日に至っては少し誰かと関わったり、言葉を交わしただけで疲れを感じてか眠ってしまうような始末だった。心と体は密接であるから、どちらかが崩れてしまってはもう片方が引っ張られてしまう事もあるとか、だから無理をせずに休める時は休んだ方が良いです、なんて溢していたのはやはりここ数日自分の傍にいる事の多かった相良ではあるが、今日の大主との一件で弥代の中にある相良への信用が失墜し掛けていた。

 駿河での春原の言葉から、なるべく耳を傾けるようにとしてきたつもりだから、今この状況下(じょうきょうか)においてそれに触れてしまう、というのはもうそういう事なのだ。

「弥代、大丈夫か?」

「原因誰だ⁉︎お前が原因の迷惑被ってんあdぞ俺は今ッ‼︎」

「……すま、ない。」

「謝るぐれぇなら二度とすんじゃねぇぞ‼︎

 …………あっ、待て?そういや前に似たような事、俺お前に言わなかったかっ⁉︎」

「……覚えがない。」

「本当に何なんだよお前はっ⁉︎」

 喚き散らかしながら、弥代は春原を負ぶったままどうにか前へと進む。

 一歩でも歩むのを止めてしまったらそれで、何だかもう前に進むのが嫌になってしまそうな気しかしない。

 大主との会話を終えたら部屋まで足を運ぶと言っていた相良が戻ってくるのを広間で待って、適当に相良に春原の事を任せてしまう事だってできた。それなのに弥代がそれをしなかったのは、膝から下を動かせないと言い出した春原が、相良を待てばいいと提案をしたのに対し分かりやすく渋い反応を示したからだ。

 元を辿れば、初めに春原に縋ったのは弥代だ。その後の弥代と一緒にいたいという春原の言葉の裏が、直前まで弥代が泣いていたからそれを心配して、という物であったとしたら。そんな言い切れもしない、何の確証もない可能性を一瞬でも弥代は考えてしまった。

 だってそうだ。春原は弥代を気遣い背を摩りながらも顔を強張(こわば)らせて、明らかに相良が姿をいつ表すんじゃないかと、怯えると言うのは言い過ぎかもしれないがそんな様子を見せていた。

 叱られるのが好きなんて奴は稀だ。春原だって好きじゃない筈だ。でも彼の取った行動は、叱られるかもしれないと分かっていても自分を気に掛けて、自分を心配して一人にしないように傍にいてくれた。弥代はそんな風に自分に都合よく捉えてしまった。

 だから相良に任せようと言われて分かりやすく渋った反応を示す春原を、怪我は治っていてもまだ決して万全と言える状態ではない体に鞭を打ってまで運んでやろうと、そう決めたのだ。

(いや)、違うな。)

 それまで情があるからと寄せていたものに蓋をして、面倒臭いだの手が焼けるだのとぐちぐち漏らしていた口を、パタリと閉じる。

 いやに冷静に、弥代は考えてしまう。

(そうじゃない、そうじゃないんだろうな、俺は。)

 きっと、なんて縋るような言葉を既にこれまで幾度となく重ねてきた。調子が崩れる、自分がこれまでどう振る舞っていたのかを、自分自身の事であるはずなのにそれが分からなくなってしまった。

 今まで経験をしてこなかった出来事に、ただどう返せばいいのかが分からないだけにしてはあまりに不安定だ。

 誰も彼も、ここ数日で弥代が接する事となった相手の大半もまた、これまで弥代に接してきた態度とはいくらか違う。そんな中、そんな中に自分の前に現れたこの男・春原千方があまりにも、あまりにも弥代の知る通りに振る舞うものだから、それに居心地の良さを感じてしまったのだ。

 言い訳である。彼の反応を利用した。まだもう少しだけ、これまでの自分らしく振る舞う事が出来る、現状唯一といえる相手の彼と離れる事を拒んだ。

 きっと、それはとても楽なもので。

 だから、だから弥代は、

「アレ?何しとるんキミ()?」



「アレ?何しとるんキミ()?」

 (うつむ)き掛けていた顔を弥代が持ち上げると、廊下の少し先に見慣れた白髪頭の彼がいた。

 今朝渡り廊下ですれ違った時の様子が直ぐに弥代の脳裏を過ぎるのだが、しかし今の彼に朝の様な反応は見られない。

 目も合わせなければ、言葉を交わす事もなくただすれ違うだけの朝なんて初めからなかったかのように、寧ろ向こうの方から距離を詰めてくる。

「ホンマに何しとんの?何で弥代ちゃんが千方くんの事背負っとんの?可笑しくない?」

「おか……、」

 口角が、微かに上がった。

「おかしい……、やっぱ可笑しいよなこの状況さっ‼︎そうだよな和馬⁉︎ほーら見たことかっ‼︎やっぱり()ぶるよか引き摺った方が変じゃなかったよなぁ‼︎」

「どっちも変やわ。なんで引き摺る方は変やないって、そうなるんや?ちゃうよ、それを弥代ちゃんが千方くんにする事自体が可笑しいってワイは言うてんねん?キミの要らん自信はいっつも何処から()んねん?怖いわぁ。」

「しっかたねぇだろっ⁉︎俺以外誰もいなかったんだからよぉ‼︎」

「背の近い人探せばおるやろ?屋敷ん中どんだけ人がおるかとか知らんの?頭使えやキミ?」

「でも巴月さんが男連中は肩身の狭い思いをしてるとかで、隅の方に追いやられてるって言ってたぜ?」

「そ、それは……っ、」

 もごもごと口をもごつかせる様子を白髪頭の彼が見せれば、それで弥代の方に軍牌が上がる。これまでの勝率を見れば彼と自分の力量は互角であったものだから、この本調子でない状況だがそれでも勝つ事が出来たという事は元の感覚を掴めているようで。それで弥代はなんだか嬉しくなって笑ってしまった。

 あぁ、良かった。そうだ、俺はこうであった筈だと、振る舞い方を少しでも思い出せた気になって、そうだと分かったら本当に久しぶりに笑えた気がして、嬉しかった。

「いや、もう分かったからええよ。手貸しちゃる。千方くんはワイが()ぶったるわ。」

「おうおう!頼むわっ!」

 自分とは違い、なんなら並べば春原よりも若干彼の方が大きいからかは分からないが、自分が背負った時は引き摺っていた膝から下は(ちゅう)ぶらり状態だ。

 それで、そうして弥代はなんだかとても、安堵した。

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