五話 考慮の末
幼い頃から屋敷に出入りする、贔屓の商人が商談の合間に口元に咥える、それが読みもの中で表現される以上に粋に自分には見えたのがそもそもの始まりであったと思う。
相手の出方を窺いつつも、決して自らの調子を崩すことのない。どの様な状況においても余裕を滲ませている立ち居振る舞いは、場一帯を支配するかの様。
ゆらり、ゆらり
静かに漂う煙の一つ一つがやがて形を成し、器用にそれ等を一度の呼吸で巧みに操ってみせるような様は、子供ながらに明哲であると、屋敷周辺に留まらず当時よりその名を轟かせていたと言って過言ではない彼女の関心を一身に集め、齢十一を迎える頃には母の説得に成功を納め、かの商人を真似て煙管を手にしていた。
腕の中に抱えきれず、落としてしまうと分かっていてもズルリ、ズルリ。既に写本される事もなくなり、この世に同じものは存在しなくなった書物さえ長い渡り廊下を引き摺る始末に年がら年中、屋敷に使える女中らが苦虫を噛み締めた様な表情を浮かべていたが、煙管を手にするきっかけとなった、その商人と関わる中で書物の正しい扱い方でも覚えたのか、それはなくなっていた。
読むのに夢中になり、そのまま舟を漕いでしまうような事もなくなったし、屋敷内の東側に位置する書庫に篭りきりになって朝を迎える事もなくなった事で、女中らだけではなく、母も胸を撫で下ろしたそうだ。
商人の姿を見様見真似に、細かく刻んだ葉を慣れない手付きで丸めて、先端にある火皿に少し押し込むように詰めてしまい、火を灯した。(本当は火打石を用いたかったのだが、火が誤って他へ移ってしまっては危ないから、と止められた。)
勢いよく吸うものではないと分かっていたが、初めて吸う高揚感もあったのだろう、やや性急に。しかしまだ未成熟な器の中に留めておくには無理があったのだろう。これまで取り入れた事のない異物を、反射的に体は追い出そうとする動きをみせたが、彼女はそれを多少無理をして抑え込んだ。
襲いくる息苦しさに、目尻を微かに濡らそうとも構わずに、憧れを抱いた粋な姿を真似た。
恐らくそれは、生まれながらにして父という存在を知らずに育った自身が、屋敷に出入りする商人の歳が母の歳に近く、勝手に父という存在を重ねた結果に抱いたものやもしれないが、何はともあれで済む些細な話。
一口を終えて、二口を吸い。三口、四口。身の内に取り込んだ煙が徐々に体中に染み渡っていく感覚に身を委ねながら、舌で味を嬲る事を自然と、誰に教えられるでもなく彼女は覚えていった。
以降、今日におけるまで彼女がそれを手放した日はとても少ない。昨年で還暦を迎えた彼女は御歳六十一となるのだが、吸わずに過ごしたのはその内の四、五年にも満たない時間であった。
先代である母より当主の座を受け継いでから早四十と六年。四十年以上前の屋敷の様子を知る者からすれば、目まぐるしい変革を迎えた周囲。大山の麓に留まっていた小里は、半径二里にも及び、その地に棲まう民は一万にも及ぶ発展を遂げた。
本来この島国においては迫害の対象となる“色持ち”に関しても、里の当主が“色”を持つが故に“色”を持つ者に対して寛大であるという点から、棲む場所を追いやられた“色持ち”が多く流れ着きもした。
水神として祀られる神仏の加護下にあるという点も大きいのだろうが、里の豊かさと治安の良さを耳にして、わざわざ遥々遠方より店を構えたいと、商いを始めたいと訪れる者も少なくなくはなかった。
但し里で商いをするのには、里の当主からの認可が必要であり、勝手に店を開く事は許可されていない。
還暦を過ぎても尚、彼女、扇堂杷勿が当主の座に居座り続けるのは、彼女の跡を継げる存在が未だいないからだ。誰がどう見ても老体である体に、その歳になっても変わらずに鞭を打ち、屋敷を訪ねてくる余所者に限らず、里の傘下に加わる以前の地主やらが相談事や采配を決めかねている議題そのものを持ってきて知恵を求められる日々を長年送っている。
扇堂家が、榊扇の里に棲まう一万にも及ぶ民からの信仰を集める、神仏・水虎。
其れをこの地に繋ぎ止める為の楔に成りうる為に、この屋敷からそもそも動けぬ身となっているが彼女にとっては些細な事だ。母よりその座を受け継いだ時点で、その身を捧げる覚悟は出来ていた。
「久しいじゃないかい、弥代。」
敷居を跨ぐ事を躊躇する様子に、手招きをしながら扇堂杷勿は弥代を呼び寄せた。
最後にその顔を見たのは昨年の秋口。
夜半になり里に突如降り注いだ落雷を、逸早くその進行方向に扇堂家の屋敷がある事に気付き、己を顧みることなく屋敷へと駆けつけた。
屋敷に身を置く全員が誰一人欠けることなく避難させる事が出来た、自身の跡を継がせる存在に長年頭を悩ませていた彼女にとっては好機と呼べよう、分家の娘の度量を知る事が叶った晩が釣られて脳裏を過ぎる。
『身を呈して下さった御方に、何の説明もないというのはあまりにも失礼ではございませんでしょうか?』
一連の顛末を伝えるべきでないか、とわざわざ進言してきたのも、また分家の娘であった。
自身の専属医である医者の若造から、生い先はそれほど長くない、猶予があるとは思えないと、直接その口から聞かされていた為に、以前までは多少の焦りを感じていたが、それも此処の所は薄れていたのだが、此度の件は自分がどうにかせねばならぬ、と腹を括った。
この手の役を担うのは、年寄りの仕事である。
履き物を脱いで、畳に上がって来る。その脇には前持ってそうなるであろうと自ら語っていた男の姿がある。細々と甲斐甲斐しく手を差し伸べる、手順や作法を教えている様子は宛ら主人の世話を焼く従者の様に見えるが、見た目の割に知っている事がとても少ない、世間を知っている様な口振りなのにその殆んどを知らぬまま育った“色持ち”の子どもにはどうにも似つかわしくない。
「…………おや?」
と、彼女は自分が呼び出した弥代が着ている服に目を止めた。
「随分と質の良さそうな物だから驚いたよ?なんだい、誰かに仕立ててもらいでもしたのかい?」
「ぁ、いや……これは用意してもらった、」
「雪那様が以前、弥代さんの為にとご用意していた物がありましたので、そちらを拝借しました次第でございます。」
まだ未熟な、大人とは呼べない体つきをしている故に、屋敷で暮らす女中らの数に余裕がある替えでは丈がどうしても余ってしまい、とそんな事を昨年の夏頃、孫娘である雪那が溢していたのを杷勿は思い出した。
あれは確か、客人として暫く屋敷に居座っている、正に今自分の目の前にいる子どもの様子について伺いたいと呼び出した時の物で、同時期に屋敷が贔屓にしている呉服屋が顔を見せる季節の変わり目に差し掛かっていたものだから紹介をしてやったのを覚えている。
見覚えのある、左肩周りだけを取り払ったような中途半端な造りの物でなかったものだから、意外であると感じたのだが、そのきっかけを与えたのが自分であったやも知れぬと分かると、それ以上深く訊く気も失せた。
が一方で、袖を通している本人がそれ自体が初耳であった様子を見せるもので、その信じられないといった反応を示す子どもが面白い可笑しくなり、杷勿は小さく噴き出してしまった。
「どうして着てるお前さんがそんな顔をするっていうんだい?全く、本当に可笑しな童だねぇ、お前さんは。」
「いえいえ大主様、敢えてお伝えを私がしなかっただけですので。
まぁ、訊かれる事もない物を伝える必要などありませんから。」
遠回しに、聞いていれば教えてやったものを、と態とらしく伝えているような光景に、梅鉢の男は相手がどう出るのかを、その出方を常に伺っているように見えて、なるほどそういう事であるかと腑に落ちた。
然すれば、自分がすべき事が何であるかを、杷勿は心得ていた。元より伝える内容に変わりはないのだが、多少強引に話を進めたとしても、同席する男がどうにか弥代を説得してくれるだろうと、妙な自信が沸いた。
……否、信頼と呼べよう。
武蔵国から此方、榊扇の里へと招く時点からの付き合いであり、ぎりぎり一年に満たる程度の面識。、直接顔を合わせる機会など決して多いものではなかったのだが、頭のよく回る、体のいい善人を装うかの様に振る舞うもその実、内心を繕うのが上手いその男は、少なくとも彼女の中においては信頼に置ける条件を満たしていた。
嘘を嘘であると偽らずに述べる肝は十二分に据わっている何よりの証拠だ。
蒙霧升降、風知草 五話
案の定であった。
これまで気に掛けた事すらきっと一度もなかったのだろう、畳の縁を踏みそうになる弥代の爪先を相良は羽織の首元を掴んで、後ろに引っ張る事でそれを止めた。
これが弥代の友人である扇堂雪那の前であれば止める必要もないのだろうが、目の前にいる相手が誰であるかを分かっていれば、縁を踏むその行為が意味するところを知っている立場からすれば止めざるを得ない。
白目の割合の多さが、より一層その赤い瞳を際立たせているとしか思えない大きな瞳をパチクリとさせて、どうしていきなり引き留められたのかが分からないといった様子の弥代だったが、併せてこういった場でどの様に振る舞えばいいのかを事細かに伝えてやると、自信があるようには見えないが取り合えず首だけは縦に振り、理解を示す反応だけは見せた。
この里の主人である大主を前に、自分が同席をする場で無礼を働くのだけは許せない。榊扇の里において相良の知る限り、二番目に怒らせてはならない相手だ。(一番目は勿論、自分がよく知る薬師である)
早々に話は進むと思ったのも束の間、大主が弥代の見慣れぬ装いに気付き声を漏らしたのは意外であった。
が、これまで弥代が直接訊いてくる事はなかったものだから伝えることのなかった、弥代の身の丈に合わせてわざわざ作られている服の出所について話してみると、弥代は分かりやすく動揺した。
嘘は、言っていない。昨日今日と相良が屋敷女中の戸鞠から渡されているものどれも、扇堂雪那が弥代の為をと黙って用意した物だ。
ただ黙って用意した物であっても、一切知らなかったと、そんな物があるなんて思ってもみなかったと言いたげな表情を前にすると、やはり……なんて事を相良は考えてしまう。あまりにも救いようがない。
世間話にも満たないやり取りを一つ挟んだ後、ようやっと大主から許しを得て腰を落ち着かせる。
その間に煙管の吸口を浅く咥えていた大主は、しかし何処か性急に蓄えたばかりの煙を薄く吐き出し、どこか意を決したような表情を見せると早々に口を開いた。
「この里から……、出ていく気はないかい、弥代?」
「………………は?」
さてはてどうしたものか、と相良は早くも少なからず投げ出したい気分に駆られてしまう。
切り出しは最悪。だが時間はこれで随分と短縮される。周り諄く本題に近付いていくのも面倒であるが、敢えて言葉を削りその様に切り出すのは、自分の手間を省く為、楽をする為ではないだろうか、と胸の内にのみ留め悪態を吐く。
けれども昨日のあまりにも単刀直入すぎる古峯の妹君の言葉と比べると、まだ当人の意思を先ずは確かめようとするような大主の問い掛けは情けがあるように思えた。同情心から来るではないのは確かだ。
「里から……出て、いく?」
だが、それさえも。多少の情けが孕んだ問い掛けであっても、それに弥代は気付けない様子を見せる。困り、戸惑う。自分へと向けられた言葉の意味を理解しようと試みる為か、早速混乱状態に陥ってしまった思考を正そうとする為かは分からないが、まともな鸚鵡返しすら出来ていない。
目が、合う。
それだけで合いの手を入れる事を求められていると、自分に与えられた役割がなんであるかを理解して相良は口を開いた。
「それは……一時的な御相談なのでしょうか、大主様?」
「あぁ、そうだよ。何も二度とこの里に戻ってくるな、なんて非道い事をアタシは言いはしないよ?」
「でしたら暫くの間、とでも言葉を添えてくださいませ。弥代さんが返答に困りはててしまっております。」
「おやおや、言葉が足りてなかったねぇ?
意地の悪い事を言っちまった老耄を、許してはもらえないかね弥代?」
「……えっ、ぁ……い、……いや?」
そこで自分に振られると思っていなかったのだろう、分かりやすく弥代は言葉を詰まらせて、しかし相手の言葉に悪意がないと判断をしたのだろうか、眉を顰めながら助け舟を求めるように相良を見た。
「その様な事で弥代さんは怒ったりなどはされませんよ、大主様。」
「そうかい、そうかい。それなら良かったよ。最近の若い者は突然訳もなくキレ散らかす事もあるなんて聞く事も少なくないからねぇ。」
「会談に来られます商人に歳は関係ないありませんでしょう。里の為に日夜、身を粉にされてご骨折りくださいまして誠にありがとうございます。」
「そんな礼の言われ方をされたのはこれが初めてだよ?中々気分が良いねぇ?」
「その様な、ご冗談を……、」
「冗談で言いやせんよ、こんな事……」
「…………?」
相良を相手に助け舟を求めるというのがこういう事になるとは弥代は知らなかった。置いてけぼりを喰らったまま、一切会話に入り込む事が叶わない弥代はただ呆然と、目の前で交わされる二人のやり取りを目で追い、耳で辿る事しか出来ない。
昨日の古峯の二人と交わしたような、真面目な話が始まるのかとある程度腹づもりでいたというのに、それはいつの間にやら音を立てて崩れてしまった。本当にどうしようもない話だ。
相良と大主のやり取りは、弥代が情けない気持ちになっている間も途絶えるわけもなく、当たり前のように続いた。
「以前弥代さんは津軽を目指し、北へ赴いた事があるとお聞きした事がありますね?どうせ足を運ぶのでしたら行ったことのない土地の方が面白味があるのではないでしょうか?」
「北以外となるとなんだい?いっそ京にでも行ってみるのはいい気晴らしになるんじゃないかい?上方からまぁそこそこ榊扇の里に流れ来るものはあるけども、足の早いモノなんかはどうにも難しいからと、出回らないモノも多くあるだろう?」
「あの手のモノは一昔前は舟で江戸まで運ばれてという手段があったと聞いた事がございますが、今の時代の両国……山城国と武蔵国の関係は芳しくありませんので難しい話ですね。」
「全く……本当に厄介な時代になったものだねぇ?」
「心中お察し致します。」
「…………。」
一向に分からないままだ。
口を挟まぬ方が良いのかもしれないと、弥代が考え至るのにそれほど時間は掛からなかった。自分の知らぬ話で盛り上がりを見せているような二人がいっそ満足するまで、話し終えるまで待つことにしようと、だんまりを決め込もうとした矢先、「弥代」と名前を呼ばれる。
「ちゃんと聞いていたかい、弥代?」
「……え?」
ため息が届く。
「お前さんの話をしていたっていうのに、どうしてそっぽを向いてられるんだい?」
「え……い、いや、だ、だって……知らねぇ話、だった、から。」
「全く関わりがないなんて事はないんだよ。話に入れなくたって、耳を傾ける必要が自分にはあるってのが分からないのかい、弥代?」
「…………。」
またしても、言葉が詰まる。
だがそれは、この場に弥代が踏み入ってから一番キツいもので。思わず、膝頭に置いていた手を強く、握りしめた。
これまでとは一変。和かな会話はどこへやら。老耄などと自身を冗談混じりに呼ぶ必要を感じられない程、全く衰える事を知らぬ鋭い眼差しを向けられる。肩肘を台のような物に乗せて、姿勢は緩いままであったのが、ほんの少し体を前に突き出すように、斜め下から睨め付けられる。言葉が出てこぬ変わりに、息をゴクリと大きく飲み下す。逃れる術を当然弥代は知らない。
「何でアタシらが明るく振る舞ってみせたのかとか、お前さんは何も考えないのかい弥代?」
「は?」
勝手に話すのに盛り上がっていただだけだろう、と飛び出そうになった言葉は飲んだ。何だかそれを言ってしまうのはとんでもない間違いを冒してしまうような気がした。後に引きたくても引けなくなるような、そんな気がしたのだ。
「お前さんという奴は本当に、いつ見ても自分勝手で自分の事しか見ていないんだね?」
「またまた……意地が悪いですよ、大主様?」
「老耄のこんな言葉一つに目くじらを立てやしないだろう?さっき言ったじゃないかい、相良の坊主。弥代はこんな事じゃ怒りはしない、ってね。」
「……えぇ、仰いましたね。」
くすっ、と相良が小さく笑った。
あまり大きく開くことのない、薄開きの瞼を更にキュッと絞りながら、弥代と目を合わせたまま笑った。
「そうですよね、弥代さん?」
そうして、確かめる様に弥代へと問うた。
口元と釣り合わぬ目が、弥代を見ている。
「…………、そう、だ。」
肯定する以外の返答を決して許してはくれはしないだろう空気に、弥代は大人しく折れた。
昨日の自身の取り乱し様を、鶫が発した言葉に自分が示した態度を忘れたわけではない。弥代が動くよりも早く相良が止めてくれたからどうにかなったものの、それが間に合わなかったら自分が幼い彼女の胸倉に掴み掛かっていたやもしれぬ可能性に思い至って、そう成らずに済んだ事に感謝した。
『貴様は己に言ったな、同じである、と。
身内を、家族を名乗ったのならその責任を負え、守るばかりが全てではない筈だ。』
相良が自分を止めてくれたから、と弥代は思うが事実はそうではない。弥代は彼の、鶫の兄である神鳴のその言葉を持ってして、己の行動の愚かしさをやっと自覚した。
伊勢原神宮にて神鳴と交わした、どこかの誰かさんのそれを少しばかり意識した、交渉と呼ぶにはあまりにも幼稚ではあったが、やり取りを忘れてはいなかった。
だから……だから、弥代は、
「そう……、だよ。」
ここに訪れる前、屋敷の西側と本堂を繋ぐ渡り廊下ですれ違った、友と呼べる間柄ではない彼の姿をどうにか思い出す。
『何があったのかお忘れですか?』
『貴女の姉君が決して許されぬ罪を冒した。長年償うことがなかったそれを償わされた。それの何に憤る必要があるというのですか?』
『おはようございます、相良さん。』
何も、忘れてなどいない。
向き合うにはまだ少しばかり自分には心の余裕がないだけ。
詩良が冒したという罪をなかった事にしたかったわけではない。
それもまだ、全てを知ってしまうのがただ怖いというだけで。
あの晩、あの場に彼はいなかった。
でも弥代が雪那の元へ、屋敷へと向かうきっかけを作ったのは彼だ。
自分が弥代を雪那の元へと送り出すような事を言わなければ、最悪雪那は彼女の手によって殺されていたかもしれない、その可能性を弥代はまだ捨てられずにいる。
彼があの晩の選択を、どこか心の奥底で後悔しているんじゃないかと、先ほどのすれ違い際、弥代はそんな事を考えていた。
弥代と彼は友と呼べる間柄ではやはりない。
けれども、それでも少なからず彼に弥代の情は向いていた。何の罪もない、何も悪い事をしていない彼がそのように在るのに、自分がこんなままで良いわけがないと、そうして腹持ちを決めたはずだ。
目を、一度瞑ってから開く。
「俺は――」
「それじゃぁ、これからお前さんの処罰について話そうじゃないかい。」
「…………ぇ?」
「アタシはね、弥代。
この地を、榊扇の里というこの場所を治める立場の人間なんだよ。お前さんはこれまで雪那の、あの子の親族、身内であるぐらいにしかアタシの事を見ていなかったかもしれないけどね、そうじゃないんだよ。それだけじゃないアタシにはね、この里で身を寄せ合い日々の一日一日を必死に生きている民のね、明日を考える立場にあるんだよ。
この意味が、お前さんに理解出来るかい?」
詰まらせるわけではなく、弥代は自分の意思で口を噤んだ。
「今回の一連の騒動で、どれだけの民の命が奪われたと思う?確認できた限りで三十八人だ。十部屋ぐらいある長屋に三人暮らしの親子がいたとすれば、その長屋丸々一つ分の人数が亡くなった事になるんだよ。
……確か、お前さんが間借りしている長屋も結構な人数が暮らしていたね。それ一つ分の方が分かりやすかったかい?ただね、これも今今把握出来ている時点で、の人数に過ぎないんだよ。
頭の数を数えれば分かるなんて、そんなのアタシだって思いつく話さ。でもね、頭の形そのものが分からなくなってしまった、それが元々人体のどの部分であるかも分からないような状態の仏さんが、顔を合わせるのも嫌になるぐらいまだまだごまんとあるんだよ。」
彼女は続ける。
「あの晩、お前さんの身内と呼ぶ小娘が何をしたか、こっちは粗方把握は出来ているんだよ。そして、被害が出た屋敷周辺の生存者の中に、西の鬼様を知る者がいた。
どうして目を覚ましたら屋敷の中にいたと思う?考えが及ばなかったかい?お前さんとその鬼の繋がりを知る里の者が、その光景を目にした後の事、を。」
「――――ッ‼︎」
「口に戸は立てられぬのはいつの世も同じでございます、弥代さん。」
相良が口を挟む。
「弥代さん、たとえ貴女が直接手に掛けたわけではなくとも、貴女が身内であると、姉であると呼んでいた、同じ屋根の下で暮らしていた存在が犯した罪の、それを貴女もまた背負う必要があります。
伊勢原神宮での出来事に関しても、あの境内の周囲に暮らす者だって当然おりました。貴女の考えなしの声は、人気の少なくなった祭りの夜にはよく響き渡った事でしょう。」
「そ、そんなのっ‼︎」
「アタシが良いと言うまで立ち上がるんじゃないよ弥代っ‼︎」
無意識に片膝が浮いた次の瞬間、弥代の眼前に見覚えのある煙管の先端が突きつけられる。その奥には先と同じように歳の衰えを一切感じさせない鋭く、射抜くような眼差しを送ってくる、里の女主人が居た。
それまでの落ち着いた声色とあまりに掛け離れた、激昂しているのが一瞬で分かる、そんな声をしていて。
「お前さんは何も分かってない鼻垂れ小便小僧みたいなクソ餓鬼ではないけどね、利口者なわけでもないからね。何も知らないフリをしろ、無関係を装えって言ったって利ける頭はありはしないだろ。出来もしない事を出来るなんて言わない方がいいよ、現にこうして直ぐにキレているんだ。端から野放しになんて出来っこないんだよ、聞き分けのないお前さんはね。」
弥代は、何も言い返せない。
「しかし弥代さん?大主様はとても寛大な御心を持たれた方で在られます。先の秋の一件で貴女に恩を感じているのは紛れもない事実。
……何故、私がこの席に同席を預かっているか分かりませんか?それが分かればここ数日、貴女の側に私がいた理由も自ずと分かってくる筈にございます。大主様はああは言いましたが、決して私は貴女の機転が効く、賢さは評価しております。
――――さぁ、弥代さん。
貴女は、もう答えが分かるはずだ。」
相良とはそのまま本堂の、招かれた場で一度離れる事となった。本堂を南に移動したって、屋敷の門があるだけで、今の弥代はこの屋敷から出る事は許されていない。門に近付こうもののならきっと、知った顔の門番である彼が今いるか居ないかは分からないが止められることだろう。無闇矢鱈に面倒ごとを起こそうという気は当然ながら、今の弥代にはなかった。
ただ、トボトボ、と。自分でもこんなに分かりやすく落ち込む事が出来たのかと、一種の驚きにも似た何かを器用に味わいながら、肩を落として先ほど相良と一緒に来た道を反対に進む。
長い渡り廊下の、体感でしかないが丁度半分ぐらいに差し掛かった頃。西区画の中庭に繋がるのに、数段段差を下って上ってとする所で、本堂を出てから誰ともまだすれ違っていない事をいい事に、弥代はその場で膝を抱えて蹲り、なんだかもう色々と頭の中がいっぱいで、考えるのを少しの間だけ放棄することに決めた。
少しでも向き合わねばならないと覚悟を決めて、その腹づもりで呼ばれたあの場所へと向かったというのに、本当に情けない話、あっという間に折れてしまった。まだどうにかなっていたモノも、引っくるめて全部が全部、音を立てて折れてしまった気がする。
どうしてこんなに上手くいかないんだろう。そう、思わずにはいられない。それが口から出ているかも、心内で思っているわけなのかも、それさえも今の弥代には分からなくなっていて。
だから、
「――弥代?」
自分の事を、ちゃんでもさんでもなくそんな風に名前だけで呼ぶ相手は数少なく、限られている。
腕の中にそのまま頭ごと膝を抱えるように蹲っているいたが、耳は塞がれる事はなかった。だから、だから弥代には自分の名前を口にする、少し距離の空いたそこから小さく駆け寄ってくるその相手が誰であるかなんて、とっくに検討はついていて。
なんでお前なんだよ、とか、なに見てんだよ、とか関わってくんな鬱陶しい、とかそんな……そんな言葉をいつもの調子であったら紡いでいた筈なのに、それが何も出来なくって。
弥代は、とりあえず春原の裾を握って泣きついた。




