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鬼ノ目 六節・旧国、溺るる虚像  作者: 三Ⅲ三Ⅲ三
前篇・蒙霧升降、風知草
4/13

四話 良心

 弥代が、目を覚ました。

 春原がそれを知ったのは七月二十八日の日暮れの事であった。

 

 

 伊勢原大神宮(いせはらだいじんぐう)での一件により、扇堂家(せんどうけ)の屋敷へとその場に居合わせた大半の者が移動を与儀なくされた際、目視ではあるが弥代や館林に()ぎひどい深傷(ふかで)であった春原も屋敷へと()ぶる形で運ばれる事となったそうだ。

 運ばれる際は意識がなく、意識がなければ当然抵抗もなく。大人しくすんなりそれは(かな)ったそうだが、それから半日と()たずして彼は屋敷の療養室で目を覚ましたと聞かされた。

 そこまで聞いてしまえば何となく……、そうは思いたくなくとも、何故自分がそんな話を聞かされる破目(はめ)にならねばならないのかを考えて、やはり心当たりなんてものは一つしか浮かばず、相良(さがら)は取りあえず声を出して笑ってみせた。

「いえっ、申し訳ございません、春原さんがご迷惑をお掛けしてしまったようで。

 長年一緒にいる(わたくし)でも(いま)だ手に余るような、その様な御方なのです。あまり意味があるかは分かりませんが、(のち)ほど此方(こちら)からも注意しておきますので。」

「そんなのが通用するのは、十やそこいらの餓鬼に限った話でしょうがっ‼︎」

 自分も普段から中々声の大きい自覚はある相良だが、男の大声と女の大声はまるで響き方が違う。耳元で直接(わめ)かれたわけでもないのに、キーンと耳の奥が痛む。しかし表情にそれを出そうものなら更なる追撃が来かねない想像は付き、変わりに形だけ頭を下げ謝罪を改めて述べるに留めた。

「本当に申し訳ございません。屋敷の女中の皆々様におかれましては場所だけでなく眠れる時間まで多く(けず)らさせる事となってしまいまして……、」

 緩く毛先を束ねただけの印象とは打って変わった、吊り上がった眉の勢いに老いれば額に皺が濃くなりそうなどと少々失礼な事を思い浮かべながら相良が頭を下げた相手は、扇堂家の屋敷の中でもその数は二十人に満たないとされる、上女中の一人。

 (なずな)と呼ばれる、歳の頃は二十(なか)ばの気性の荒そうな女性だ。

 ガミガミと未だに、まとまりのない言葉を捲し立てて憤りをただ発散するだけの彼女の相手をしつつ、そんな彼女の背後――廊下の端の方から様子を(うかが)う人影が()()()、と(よっ)つ。その内の二人は覚えがある事を思い出した相良は、今度は少々態とらしく今までよりも間延びした声で、そういえばーと口を開いた。

「ここに来る途中に、(なずな)殿を探されている女中の方が何人かおりましてねぇ、……確か、使えそうな手拭いを切らしてしまったので、代わりに解いていい着物がどれかとかそんな事を仰っておりましたねぇ……確か。」

 向かい合った相手の顔が一気に青褪(あおざ)める。左に偏った目が一瞬で右を向き、慌てた素振りを見せてから相良に背を向ける。

「おやおや、何か急ぎ用でございますか?」

「あっ……、アンタッっ!

 言いたい事は山ほどあんだから!次会った時、覚えてなさいよっ‼︎」

 分かりやすい歯を剥いて威嚇をしてからドタバタとその場を後にする彼女。目当ての人物がその場から離れた事で、その後ろを追い出す三人と、一人だけ相良の方に小走りで駆け寄ってきて、ペコリ頭を下げるのは毛先を中心に中途半端に色が抜け落ちたような髪をした、灰色の瞳を持つ女中だ。

「ありがとうございます相良さん。(あね)さんは一度話し出すと自分の気が済むまで動かない面倒な性分(しょうぶん)で、私どもも困っていまして。」

「いえいえ、あの手の上の方というのは自分の目の届かないところで間違った事をされるのをやはり嫌うものですから。

 普段、屋敷の手拭いが足りなくなるなんて事はありませんでしょう。着物をバラしてそれで、という中にバラしてはならぬ物があったとなれば、それでとやかく言われる事となるのは、まぁ好きな人の方が少ないでしょうね。」

「なるほど、勉強になります。」

 目が悪いというわけではないそうだが、先程の上女中とは違う意味で眉を釣り上げた、眉間にグッと目そのものを近づけたような目付きの悪さが特徴的な彼女の名は戸鞠(とまり)と言う。

 屋敷の身を置く医者の一番弟子か何かであるそうなのだが、師である相手に強請(ねだ)っても直接教えてもらえる事はとても少なく。屋敷を出てのお使いがてら、薬師として昨今(さっこん)はその名が多く知れ渡っている伽々里(かがり)に教えを()いに訪れる事も度々あり、討伐屋へ直接出入りしているのを相良自身も何度か見たことのある下女中の一人である。

 そして、芳賀(よしか)の想い人だ。

「態々御礼など必要ありませんのに。」

「……?

 いえっ、弥代さんの事についてもあったのですが?」

「あぁ……、」

 この様に直接面と向かって話す事はこれまでなかったものだが、可愛げが中々あるお嬢さんではないかと心の中で頷くのも束の間。結局そこに戻ってしまうのだな、と溜息を()きたい気持ちになるも、こちらの事情を何も知らない相手の前でそんなのしても変に気を遣わせてしまうだけだと、何より自分より十は歳の離れた相手にそんな無様(ぶざま)を晒すのは自身が許せない、と。

 背後にあった部屋の戸を開け、中に戸鞠を招いてから相良は口を開いた。

「中でお聞かせ願えますか?」



『中でお聞かせ願えますか?』

 と言った手前、室内に招き入れるべきなのは分かっているが、思わず相良は開けたばかりの戸を勢いよく閉めてしまった。

「……どうか、されましたか?」

「いえ?」

 何もない。何も、ありはしなかった。見間違いであると自分に言い聞かせて戸を再度開ける。

「……?」

 戸を開けると、そこにはまぁ、何かがあった。

 どう言い表したものかと、思わず頭を悩ませてしまう。いや、痛みを理由に考えを放棄したくなるような光景だ。

 どうしてこんな事になっているのかと、目の前に広がる状況を自分一人で理解するよりも当人らの口から語らせた方が早いのではないかと結論付ける。しかし今は自分に話したい事があるという戸鞠との要件を先に済ますべきだと、片腕が使えぬ状態であるにも関わらず器用に、足がまだまともに動かないというのに腕の力を使って前に進もうと藻掻(もが)く春原の背中に馬乗りになり、暴れるのを阻止する館林に軽く目配せをした。

「……よ、よろしいのですか?」

「えぇ、怪我人に余計な怪我をさせれば怒られるのは私ですので。一つ二つ増えようが変わりはない彼に任せるのが妥当です。」

「ぇ……ぇえ?」

 実際のところ、怪我をしていない者が怪我人の傷を増やそうものならあの薬師は黙ってない。何も怪我人同士が傷を増やし合えばそれで怒られないというわけではないが、わざわざお怒りが飛んでこない安全地帯から易々と出るつもりはないというだけの話だ。し、自身だってまだ体の内側の骨の傷は癒えてない。ここで余計に首を突っ込んでしまい、それで動けなくなるような事があっては元も子もない。念には念を、というだけ。

 話してもない経緯を相手が理解出来るなんて、それこそ心を読めでもしない限り到底無理な話。同意を求めてない独り言のようなモノです、と一言添えながら、相良は部屋の窓際にあった脚の長い椅子に、その座面へと腰を下ろした。

「……失礼、します。」

 相良に(なら)い腰を下ろすも、浅く腰掛ける戸鞠は椅子に座り慣れていないらしくモゾモゾと、手は畳の上に座るように膝の上でいいのか、足は閉じた方がいいのだろうが収まりのいい場所が分かっていない様子を見せた。

 これは少々失敗してしまった、胸の内に小さく(こぼ)しながら、彼女の為を思うのなら手短に済ませるべきだ、と改めて目を合わせた。



「弥代さん……なんですが、」

 弥代(本人)曰く、屋敷女中で雪那付きの下女である戸鞠という女は自分に対して以前から当たりが強い、との事。

 主人である扇堂雪那を前にしていようがいまいがお構いなしに、弥代が何か粗相を働けば容赦なくそれを指摘してくるし、普段の三割増しぐらいに目付きを鋭くさせて暴言としか受け取れない言葉を投げ掛けてくる、遠慮知らずの怖い女だと、そんな愚痴をよく芳賀(よしか)を相手に漏らしていたのを、討伐屋という同じ屋根の下に暮らしている相良は耳にする機会が多くあった。

 最近は屋敷の外でも主人の傍にいる事も少なくはなかったそうで、場所なんてお構いなしに大通りでも同じような対応をされる事もあったものだから、公衆の面前で恥を掻いたとか何とか、そこから長々と始まっていたはずだ。

 芳賀が想いを寄せる相手、という時点で少なからず、肝っ(たま)の座った女性であるとは考えていた。また伽々里が根が真面目で、貪欲にアレもこれもと知りたがる意欲のある“色持ち”の娘であるとは聞き及んでいたが、やはり自分が直接(せっ)した事が無いだけに戸鞠というお嬢さんがどんなかを(はか)りかねていたのだが、弥代のそれはまんまただの愚痴であった事をここに来て知った。

 (いや)、別に疑っていたわけではない。

 口が乱暴で、人前だろうとお構いなしに相手を鋭く糾弾(きゅうだん)するような、心ない娘などではない。

 主人である扇堂雪那を(かい)してでしか関わる事はないものの、“色持ち”であり同じ女性である為に、相応の苦労を、似たような境遇を恐らくは経験して来たに違いないと、だからこそ顔を合わせる事があれば気に掛けるようにしてはいるのだが、素直になれない性分故に棘のある言葉ばかりを投げ掛けてしまう事が多いのだと言う。

「弥代さんは、気にされていましたでしょうか?」

 気にして当然だとは思うのですが、と弱々しい言葉が続く。

「だって、弥代さんの口から雪那様以外のご友人の名前を私、聞いた事がないんですっ、」

 九日前の出来事をきっかけに、扇堂雪那は戸鞠に事づけを頼んだそうだ。それは弥代に()てられた言葉で、暫く顔を見たくない、といった内容のモノだったらしく。目を覚まして少し経ってから、二人きりになってから戸鞠はそれを弥代に伝えたのだという。

「それまで目を合わせていたのに、急に逸らされて。それから何も言わずに横たわってしまわれて……。静かだなぁ、と覗いた時には寝ておられて……それで、」

 戸鞠は弥代が目を覚ますのをあの部屋で待っていたという。しかし弥代が目を覚ましても、まともに話しをする事は叶わぬまま、踏み入ろうとした時には遅く、その場に彼女・伽々里が訪れたのだという。

(あぁ……だから、ですか?)

 正しくは、相良が戸鞠と一対一で言葉を交わすのは今日が初めてではなく、昨日の事だ。

 屋敷の西区画の中でも、岩肌が露出した山側になる北の奥の広間。その広間に繋がる廊下での対面だった。

 討伐屋に事情は説明して置いてきた芳賀と桜が、あまり帰りが遅いと心配をさせてしまうと伝えれば思った通りにすんなりと(それでも躊躇いは感じられた)伽々里が部屋を(あと)にした、それから半刻程経った(のち)、弥代の身の回りの世話を()()おうと、前もって案内されていた女中部屋に足を運ぼうと部屋を出た時だ。

 灯りのない薄暗い廊下に、桶やら折り畳まれた着替えを腕に抱えた戸鞠がそこにはいた。

 行く手間が、詳しい者を探す手間が省けると、諸々何が何処にあってと細々したものを(たず)ね、共に足を運んでもらい確認をしと、そんな事を一緒にしていたものだが、出会い頭も別れの際も彼女は、何やら言いたげな様子は見せていた。

 ただ昨日は朝からあった大主や古峯の土地神を交えた会話があったりと、やや浮き足だっており気付いてはいたが気に掛けてやれる余裕がなかった。

 恐らくはあの時も、弥代について話したかったのだろう。あるいは、弥代と直接自分で話したかったに違いない。少なくとも、目の前の彼女を見て相良はそうとしか思えなかった。

『誰があんな暴力女……、』

 そんな叱言を漏らすくせして、実際に手を挙げられた事は無く。彼女に出会う(たび)に何かしらちょっかいを掛けて平手や拳を貰う事が多い芳賀とは大違いじゃないかと不思議に思っていたのだが、だからつまりはそういうことなのだ。

『仲の良いヤツなんか、そんな居やしねぇよ、』

 当人がそう言うのも思うのも確かに自由ではあるが、少なくとも一方的なものであっても弥代を気に掛けている、身近な存在がキチンといるという事は紛れもない事実で。まぁ、多少戸鞠側にも性格に難はあるようだが、自分を思ってくれる存在が少なからず、一人でも存在してくれるという事は、弥代をこの場所に繋ぎ止めるきっかけになるのではないかと、そんな風に思えて。

「わかりました。」

 ニコリと、相良は笑った。

「私が代わりにお伝えしておきましょう。」 

 当然、嘘である。



 やはり座り慣れていなかったのだろう、話を終えるなり戸鞠はそそくさとお尻周りの軽く撫で(さす)りながら退室する。先ほど上女中の(なずな)にグチグチと絡まれている際に、こちらを覗いていた廊下の端。同じ場所を曲がる、去り際に小さく会釈を挟んでいた。

 戸鞠がこの場を離れた事を確認してから廊下と部屋の間の戸をしっかり隙間なく閉めてから、漸く相良は床の上で今もみっともなく抵抗を示している春原を見遣り、視線を合わせる為に膝を屈めた。

「何をするおつもりですか、春原さん?」

「……弥代に、会いに行く。」

「その脚で、ですか?冗談は()して下さいな。床を這って行くのも勿論駄目ですからね?」

「……駄目、なのか?」

「駄目です、寝台でまだ安静にしていなさい。」

「…………」

「御返事、を。」

「……分かった。」

 ピタリ、とそれまで見せていた動きが収まるのを見て、やっと春原の上に乗っていた館林が立ち上がった。

「初めから止めてくだせぇ。こっちは怪我人でせぇ、志朗(しろう)。」

「招いた客人を後回しになど出来るわけがありませんでしょう、失礼ですよ二葉(によう)?」

 しかし自分が一言、春原に大人しくよう言葉を掛けていればそれで暴れるのを止めただろう、それは違いない。

「力持ちの貴方でしたらどうにかなるだろうと信頼していたのですよ。」

「笑えない冗談は、好きじゃありやせん。」

 首を大きく鳴らす、相良よりも頭一つ分は上背のある男は言いながら自分に割り当てられた寝台へと戻って行った。

 冗談が過ぎたのは一目瞭然。だが互いに新しい怪我が出来ているようには見えず。館林が退()くも結局自分の足では立ち上がる事が出来ずに床の上に転がっているだけの春原に、相良は手を貸した。

「全く……、大きくなっても貴方は本当に手の掛かる方ですねぇ?」

 屋敷の女中の方々から苦情ばかり預かっていますよと言えば、これまでに比べれば分かりやすくその眉がグッと額の中心に寄る。

「違う…………、叱られるような事はしていない。」

今朝方(けさがた)、今みたいに床を這って廊下に出たそうじゃないですか?驚いた女中が腰を抜かして立てなくなってしまったと聞きましたが?」

「腰を抜かしたのは相手が悪い。」

「いいえ、原因を作った貴方が悪いです。大人しく寝ていなさい。」

 相良の言葉を受ければやはり春原は大人しくはなるが、それが相良だけの言葉であるというのが中々問題だ。怪我が完治したわけではない相良からすれば、自分の一言で春原が暴れなくて済むのは助かるのだが、自分がいない場ではどうするのかと、そればかりを考えてしまう。

 だから自分がいて、尚且つ自分とは違う術で春原を止められそうな相手がいれば、それは可能な限り試しておいた方が良いと、手数は無いに越した事はないと様子をみるのだが、今の所上手くいった事は一度もない。やはりそうは上手くいかぬものだ。(もしかすれば怪我をしているのが春原のみであったのなら、万全の状態の館林であれば止める事は叶ったやもしれぬ、と淡い期待を(いだ)きはした)

 何はともあれ、今日がまだ初犯である。

 こうまで口を酸っぱく言えば同じような事はしないはずだと、寝台に横たわらせた春原を見下ろし相良はやっと一息()いた






 蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 四話






『それは恐らく、旧国(きゅうこく)に棲まうとされる、鬼神(きしん)で間違いはないでしょう。』

 相良が部屋を出ていって暫くが経つ。

 古峯の二人との話を終えたら今日は、春原と館林がいるという部屋に行って顔を見て、出来るなら少し言葉を交わして、とそんな事を話し始める前は考えていたのだが、自分が言い出しっぺであるのなんて分かっているのに、それでも行く気が浮かばず、それはおじゃんとなってしまった。

 古峯の二人とは相良を(まじ)えたこの部屋で、それなりに他にも話しをした事は覚えているのだが、時間が経つと覚えているのは限られた。

 話し合いの場には途中、四、五ヶ月ぶりとなる黒狐(こくこ)の彼が乱入してきて、失礼な事を言っても全く頭を下げないでいる兄妹の頭を掴んで、下げさせて、と。

 以前会った時では考えられないぐらい二人と親密な、信頼関係が築かれていないと出来ないような事をしており、すっかり古峯の地に馴染めている様子が伺えた。

『お久しぶりですね、弥代さん!』

 二人の間に体を直接()じ込むようにその場に居座り、彼からそんな言葉が発されれば久しぶりの再会という事もあり、弥代も自分の言葉でいくらか会話をしたのだが、それもまた先の話同様に細部を殆んど覚えていない。

 和談(わだん)の最中は気分もそこまで落ち込んではいなかったはずなのに。

「……、」

 ボーッとそんな事を考えながら縁側の近くでだらしなく寝転がっていたが、ふと西陽の角度が急な事に弥代は気付いた。

 寝ていたわけではないし、屋敷の人間が用意して持ってきた昼餉(ひるげ)をいただいたのは、朝の早い内にやって来た三人との会話を終えた後で、だから……

(時間、過ぎるの早ぇな……)

 大きく寝返りを打つ。

 雨の日以外はどうやら年がら年中開け放たれている事が多いという、弥代が十日近く占領をしているこの広間は、庭を挟んだ向かいの建物まで距離があった。日中は陽がよく部屋を照らすので畳は廊下側と縁側とでは見比べると色味が少々違ったが、縁側の方はなんだかポカポカとしていて、日中陽をいっぱい浴びた目に肌が擦れるのがとても心地良かった。

 明日(あす)明日(あす)で、どうやら自分はこの屋敷の主人であり、榊扇の里を治める腰の曲がった女主人・扇堂杷勿(はな)に呼ばれており、今日の古峯と同じように何やら話しをしなくてはならないそうだ。

 里の事だとか、これからの事だとかを軽く少々、という風に相良は話していたが、なんだかそれを思い出してしまうととても気が重い。

 屋敷で用意してくれた、わざわざ自分の為に(あつら)えられたであろう着流しに袖を通して、屋敷の(くりや)で用意された飯に当たり前に手を付けておいて、一人で過ごすには不釣り合いな、勿体無い広間を丸々一つ与えられそこで約十日間をほぼ寝て過ごし、と。

 なのに屋敷の主人に未だに挨拶の一つもしていないというのも、考えてみれば可笑しな話だ。必要な顔合わせだと、しかし最後に直接顔を合わせたのが恐らく去年の秋の、例の雷の晩であるのを思い出せば、どんな顔をして会えばいいものかと頭を悩ましてしまう。

 だが、まぁ、今日はもう休もう。

 弥代はその場で眠りに落ちた。






 翌日 七月三十日

 着替えた覚えのない、相変わらず肌触りのいい夜着に身を包んだまま、弥代は目を覚ました。

 湯を浴びた記憶も当然ない。多分そうなのだろな、と汗臭さを全く拾わない鼻を疑わずに、今日は久しぶりに早々に布団から体を起こした。

 ぐるり、大きく部屋を見渡す。勿論自分の背後もしっかりと。部屋に、自分の近くに誰もいない事を確認して布団から出れば、それを手早く三つ折りに折り畳む。普段、それほど広くはない長屋ではいつもやっていた事だ。畳んで部屋の隅に追いやらねば他を出来ない事の方が多過ぎて邪魔になる。当たり前の事だ。

「……、」

 ただこの広間においては部屋の隅に追いやるとなると、今自分のいる場所から随分と離れる事となる。なんなら記憶が正しくば昨日は縁側の近くで横になっていて、そのまま寝たはずだから布団に潜り込んだ覚えがない。だから、それも多分そういうことなのだろう。

 畳んだばかりの布団の前に胡座を掻いて、腕を組む。はたしてこのままここに布団一式を置いておいていいのか、部屋の隅まで運んでしまった方がいいのかを考える。

 でもその前に顔を洗いたい気もしてくる。寝起きで目脂(めやに)が気になるし、体は拭かれた後なのだろうが、いつ拭いたかは分からないのですっきりしたい気持ちが沸いてくる。

 背をまるめるように、前のめりになりながら考えあぐねていると、廊下と部屋を繋ぐ襖が開けられた。

「おや、今日はお早いお目覚めですね、弥代さん?」

「ぁ…………ん、あぁ……お、おはよ相良、さん……、」

 歯切れは悪いし出だしは最悪だ。誰もいなかったのだから喋る事もなく無言で過ごしていた。起きてからそれほどまだ経っていないし、喉の奥が張り付いてしまい思うように声が出なかった。

 そのままで構いませんよ、と一言。こちらがまだ整っていない事を察したように制してくるのに弥代は甘えた。そして彼が腕の中に抱えてきたそれが、今日の自分に用意された装いである事を察した。

「えぇ、そうです。

 着替えをこちらに置いておきます。外に出ていますので、その(かん)に着替えてくださいね。」

 何も言ってないのに、弥代の目線に気付いてかそんな事を相良は何でもないように言った。中に入る際は襖を二回叩きますので、という言葉に、昨日(きのう)着替えた時もよくは覚えてないけどそうだったのかもしれない、とそう思えてきて、とりあえず目の前に置かれた真新しいそれを手に取った。



 昨日(さくじつ)同様に真新しい着流しだ。

 皺の一つもない、(のり)か何かで形が崩れぬようにでもなっているような、裏地のない、これも恐らくは夏の物。

 昨日と比べればいくらかやはり心にゆとりがあるからか、余計に自分にはこんな上等な物は似合わない、不釣り合いであるという感想を素直に抱くのだが、他に何も用意されてないのだから出された物に文句を言わずに袖を通す他あるまい。

 と、今日は着流しだけでなく丈の長い袴が(本来の袴はそれが普通の長さである事ぐらい弥代だって分かっている)あり、大人しく履こうとするのだが、足を入れて直ぐに正しい着方が分からない事に気付く。

(そういや俺、いつも適当に縛ってるだけだったな。)

 榊扇の里を出て、津軽を目指す道中に古峯の地で途中世話になった際。

 数日遅れて自分を追ってきた討伐屋の二人が(たく)されたという葛籠(つづら)の中にあった厚手の袴だけでなく、春先に彼女が贔屓にしているという呉服屋で仕立ててもらった、丈の短いのに足を通した時もそうだった。

 とりあえず落ちなければいいと、太めの紐を腰に回して、それで見栄えは気にすることなく適当に帯紐を縛って、それで……

『そんなぐちゃぐちゃにしてぇ。

 初めからお姉ちゃんにやってって言えばいいものを、弥代は見栄っ張りさんだねぇ。』

 冬はそれでどうにかなったものを、春は彼女がそれを許してはくれなかった。

 折角似合うように仕立ててもらった立派なものをそんな風に扱ってはいけないとでも言う様に彼女は、後ろから腕を回してきて、弥代に手元が見えるように、肩口から顔を覗かせるようにして、慣れた手付きで不恰好な帯ごと巻き直し、結び直してくれた。

「……。」

 用意された手前、着なくてはならないのは分かっているが、自分が出来る着方が間違っている事を弥代は知っている。足を突っ込んだまま、抑えていないといつずり落ちそうになっても不思議じゃない袴の一端(いったん)を握りしめたままボーッと立ってしまう。と、襖がトントンと二回叩かれた。

「手をお貸ししましょうか?」

 なんとも都合が良過ぎる。



 いつまでも待っても返事はない。それでもさっきまで聞こえていた布擦れの微かな音が聞こえなくなった事に、着方にもしや苦戦しているのではないかと予測を立てた相良は助け舟を出す為に、失礼しますと(ことわ)りを入れてから室内に踏み入った。

 それから、あぁ……、と小さく溢して、自分が用意して畳の上に置いた、薄い盆の上に小さく折り畳まれたままである袴よりも鮮やかな色をした角帯(かくおび)を手に取った。

 弥代が右手に握りしめてる紐は、長襦袢(ながじゅばん)を縛る為のもので、それでは袴を固定するのは難しい。

 目は合うのだが、口を開く気はないのだろう様子を前に、ため息を見せないようにして相良は近付いた。恐らく弥代は自分が今身に纏っているのが着流しであるとか、そんな勘違いをしているに違いない。でなければ長襦袢の直ぐ後に袴を履こうなんてしない。

 そんな事さえもきっと知らないのだと思えば、それは可愛いでどうにかなるものではないように思えてきて。だが同時に、だからこそこの恵まれた機会を弥代(彼女)は逃してはならないのだと、これから顔を合わせる事となる扇堂家当主の姿を思い浮かべながら、相良は小さく口角を持ち上げた。



 屋敷の一番奥、山側に位置する広間を出れば長い廊下を左に進む。一昨日の晩、弥代が途中で裾を踏んづけてしまい転んだ廊下だ。

 山側にはしっかりと壁があり、雨風が入ってくる事はないそうだ。

 提灯や行灯が置かれる事は、夜遅くは普段であれば人が寄り付く事もないものだから必要がないとされ何も置かれていないらしく、屋敷の女中はある程度暗くても壁に手をついておけば、迷う事なく一番近い(かわや)を目指す事も出来るそうだ。

 慣れてるものなら、の話だろ?と弥代が口を挟めば、相良が意味深に仰る通りですねぇ、と間延びした、どこか人を小馬鹿にしたような反応を示すものでこの話は直ぐに終わった。

 突き当たりが近づくと左右の壁がなくなり、広間の縁側からも見る事が出来た中庭に繋がっている。昨日顔を洗うのに一度草履に履き替えてとしていた場所だ。

 しかし今日はここで草履に履き替える事なく、半歩先を進む相良の背中を弥代は静かに追った。

「右手が屋敷に暮らしてらっしゃる世帯(しょたい)……、家族がおられる方や、お子さんのいらっしゃる方が暮らす居住域となっているそうです。」

「へぇ……」

 一時期とはいえ友人の厚意に甘え、この屋敷に身を置いていた、世話になっていた弥代だがその生活の中心はやはり友人である雪那が暮らす、東の離れが大半であった。

 屋敷の西区画は住み込みの女中やら、屋敷の門番が休める小屋であったりと、そんな物ばかりであるというのは聞かされていたが、まさか屋敷の敷地内でそのまま家族が暮らすような事もあるとは考えた事もなかった。

 が、チラリと覗いた廊下の右手からは格子戸(こうしど)からは、こちらを覗くように年端もいかないような幼子がチラホラ。長屋横丁なんかで見掛ける背丈の近い子らとなんら変わりない印象であった。

 

「続きまして左手に続くこちらの……、」

 いつぞやを思い出すように相良は聞いてもいないのに屋敷の構造を、どこどこには何があってという細やかな説明を続けた。

 初めはただひけらかしたいだけなのかと聞き流していたが、突き当たりを左に曲がったら次は右、また右の今度は左に進んで、暫く進めたと思ったら右の、またしても右、左やっと左といった具合にかなり面倒臭い、ややこしい道順となったことで、彼は恐らく道を順路を思い出す為に、自分の記憶を辿ってそれを口に出しているのではないか、とそんな風に思い始めた。

 弥代がそれに至る頃には入り組んだ廊下は終わりを迎えていて、一気に(ひら)けた広い廊下が見えてきた。真っ直ぐ一直線に続く廊下の先には、恐らくは屋敷の門を(くぐ)ればいつも目にする立派な本堂があり、多分それだと確信する。

 そういえば初めてこの屋敷で目を覚ましたその日、屋敷お抱えの医者に今自分がいる場所によく似た廊下を一緒に進み、療養室だか治療室だったかそんなどっちかに案内されて、それで。

「……、」

「……。」

「相良さん、今」

「大主様をあまり待たせてはなりませんよ?先を急ぎましょうか?」

「……ぁ、うん?」

 すかさず相良は、右手の戸の引き手を抑えつけた。そのまま顎で弥代に先へ進むように促すが、彼が抑えつける戸が音を立ててガタガタと揺れるのに、何となく察しがついてしまった。

 多分、その……戸の向こうがあの日に自分が案内された部屋で、中には昨日自分が顔を見に行こうと思っていた相手がその……居る。

 恐る恐るその場から弥代が少し離れるように先へと進む。すると相良は一度部屋の中に入り、距離がありはっきりとは聞こえなかったが何かしら大声を張り上げた事だけは弥代でも分かって。

「お待たせしました。」

 何事もなかったように、(にこや)かな笑みを浮かべる彼に、弥代は掛ける言葉を持たなかった。



 本堂周りの廊下に一度上がってから右手に進むと見えてくる長い渡り廊下と同じように、屋敷の西区画と本堂を繋ぐのも長い廊下となっていた。

 渡り廊下といってもそれほど高さはなく、弥代の足なら膝半分ぐらいの高さしか地面から離れていない。が、途中に四、五段続く緩い階段が設けられており、渡り廊下を跨ぐようにして、西側の入り組んだ中庭へと繋がっているそうだ。

 これまでの複雑な道とは違う為か、口数も随分と減ったように感じつつ。それでも弥代はその後ろに続く。

 と、前方から弥代のよく知った顔の相手がやって来て、目が合った。

「おはようございます、相良さん。」

 屋敷に招かれている客人が相手だからだろうか、相良が言葉を返すよりも早くペコリと頭を下げる綿毛のような白髪頭(しらがあたま)の彼。

 あの日以来顔を見ていなかった、弥代からしてみれば比較的親しい間柄である相手を前に、相良の様子を窺った(のち)、自分も声を掛けていいだろうと心の準備をしたのだが、軽い会釈を終えた彼はその場に居合わせた弥代を一瞥(いちべつ)もくれずにすれ違うだけに終わった。

『雪那様からの、伝言です。』

『暫く、お顔を見たくないとの事。もし用が御座いましたら、(わたくし)を通して全てお伝えしますので、何卒、よろしくお願いします。』

 一昨日の言葉が自然と蘇ってくる。

(お前も、そうなのかよ?)

 緩く折れ曲がった指先を、グッと強く握りしめてしまう。表情に出てしまえば傍にいる男がそれを拾わない事はない。おや、どうかされましたか?なんて、きっと大体予測がついた上で(わざ)とらしくそんな言葉を並べられてしまう。気に掛けてほしくもなければ、触れられたくもない話だ。

 だから、なるべく(おもて)に出てしまわぬように弥代は(つと)めて、そうしてまだ動かずにいる相良よりも一歩だけ、前へと踏み出した。

 そうだ、と言い聞かせる。

 何も自分は彼とは親しい間柄にあるだけで、友人と呼べる仲では決してない。互いに遠慮なくただ小突き合う事があったぐらいで、その中心にはいつだって彼女が、弥代にとっても唯一と呼べる友人である雪那がいて。

 雪那が居る事で初めてそういった関わりが出来ていただけで、雪那を介す事がなければただの、ただの……、

(他人……、だ。)



「何か、御座いましたか?」

 相良は、分かっていて(たず)ねた。

 敢えてすれ違った直後には何も言わなかったが、少し距離が開いてやっとチラリと此方に視線を寄越(よこ)す藤原の血筋の彼の、申し訳なさそうな表情を目にして、()かぬようにと決めていた気持ちを緩めた。

 しかし、グッと堪える。表情には決して出そうとしない弥代はそれには何も答えることなくまま、元の目的の為にだけ相良の名前を呼んだ。

「行こう、相良さん。」

 本堂は、既に目の前だ。   

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