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二話 決壊

 生きている時間が長くなれば長くなる程、かつて(みずか)らが定めた指標(それ)そのものが、本来とは異なる(かせ)となっていまい、昔の自分なら出来たであろう妥協が難しくなってしまう事がある。

 長く生きすぎた結果であろうか?そんな事を考えながら女は、寝台の上に横たわる男を見下ろしていた。

 自分が覚えている男の姿と、今の姿を照らし合わせて見るとその差は一目瞭然とまではいかないが、それでも皮膚の(たる)み具合を見て離れて過ごした、過ぎた時間を思い知る。

 あの日、丸みを帯びていた輪郭(りんかく)はもう此処にはない。

三一(みかず)……、」

 覆い被さる瞼の、その奥にある瞳。

 眼球は唯一と言っていいほど、誰しも生まれたその時から変わる事はないというのにそれを(かこ)う、覆う全てが大きく変わってしまった。(ゆる)んだ目尻はそれでも変わらないのではないか、と。手離してしまった日々の残留(ざんりゅう)を隈なく探すかのように、思わず手を伸ばしてしまう。

 二十年以上握り続けてきた彼の手を、離してしまったのは他でもない自分だというのにも関わらず。



 自らに、その在り方を課したのは自分だ。

 終わりが中々訪れる事がない自分とは異なる、短い生に寄り添う。

 身を(むしば)む原因を取り除き、本来関わるべきではない彼等に手を加えた。少しでも長く生きてほしいと、自分には(つむ)ぐことの出来ないと分かっているからこそ。それでも彼等の紡ぐ、その輪の中に自分が限られた時であっても加わる事が出来る事が、それで女の心は満たされてきた。

 愛したのは、彼らが紡ぐ日々。

 それぞれがそれぞれの思いを胸に、一日一日を懸命(けんめい)に生きていく。それが何よりも(いと)おしかった。

 だというのに、自分が目に掛けていた、人を真似て育てる(よう)になった幼子(おさなご)が自分の指し示した道を歩まず、誤った方へと道を踏み外していく。その現実を女は受け入れる事が出来ず、手離してしまった、どうしようもなく救いようのない過去。

 それは自分が愛した人間の姿に、違いないというのに。

 ここ数日、長年直接関わる事を避け続けてきた、顔を見ないようにしてきたその男を前にして、女の考えに揺らぎが(しょう)じた。始めの内は、それは男に対して抱くものであると、そう思っていたのだが日を重ねる、顔を見る回数が多くなるにつれて、それがその男へなどではなく鉾先(ほこさき)が向けられているのは自分自身であった事に気付かされた。

「……三一。」

 男の意識は既に回復している。なのに自分の前では一向にその瞼を持ち上げる事はない。

 どれだけ自分がその名を、あの日与えてやった名を呼ぼうとも目を覚ます素振りを見せない。






 蒙霧升降(ふかききりまとう)風知草(かぜちぐさ) 二話







 部屋からその女が立ち去って行くのを待って暫く経った(のち)、やっと佐脇(さわき)はその瞼を持ち上げた。

 まさか、まさかである。

 (いや)、薄ら佐脇は彼女の存在を認識していた。

 一万にも及ぶ民が日々を紡ぐ榊扇の里において、噂話というものはあっという間に広がるものである。

 (まれ)に覗き見る事が叶う瞳は白く、目弾(めはじ)きと薄塗りの紅がなんとも目を引くという、黒髪の美しい女薬師。

 それだけで、たったそれだけではあるが佐脇は耳にして直ぐに、それが自身のかつての師であると確信を抱いた。

 そしてそれが恐らくは、自身が主君と見据え仕えている、扇堂家七代目当主・扇堂(せんどう)杷勿(はな)(はか)らいによってこの榊扇の里に招かれた、妖討伐を生業とする集団に身を置いているだろう事も気付いていた。

 扇堂家の屋敷において、見習いの時期も含めれば(ゆう)に三十年以上居座っている身である佐脇は、本来の役割――扇堂杷勿の主治医として腕を振るう事もあったが、人手が満足に足りている(特に男手)とは言えない中、自ら買って出て、里の方々へ足を運ぶ事も少なくはなかった。

 先の秋口など、直接(くだん)の討伐屋に(おもむ)く用事があったが、だがそこに居ると聞いていた筈の薬師の姿はなく。その場に居合わせた男に薬師の所在について(たず)ねても、返ってくる反応は酷いものであった。

『あっ、薬師様だ!』

 里を歩く途中、そんな声を聞いて慌てて振り向けど、しかしそこには自分の求める姿は見当たらず。だが、自分に見えぬだけの其処に、恐らくは里の者が薬師様と敬い呼ぶその御方がおられ。

 求めていた筈のその存在に向き合う勇気は、次第に削がれていった。

 二十年程前の事を、謝りたかった。

 貴女の期待に沿う事が出来なかった私を、どうか罰して欲しかった、それだけ。

『許したわけじゃないよ、あたしは。』

 年に一度、決まって春のその日、扇堂杷勿は佐脇にそんな言葉を投げ掛けてくるが、それ以上は何もない。忘れるんじゃないよ、とただ釘を刺されているだけ。

『何を、お望みなのですか?』

 その聡明さを高く評価されている分家の扇堂美琴には、そもそも相手にされる事がない。恐らくは佐脇自身が抱える罪を、その全容を誰よりも理解しているだろうまぎれもない当事者ですらそれなのだから、近しい者に望める相手はいなかった。

『……三一、』

 いや、いた。

 途端に視界がぐるりと大きく傾く。

 自室の天井より吊り下げた(ざる)がくるくると、窓を全開にしている事で入り込んでくる風で回っているのをずっと見過ぎた所為(せい)であろうか?そんな事はない。

 重く、乗り掛かる現実。

 佐脇が屋敷に身を置き始めてから五年ほど経った頃、屋敷の西側にあるという地下牢に棲みついた浮浪児がかつての主人として側に居続けた、彼女・扇堂春奈の手によって連れてこられた。

 自身は変わらずこの三十年以上を扇堂家の屋敷で過ごしてきたが、氷室(ひむろ)と、彼女に名を与えられた浮浪児は屋敷で過ごしたり過ごさなかったり、と。それでも佐脇が屋敷で関わる中では、何も関係がないわけではなかった。

 何より佐脇が過去に冒してしまった罪、それにその男もよく知っている。誰よりも彼女の、扇堂春奈の傍にいる事が許された男であったが為に、彼ならきっと自分を罰してくれるのではないか、と期待をしていた時期も当然あった。

 だが、彼は死んだ。

 八日前の、花火の晩の事である。

 なんなら自分と同じように他者にいつの日か罰せられる事を深く望んでいる様子であったのを、佐脇は気付いていた。

 考えないようにしていたつもりなので、まさかここで思い出すはめになってしまうとは、と。この歳になっても浮かぶものなのだな、と抑えようのない体現に身を(ゆだ)ねてしまう。その方が、今はきっと楽だ。

 あぁ、そうである。

 師について、は、今は少しだけ目を瞑る。

 日に一度しか訪れぬ彼女だ、今日はもうやって来る事はないだろう。






 夏であるというのに何処となく涼しさすら感じるのは、縁側の(ふすま)が全て開け放たれているからだろうか。ひんやりとした空気と同じぐらい熱の(こも)っていない冷ややかな視線を前に、他に何をする気も浮かばず弥代は布団に体を預けてみせた。

 何かしら言葉を返した方がいいのだろうが、彼女の言葉に何を返せばいいのかが、今の弥代にはまるで分からなかった。

 何か用があるのかと切り出したのは自分であるが、相手の返事が全く予想だにしないもので、言葉を詰まらせてしまう、なんていうのは別に珍しい事でもないだろう。きっとよくある事かもしれないじゃないか、と自分にそう言い聞かせてそのまま、何なら狸寝入りでも決め込んでやろうかと。そうすれば彼女もその内、この部屋から立ち去ってくれるのではないかと。そんな事を期待しながら瞼を閉じたのがほんの少し前の事。

 寝たふりをするつもりでいた筈なのに、ちょっと目を閉じてジッと大人しくしていたらいつの間にか寝入っていた。部屋に差し込む日差しの量が先ほどよりも少なくなっている気がする。きっと陽が高く昇った頃なのだろう。

 先ほど目が覚めた時はそれが朝であるかも昼であるかも分からなかった、そこまで気に掛ける余裕がなかったが、今はやけに頭がスッキリしていて気付けた。単純にまだ疲れていた、寝足りてなかっただけなのかもしれないと考えて体を布団から起こしてみるが、

「……なんで、()んの?」

 寝てる間に立ち去ってくれる事を期待していた彼女が、どうしてだかまだその場所にいた。なんならさっきは持っていなかった本のようなものを持って、廊下側の襖横の柱に凭れかかるようにして(くつろ)いだ様子でそこに居た。

「話が中途半端、でしたので。」

「聞きたくねぇから寝たふりしたって、わっかんねぇかな?」

「実際に寝てたくせして何を言ってるんですか?まだ寝惚けてらっしゃるのでは?」

 目もくれず、手元の本の字を今も追っているだろう彼女・戸鞠(とまり)は、しかしその調子を一切崩すことなく、畳に伸ばした足を一度組み直す動作を挟んでから、そんな言葉を弥代に投げ掛けてみせた。

 本当にこの女は自分に対して扱いが酷い、と自分の日頃の行いは棚に上げ、(いぶか)しげな視線を一言二言の言葉を交わす間は送り続けていると、戸鞠は開いていた本を閉じ、鋭く弥代を見た。

「何があったのかお忘れですか?」



 言われて、これで既にもう何度目だと呆れを抱きながら、弥代は合わせたばかりの視線を逸らしてしまう。無意識ではない、分かっていて逃げている。こんなにも分かりやすい反応を示してしまって、それでどうにもならないことぐらい分かっているし、きっと今この場にいる彼女は弥代のそれを()しとする事はないだろう。だから先ほどの雪那からの伝言を伝えられた時よりも、一度逃げた自分に向けるその眼差しが鋭い物に見えたのだ。気の所為などでは決してない。

 ただ、それよりも自身が取った行動に呆れを抱き始めている時点で弥代は、

(忘れられる、わけねぇだろ。)

 寝起きだから喉が渇く。

 此処は数歩歩けばそれで満足に手が届く、自分が榊扇の里で暮らすのに間借りしている手狭(てぜま)な長屋とは違う。水瓶(みずがめ)に張っておいた、井戸から汲んできた水を必要な時に好きに飲む事だって、形だけ畳むだけ畳んでおいた着替えに手を伸ばして、それで起きたら着替える事だって出来ない。

 水をよく絞った布で、自分の体なのに隅々まで勝手に他人の手で拭かれるし、飯の一つだって匙で掬われたものを口元まで運ばれて食べるようなものだ。

 今さっき起きてから口にしたものはまだない。弥代が最後に口にしたのは、今はここにいない下女の巴月(はづき)が食べさせてくれたそれでもたったの数口だ。あんな量で足りるわけも、潤うわけもない。

 だからだ、だからなんだと言い訳をどうにか探して、手頃なものを見つけてそれを原因に自分の中で仕立て上げて、それ、で。

「失礼、いたします。」

 彼女から逃げるように逸らした視線は、いつの間にやら掛け布団に深い皺を刻む、自分の手元に向けられていたようで。それにすら弥代が気付いたのは、聞き覚えのある声が聞こえてきて、ハッとした、その時だった。

 声のした方を向けば丁度その時、戸鞠が凭れかかる柱横の襖が微かに動き出した。

 

 

 伸ばしきっていた足を折り曲げて、だらしない恰好(かっこう)をしていた戸鞠が慌ただしくその背を(ただ)す。自分だってその声の主が突然前触れもなく姿を見せるような事があれば同じような反応を見せる事になるだろう、とても容易に想像がついてしまう。自分は少し距離のある部屋の真ん中にいるからいいものの、閉まっている襖のその背後から突如、薬師として(ちまた)では恐れられているという噂も立つような存在の声がしたらそうなるのも(うなず)ける。

 敷居に沿って、控えめに襖が開かれる。半分を越えた辺りでその動きが止まり、廊下より薬師である伽々里が姿を見せた。

 普段は淡い色合いの着物を纏っている事の多い、薄紅が多い彼女には珍しく、今日は目が覚めるような青で。此処に訪れるよりもずっと前からそうなのだろう、襷掛(たすきが)けをした恰好のままである。

 討伐屋の(くりや)、水回りに取り掛かる以外ではあまり襷を掛けている姿は目にしない上、一つの事を終える(たび)にいつもであれば一度外して、と。掛けたままでまとめて熟せば楽だろうに、と。そんな彼女がまさか外す事なく明らかに別所(べっしょ)に立ち寄った後であろう様子で姿を見せた事に弥代は驚きを隠せなかった。

 そして弥代もよく見覚えのある桐箱を片手に、部屋へと踏み入ってくる。

「目を、覚まされたようですね。様子を()ますので、戸鞠さんは一度席を外していただけますか?」

 表面上では(にこや)かな笑みを浮かべる、しかしその裏に隠しているだろうモノが一切隠せていない。自分に向けられたものでもないのに弥代はそれだけでゾッと肝を冷やし、座ったままである為に相手を下から見上げる形で、真正面から薬師を受け止める事となった戸鞠に同情をしつつ、後少しすればその(きっさき)が自身へ向く未来を予期し腹を括った。



「お加減はいかがでしょうか。」

 言いながら自分の近く、布団の傍で腰を低く落ち着かせる薬師は想像していたよりもとても柔らかい。

 桐箱を畳の上に置けば、小さく、「失礼します、」と一声挟んで優しい手付きで掛け布団を未だ強く握りしめたままでいる弥代の指を解いた。 

「横に、なっていただいても構いませんよ。」

 手の平側となる、手首の付け根の辺りに指を軽く押し当てるように触れる、接し方は淀みないものだ。

 つい最近、彼女の憂さ晴らしに付き合わされ、早朝から近所の家々を一軒一軒見て回った際、(とこ)()せった病院や老人を相手に、先ずこの様に手首に指を添えて、暫くジッとしていたのを思い出す。

「何、してんの、コレ?」

「脈を、測っております。」

 少し早いですね、と続ける彼女は、更に早い時は緊張していたり気を張っている事が多く、と軽い説明を交えられた。

「……。」

 調子が、崩れる。

 これまで薬師である彼女がそういう事を多くの者にしてきたのだろうと、それが分かっていても今の今まで自分はこんな風に優しく、(いたわ)られるように接されたことが一度もない。だからこれを前にしては今さっき、彼女が部屋に入ってきた時に括ったばかりの腹も、小さな覚悟も無意味に、なかった事になってしまう。何だかそれは……、

「怖い、ですか?」

 心臓が、大きく跳ねた。

 力を込めているわけでもないのに中途半端に曲がった指先に、それまでと違い変に力が入る。それは、そこには何もない筈なのに、体が勝手に覚えている握り心地に沿って指が勝手に握る素振りを見せたかのように、弥代の目には映って。

「ァ、」

 それが、いけなかった。

 恐らくは、それがいけなかった。

 あの場所で刀を握ったのと同じ手。握り方なんて、振るい方なんて何一つ分からなかったというのに、それでも振り抜いてしまった、斬り捨ててしまった、罪のなかった人達も含めて手に掛けてしまった、それと重なった。

 どうにか忘れようとしていたあの感覚が、ここで妙に生々しく、指先から始まって全身に行き渡るような。踏みしめた血溜まりが跳ね、素肌を触れた生温い温度を思い出してしまう。

 自身の行いの過ちを今になって、呼び起こしてしまう。

 熱いわけでも、痛いわけでもないのに一気に噴き出した汗は冷えていて。息苦しさを覚えて思わず彼女の手を払う。それから無意識に胸を抑えて、一向に整わない呼吸にそのまま前のめりになるように布団に上体を倒し、て。

 柔い布地の、表面上に湿り気が感じた。

 ポロポロと何かが(こぼ)れて、それが掛け布団を湿らす原因を作っているのに、弥代にはそれを止める術が全く検討がつかない。未だ引き攣って息苦しさは遠のく事はないのだが、次第に突然襲いかかってきた衝撃に体を慣れつつあった。

 そしてその頃になり、

「大丈夫、ですか。」

 布越しではあったが、先ほど自分にも優しく接してくれた彼女がそっと、弥代の背を撫でた。

 慣れていない事をされるのもそうだが、今まで薄らだが彼女と自分はそれほど実は差がないのではないか、とそんな事を考えていたものだから。彼女の前でこんなにも分かりやすく弱い部分を曝け出す事、そのものが曝け出してしまった今になって急に不安が脳裏を過った。

 ……あぁ、嘘である。

 彼女と自分にそれほど差がないなんて、本当はこれぽっちも思っていやしない。






 弥代の呼吸が落ち着きを見せても尚、彼女は薄っぺらい背中を(さす)り続けた。そしてこれまでの自分の中の考えを、やっとこの時に改める。この存在は子どものままである、と。

 

 

 その存在の正体を知るが故、これまではなるべく厳しく、変に甘えさせる事なく接してきた、どちらかといえば大人になって日の浅い者に接するのと同じように心掛けてきていたが、これはその程度でどうにかなる話ではなかった。

 まだ年端もいかぬ、幼子(おさなご)のようだ。

 先日になって相良と弥代の手によって駿河国(するがのくに)から連れて来られた、討伐屋で引き取る事となった少女の方がよっぽど大人に感じられる。

 心が、驚く程に未成熟だ。

 普段の振る舞いが良くなかった。中途半端に物を知ったかのような言動がそれに拍車を掛けた。未熟な状態のまま負った傷の治し方すら分からずに、それとの向き合い方を一つも知らぬまま大人ぶった虚勢を張り続けている。薄々、そうなのでないかと思いされる(ふし)がなかったわけではないが、それでもそれはあまりに度が過ぎていた、伽々里の想像が及ばぬ程であった。

 しかし、これまで必要以上に接触をしないように心掛けていたものを取り払い、いざその薄っぺらい背中を()ぜてみれば納得をせざるを得ない。同時に、どうして今まで気付く事が出来なかったのかと、伽々里は己のこれまでを振り返りながら()じた。

 一度目に掛けた存在を、二度と見捨てる事はしないようにと、そう誓ったのは自分自身であった。けれども彼女は、弥代という存在は伽々里の愛する人間ではない。自分より生きた時間が浅くとも、人より多く生きている事実は変わりない。必要以上に関わらぬように、距離を保ってきたつもりでいた。

 この点においてはいつぞや、相良が伽々里に直接述べてきたその言葉のまんまであるが、それにその時耳を傾けなかったのは、そう決めたのはやはり伽々里自身である。そうではなかった、そうではなかったのだと、やっと見る事の叶ったそれは、虚勢を張る事でしか自身を保つ事が出来なかったような、意地らしさすら感じさせるような子どもで。

『大人になったつもりでいるだけの、可愛げがないだけでまだまだ未熟な方ですよ、弥代さんは。』

「……。」

 長い間、人に寄り添い生きてきたが、人に限らず心を理解する、相手を知るというのは難しい事である。

 その選択が間違いであると、誤りであると気付けていながらも、それでも駆け出せずにはいられなかったあの子の様に。何故その道を選んでしまうのか、とぶつかってあげる事が出来ればそれで、また違った未来が紡げていたのかもしれない、と。

 あの日の教え子に寄り添う事が出来なかったその後悔を胸に、伽々里は弥代の背中を(さす)り続けた。






「おやおや、てっきり先に戻られたかと思っていたのですが……?」

 小首を傾げつつ、しかし口振りの割に驚いているという様子は一切滲ませることのないまま、相良は敷居を跨いだ。

 自分が部屋の前に来るよりも前に、誰かが中を覗き込んででもいたのだろうか。襖の閉め忘れなどこれまでした事のない伽々里を前に、そんな自分しか気付いていないだろう点を、ほんの少しの優越感に浸りながら噛み締めつつ、数歩部屋に上がり込む。

 と、中々に珍しい……というよりは何がどうしてそんな事になったというのか?と、(つくろ)()もなく驚きを素直に口にして、距離をそれほど詰める事なく腰を下ろした。

「お静かに。」

「泣き疲れて寝てしまうなど、まんま子どもではございませんか?」

「貴方が、仰っていた通りでしたわ。」

 いつの言葉であったか、と一巡。けれども割と最近の事であったから直ぐに思い出す事が出来てしまった。胸の前で組んだ腕も、分かりやすく顰めてみせた眉も全く意味はない。

 そうして、彼女の腕の中で寝息を立てている子どもを見遣る。

 そう、子どもである。

 家族という存在を知らぬまま育ってしまっただけの、幼い子ども。

 色を持つが故に長い間居場所がなく、一箇所に長く留まる事もなければ、自ら居心地が感じる事があればそこから離れて、また新しい場所を探してを繰り返す、それ以外の術を持たずに生きてきた、子ども。

 その正体が人であるか、人ならざる存在ではないか、などというのは相良からしてみればそれ程大した問題ではない。気に留める程度ではない。

 駿河で桜という少女を、たとえ理由があったとはいえども助けようと、手を差し伸べようと決めた時と何も変わりない。

 目の前で進む道が分からずに、どうすればいいのかすら分からずに蹈鞴(たたら)を踏んでいるような子どもがいるのなら、糸口を手渡ししてやればいい。手繰り寄せて、それをどう自分の為に()かせばいいのかを、その術を一から教えてあげればそれでいい。

 少なくとも、弥代は虚勢を張る癖があるだけで根は素直で頭だってある程度キレる。でなければ一人、駿河の宿に相良が弥代を置いていく事もしなかったし、相良という大人を相手に応酬(やりとり)だって出来っこなかったはずだ。

 極端に、本来人が人間社会で生きて行く上で知っておかねばならぬ初歩的な事をすっ飛ばして知らぬまま、“色持ち”である自分が一人で生きて行く上で必要なことだけを吸収してしまった、それだけの話だ。

 それなら一から覚えさせれればいい。それが何であるかを学ばせればいい。

「何より、何とも都合のいい機会を彼女は得ています。」

 伽々里の腕の中、乱れた前髪を軽く払い除けて、これで起きやしないものかと不安になりながらも、指先に少し力を込めて目尻を撫でた。

「私の口から、色々と今後の流れについてはお伝えしましょう。

 桜さんや芳賀(よしか)さんがあまり遅いと心配なさいます。先にお戻り下さい、伽々里。」

 そう言う事で、自身のこれまでの凝り固まった考えが少なからず(ほぐ)されたばかりの伽々里(彼女)が、すんなりと動いてくれるだろう事を相良は分かっていた。

 が、その一方。つくづく自身のそういった面は相変わらず好きになれないものだと、相良はそれを嫌悪した。



 浮上した意識はとても曖昧だ。

 そんなに直ぐに目を開ける事も出来ずに、ぱちぱちと開こうという動きだけは示してみせて、けれども開けれず(じま)いでもぞもぞと身動(みじろ)ぐだけ。

 でもこれは……そう、毎日干す余裕もなく寝る時に広げて、起きたら畳んで部屋の隅っこに置いやるだけの、多分年がら年中そんなんだから(かび)の一つ二つ生えてそうな、そんな布団とは全然違うものだから、布団があまりにも自分を魅了するからで、なんて。柔らかさを十分堪能した頭でやっと、目を開く。

 先ほどまでまだ高かった筈の日が落ちたのだろうか、夜も変わらずに縁側沿いは障子が開け放たれていて、昼時に比べ肌寒さを覚える。

 そうしてやっと、そういえば今日は何度か起きる事があったがずっと自分は布団の上にいるだけで、夜になっても一度も立っていない事に弥代は気付いてしまった。

 別に、立てないわけじゃない。立つ機会が中々与えられなかった、全部ただ上体を起こすだけで何とか事足りてしまっていた、だけで。

「……起きるか。」

 リーン、リーンと鈴を執拗に鳴らしたみたいな音が聞こえる。聞こえるだけで何となく涼しげな印象だ。

 昼時に起きた時に感じていた喉の渇きが今はないのだが、けれども朝から水を一口も口にしていない割に、腹の奥に溜まったモノを感じる。

「便所……どこだ?」

 ザザっと、畳の目を足裏で音が立つぐらい擦ってしまう。そういえば朝の時に、戸鞠を始めとした彼女ら四人が、八日(ようか)も目を覚さないものだから心配をしたのだとか、そんな事を話していた気がする。

(八日……そっか、あれからもう八日も経って、んのか?)

 金具で出来ているのだろう固い引きてに指を掛けて、襖を右に引く。その動きすら八日振りともなれば体には負担が大きく。なんだか自分の体が自分のものでないように感じながら、左手に柱に手を付いて、どうにか倒れるのだけは阻止する。

「………は、」

 倒れぬようにと柱に凭れかかっただけのつもりだったのだが、片手で体は支える事が出来ているというのに、起こすのは片手だけでは難しそうだ。襖を開ける、その動作一つが重たくって、暫くは使えないだろうなんて思っていたばかりの右手も使って、両手でやっと体勢を立て直す。

 本当に、どうしてしまったというのだろう?

 壁伝いに、手を付きながら廊下を左へと進む。右手は行き止まりのような壁があるように暗くても見えた。確か部屋で横たわっている時も、部屋を慌ただしく飛び出していった巴月(はづき)や、次の仕事だってあるんだから、と部屋を出て行った凛や若葉も左側に向かっていった様な気がする。

 重たい体に鞭を打つように進む、左手の方が実は行き止まりで、なんて事があれば、何なら最悪催してしまいそうな気さえチラチラと過り出している。

 自分が目を覚さなかったという八日間、もしかしてずっと出せてなかったんじゃないか、とかそんな事を考えだしてしまう。

(駄目……じゃないか ?いや、余計考えたらなんかさっきよりも強くなった気がするんだけど? ……アレ、これ結構真面目にマズイんじゃないかもしかしなくても?)

 段々と、血の気が失せていく。

 でも上から血が失せるということは下へ行く、という事で。それはなんだか体の細かい構造をわかってない弥代だからか追い討ちを掛けているような、そんな気も段々として、きて。

「便所……どこ?」

 昼時に浮かんだ冷や汗とはまた別の種類の冷や汗が滲みだす。なんならそのまま全部下に溜まっている分も汗になってくれればそれはそれで助かりはするんだけど、と流石にそれは的外れであると分かっていながら、けれども思わず考えずにはいられないぐらい今の弥代は追い詰められていた。

「ど……どこっ、なんだよぉ……」

 冷たい廊下の床板(とこいた)が、恐らく余裕を削る。

 人っこひとりいない夜の廊下を、壁伝いにどうにか進む。泣きたくなんかないのに半べそ状態で、普段なら絶対出てこない泣き言を漏らしながら進む。

(なんで、俺一人なんだろう?)

 夜着の裾を間違えて踏んでしまえば、後はもう言うまでもない。じわじわと熱が広がっていく。倒れてしまった衝撃に、我慢を続けていた意識が途切れてしまった。浅い呼吸を繰り返して、熱を持った顔を床に擦り合わせて。

「……ぁ、」

 そしたら、どうだろう?

 さっきだって散々泣いたはずなのに、また一気に目に熱が集まって。それで、全部溢れてしまう。

「ぁあ……ぅあああ……ぁああ……ぁ……ああ」

 止まらない。

 止め方を、弥代は知らない。

 どうすれば止まるのかも、何が原因なのかも分からない。喉から出てくるそれも、別に出したくて出してるわけではないのだ。勝手に出てきてしまう。止め方が本当に、分からない。

「大丈夫、ですか?」

 聞き覚えのある声が、頭上より降ってくる。

 誰もいないと思っていたはずの、自分しかいないと思っていたはずの廊下に、恐る恐る見上げたその先に弥代の知る、その男は居て。

「あぁ、これは…………世話が焼けますねぇ本当に。」

 相良志朗は、薄い笑みを浮かべた。

 

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