#07.
隙間風が吹き込む冷え切った廃屋に、音のない啜り泣きがどれほど続いただろうか。ようやく落ち着いたのか、震えが収まっていくのが伝わってきた。プリシラがそっと視線を向けると、彼女の肩に顔を埋めていたリュエンの蒼白な顔が見えた。
(おっと……。)
治療をしたとはいえ、舌と口内をかろうじて機能するよう復元したに過ぎない。失われた体力が戻ったわけではないのだ。踏んだり蹴ったりなことに、プリシラの治癒スキルは効率が悪い。治療対象の体力を奪うのはもちろん、プリシラ自身の体力も激しく消耗させる。
ただでさえ体力が落ちているところへ効率の悪い治療、その上、一頻り泣いたせいでさらに体力を削られたようだ。今はもう、本当に休ませてやるべきだろう。
だが……。
プリシラは雲一つない青空を見上げた。日はまだ高く昇っていたが、その傾き具合からして、数時間もしないうちに夜が訪れるのは明白だった。屋根すらまともにない廃屋。プリシラ一人ならいざ知らず、患者をこんな場所に寝かせるわけにはいかない。
いや、プリシラ自身とて、いつ崩れるとも知れないこんな場所で眠るくらいなら、魔の森で眠る方を選ぶだろう。
(まずは宿を……いや、宿には入れないか。)
ハウェル王国には奴隷制度がないため詳しくは知らないが、奴隷というものは人間ではなく家畜扱いであり、「人間」が利用する場所には入れないと聞いたことがある。たとえ入れたとしても、血と泥にまみれたリュエンを受け入れてくれるだろうか。
(うーん……。)
不確かなものに依存して野宿することになるのは御免だ。何より、リュエンを温かい場所で寝かせたいし、プリシラ自身もベッドで眠りたい。
そのためには、今日中に役所へ行って移住登録を済ませ、すぐに住める家を探すのが最善だ。
頭の中でやるべきことの優先順位をつけたプリシラは、自分に寄りかかったまま不規則な息を吐くリュエンを壁に預けながら言った。
「リュエン。疲れただろう? ここで少し休んでいて。休める場所を探してくるから。」
「休める、場所?」
「ああ。屋根もないこんな場所では眠れないだろう?」
「……。」
プリシラの答えに、リュエンは微かに目を開けて彼女を見つめた。不安定に揺れる朱色の瞳が、行かないでくれと叫んでいるようだった。
弱ったな。困ったものだ。
「役所で移住登録をして、すぐに入居できる家を探すから……そう、長くはかからないはずだ。できるだけ早く戻ってくる。待っていてくれるか?」
「戻って、くるのか?」
「当然だろう。」
プリシラは安心させるような表情を浮かべ、彼の頬を優しく撫でた。プリシラの手に向かって顔を寄せるようにしてリュエンは細い息を吐いたが、その視線だけは依然として暗い不安に沈んでいた。
待つというのは辛いものだ。こんな場所で独り待つのであれば、なおさらだろう。
どうすれば、あなたが安心できるだろうか。
考えを巡らせていたプリシラは、名案を思いついたように、首にかけていたネックレスを外して彼に差し出した。
「そうだ、これをあなたにあげよう。」
金属で作られたそのネックレスは、女性が身につけるにはいささか無骨なデザインだったが、小さな金属のチャームにはプリシラの個人情報が簡潔に記されていた。軍で主に使われる識別用のネームタグだ。
「六年間、一度も身から離したことのない物だ。あなたなら、このネームタグを道標にして私を見つけ出せるだろう? もし私が逃げ出したら、あなたが捕まえに来て。」
リュエンには腕がないため、彼女の手で彼の首にかけてやりながら言葉を続けると、瞳に宿っていた不安が少し和らいだ。もちろん依然として不安そうではあったが、ひとまずは待つことに決めたようだ。
「少しの間、目を閉じていて。あなたが目を覚ます頃には戻っているから。」
寒くないようにと、羽織っていたマントを彼に着せてやった。ペイン邸を出る直前、魔物討伐作戦の会議があって本当に幸いだった。動きやすいレザーアーマーはもちろん、毛布代わりになるマントまで揃っていたのだから。
「あ、それから……。」
舌が戻ったリュエンなら、それなりの魔法は駆使できるはずだ。しかし、三年間も非道な暴力を受けながら自分を守ろうとしなかった彼だ。誰かに危害を加えられても、甘んじて受けてしまうかも知れない。プリシラは両手で彼の頬を包み込み、リュエンと額を合わせた。
透明な青い光がリュエンの体を包み込んだかと思うと、淡く消えていった。
「『守護』の結界を張っておいた。並大抵の奴らには、あなたの髪の毛一本触れさせはしないから。ゆっくり休んで。」
「……。」
額にかかった乱れた髪を払い、プリシラは立ち上がって市街地へと歩を進めた。役所というものは早く閉まるものだ。これ以上、時間を無駄にするわけにはいかない。
***
見る者の心を晴れやかにするほど快晴が続いているリベリアとは対照的に、魔の森の向こう側、ベルク領では数日前から豪雨が降り続いていた。
狂ったように氾濫する河川、それ以上に狂ったように溢れ出す魔物たち。カイゼンは何度目かも分からぬ魔物を斬り伏せながら、怒声を上げた。
「くそっ! 守護防壁はまだか!」
前方で何をしているのか、前線の防衛線を越えて襲い来る魔物があまりにも多すぎた。これ以上魔物が接近すれば、近隣の村々に多大な被害が及ぶことになる。
「あ、あと少しです! もう少しだけ……ぐっ!」
カイゼンの問いに答えようとした隙を突き、一匹の魔物が副官のジェラルドに飛びかかった。急いで守護防壁を張ったものの、ジェラルドの防壁はあまりにも容易く砕け散った。カイゼンが即座に魔物を斬り捨てたが、副官の体はすでに半分ほどが食い荒らされた後だった。
「衛生兵! 今すぐジェラルドを連れて行って治療しろ! 防壁の設置を遅らせるな!」
――カカッ、ドォォォォン!!!
カイゼンが兵士たちに向かって叫ぶのと同時に、凄まじい落雷が兵舎の近くに落ちた。白く点滅する視界、一拍遅れて視力が戻ると、かろうじて押し戻したはずの魔物たちが再び彼らの前で顎を開いていた。
(忌々しい、なぜこれほど多くの魔物が現れるんだ?)
「死者の森」を間近に控えたベルク領は、古来より時を選ばぬ魔物の侵攻を受けてきた。ガエル没落の後には、狂暴化した魔物たちによって領地が壊滅寸前まで追い込まれたこともあった。
しかし、三年にわたる討伐作戦により、危険な魔物はその大半を駆逐したはずだ。いくら死者の森といえど、近づきすぎなければ魔物は現れない。たまに魔物が溢れることはあっても、これほどの危機に陥るなど、到底理解し難い状況だった。
「ええい、アイザックは何をしている! きちんと食い止めさせろと言っているだろう!」
堅固であるはずの前方部隊があまりにも容易く突破されている。カイゼンの悲鳴に近い叫びに、答える者は誰もいなかった。
一方、カイゼンからそう遠くない前方では、同僚たちの死体を踏み越えながら魔物を貫き続けるアイザックの姿があった。しかし、どれほど貫き、屠っても、魔物は減らない。いや、そんな次元ではない。アイザックは、魔物をまともに貫くことすらできずにいた。
(なぜだ……?)
現状を最も理解できずにいるのは、他ならぬアイザック自身だった。
こんなはずはない。絶対に、こんなはずはないのに。
自分は「戦場の槍」だ。いかなる敵をも貫き通す、最強の槍であるはずだ。
アイザックもカイゼンも、あまりにも当たり前すぎて気づいていなかった。彼らが名を馳せることができたのは、最前線にプリシラがいたからだということを。
敬愛する主君の体が傷つかぬよう。
愛する人が傷を負わぬよう。
誰よりも多くの魔導兵を阻み、誰よりも多くの魔物を食い止めていた。
「戦場の盾」が失われた戦場が、維持できるはずなどなかった。
村の間近まで迫った魔物たちを見つめるカイゼンの顔に、激しい怒りが宿った。このまま魔物を村に入れるわけにはいかない。戦場のディフェンダーたちはもはや無用の長物に過ぎない。カイゼンは荒い息を吐き、吐き捨てるように言葉を絞り出した。
「……今すぐ、ミラベルを呼んでこい。」




