#番外編. ある朝の二人
本編から二ヶ月ほど経った頃のお話です。
作者が「大人の事情」で少々疲れ気味のため、甘々な番外編をお届けします。
短い春が過ぎ去り、本格的な暑さが一歩ずつ近づいてきたある日のこと。
ベッドに横たわり、枕を抱きしめていたプリシラは、頬を叩く強烈な日差しに眉を顰めた。
まだ目を覚ますには早い時間だが、暑さと共に訪れた強い陽光が、彼女の心地よい朝の眠りを妨げた。
「暑い……。まぶしいわ」
リベリアに来て約二ヶ月。ハウェルより標高の低いリベリアは、その分だけ気温も高く、まだ春と呼べる季節であるにもかかわらず、暑さは尋常ではなかった。
夏が近づくということは、暑さを何よりも嫌うプリシラにとって、実に嘆かわしいニュースに違いなかった。
のそのそと起き上がったプリシラは、乱れた髪をかき上げながら溜息をついた。
「そういえば、随分伸びたわね」
道理で余計に暑いわけだ。夜を閉じ込めて溶かしたような彼女の黒髪が、肩のあたりまで流れ落ちていた。
(暑苦しくてうっとうしいわ。そろそろ切ろうかしら)
本来、プリシラは腰まで届く長い髪を貫いていた。特に特別な理由があったわけではない。
ただ、まともな装飾品一つない戦場で、女として見られたい相手がいたからこそ、ひたすら伸ばし続けていたに過ぎない。
幼い頃から戦場に身を置いていたプリシラは、良く言えば中性的、悪く言えば女性らしさが皆無な姿だったため、髪まで短いと、いっそう少年のように見えてしまうから。
『女として見られたい。少しでも綺麗に見えて、愛されたい。ドレスは着られなくても、長い髪を編んで女性らしく振る舞うことはできないだろうか』
私心をたっぷり込めて伸ばした髪は、ハウェルを発つあの日、感情と共に捨て去った。
心を捨てたせいか、あるいは単に楽だからか。
一度短い髪で過ごしてみると、今では項を覆う髪がかなり煩わしかった。もともと毛量が多く管理が難しい髪だ。一度気になり始めると、ひどく重たく感じられた。
「よし、今すぐ切っちゃおう」
決心したプリシラは、持っている服の中で最も薄いものを適当に羽織り、台所のある一階へと足を向けた。階段を降りるたびに香ばしい匂いが漂ってくる。
今日の朝食も美味しいに決まっていた。
「プリシラ? なぜこんなに早く起きたんだ?」
「おはよう、リュエン。暑くてまぶしくて目が覚めちゃった」
「暑くてまぶしい? 今日はかなり涼しい方だと思うが」
「これが? リベリアって相当暑いのね」
リベリアが故郷であるリュエンには、適当な気候なのだろう。プリシラが手で仰いでいると、リュエンが目を細めて彼女に近づいてきた。
「プリシラ。暑いからといって、その格好はあまりに端ない。ちゃんと着なさい」
「これくらいなら、ちゃんとしてるでしょ」
口ではそう言ったものの、今のプリシラは薄手の服のボタンさえ満足に留めていない状態だった。
動くたびに白い項と鎖骨が露わになる。
男性と、それも自分に対して酷く深い情愛を抱いている男と二人きりでいるにしては、あまりにも不用心な格好と言わざるを得なかった。
(どこから注意すべきか……)
刹那の間に、あらゆる考えがリュエンの脳裏をよぎった。プリシラに遠回しな言い方は通じない。ならば――。
「プリシラ。私が貴女を愛しているという事実を、覚えているか?」
「えっ? 何? い、いきなり何を言い出すのよ」
リュエンの直球に扇ぐ手を止めたプリシラが、真っ赤な顔で問い返した。
彼女の白い肌が自分によって赤く染まるのを見ていると、心の中が満たされるような気分になる。
リュエンはもう一歩彼女に近づき、問いかけた。
「恋に落ちた男と一緒にいる時は、身なりを整えた方がいい。男というのは、愛する人を前にすると自制が効かなくなるものだからな」
「何を言ってるのよ。それより、まだご飯できてないんじゃない? 料理中に他所見をするのは良くないわよ」
プリシラは動揺すると口数が多くなる。その姿さえも、あまりに愛おしい。
「心配いらない。貴女が降りてきた瞬間、完成して食べるだけにしておいた」
「なら早く食べよう。お腹空いたわ」
「食事の前に、まだ警戒心が足りない貴女にお仕置きを与えなければならないのでな」
「お仕置きって何よ? いらないから、そんなに近くには……んっ」
リュエンの行動が尋常ではなかったため、プリシラは後ずさりしたが、リュエンの動きの方が早かった。
喉が渇いた者が井戸水を求めるように、彼女の唇
を貪る彼の唇は、ひどく熱かった。
拒むことのできない甘さに、思わず彼との口づけに応じてしまったプリシラは、ただでさえ暑い室内が燃え上がるほど熱くなった頃に、ようやくリュエンから解放された。
乱れた呼吸を整えたプリシラがリュエンを睨みつけ、ふらふらとテーブルに座ると、「やりすぎたか」と少しばかり反省したリュエンが、彼女の前に向かい合って座り、言った。
「……プリシラ。怒ったか?」
「ギリギリセーフってところね。でも、もう一回やったら怒るわよ」
(惜しいな)
プリシラはリュエンとの口づけを拒みはしないが、普段は隙を見せないため、そう簡単にはできない。名残惜しさにリュエンが唇を指でなぞると、プリシラはさらに赤くなった顔で扇ぎ始めた。
「全く。あなたのせいで余計に暑くなったじゃない。格好には気をつけるから、当分ベタベタしないで」
「そんなに暑いのか?」
「ものすごく。暑いっていうか、熱いに近いくらい」
リベリアは気温が高いわりに湿度が低く、不快なベタつきはなかった。ただ、高温の状態で体に密着する服を着ていると、より息苦しく感じた。
こんなことなら、ゆったりした服でも買っておけばよかった。普段から体型にぴったり合う服ばかり着ていたので、考えが及ばなかったのだ。
「ハサミを買いに行くついでに、薄くてゆったりした服も買わなきゃ」
「ハサミは何のために?」
「髪を切るためよ」
何気なく返したプリシラの言葉に、リュエンは無造作に垂れ下がった彼女の髪を撫でながら尋ねた。
「プリシラ。髪をなぜ切ろうとするのか、聞いてもいいか?」
「髪が長いと暑いでしょ」
「結べば済むことだろう」
「お風呂上がりも乾かすのに一苦労だし。寒い時ならともかく、暑い時に湿っぽいのは絶対に御免だわ」
「ならば、私が乾かしてやろう」
「……え?」
面倒そうに首を振っていたプリシラは、自然に続いたリュエンの言葉に反射的に聞き返した。リュエンは彼女の後ろに回り込み、彼女の髪を手で梳きながら言葉を続けた。
「貴女が許してくれるなら、結ぶのも乾かすのも、全て私がやろう。だから、切らないでくれ」
「あなたがやってくれるなら構わないけど……面倒じゃない?」
「面倒ではない」
(私はちょっと面倒なんだけど……)
プリシラが悩んでいる間に、リュエンは手際よく彼女の濡れた髪を全て乾かし、邪魔にならないように結い上げた。うなじが露わになると、確かに涼しさが違った。
「リュエン。なぜ伸ばせと言うのか、理由を聞いてもいい?」
「貴女の髪が好きだからだ」
「そうなの?」
「そうだ」
戦場で翻っていた、決して折れることのなかったあの黒色。リュエンにとって、道標のようなあの色。
彼女が面倒だと言うなら、リュエンが代わりにやればいい。それによってプリシラがいっそうリュエンを頼ってくれるなら、なおさら良い。
リュエンの暗い執着を露ほども知らないプリシラは、リュエンを見上げてにっこりと笑った。
「じゃあ、任せるわね。ありがとう、リュエン」
彼女の微笑みに引き寄せられるように、リュエンが唇を重ねた。青紫色の瞳が大きく見開かれ、やがて彼の額にデコピンが飛んだ。
「やめなさいって言ったでしょ!」
「はは、すまない。食事を運ぶから、少しだけ待っていてくれ」




