#02.
「プリシラ。私は誰よりも貴殿の功績を高く評価している。貴殿に害をなしたくはないのだ。だから私の頼みを聞いてくれ。どうかここに残り、私を助けてくれ」
「……」
国境を守る勇猛な辺境伯らしからぬ、弱々しい声だった。それほどまでに彼にとってプリシラが貴重であるという証左でもあった。だが、彼の切実な哀願を聞きながらも、プリシラの心に動揺が走ることはなかった。むしろ、彼が強圧的な依頼を重ねるほどに、かつての戦友たちの声が蘇るばかりだった。
プリシラが戦場に立ったのは、十四歳の冬。デビュタントさえ経験していない幼い盛りのことだった。うなじが露わになるほど短く切った髪のプリシラを、誰も女の子だとは見なさなかった。戦争が長引くにつれ兵力は底をつき、貧しい少年兵が参戦するのは珍しいことでもなかった。
息を吸うたびに誰かが死んでいく幼い少年たちに、情をかける大人は誰もいなかった。しかし、プリシラはしぶとく生き残り、己が持つ唯一の能力ですべてを護ろうとした。
そんなプリシラに仲間たちは次第に心を開き、いつしか彼女は部隊の中心となり、彼らを護る「盾」として認められていった。
プリシラが女の子だと知った時の仲間たちの驚いた顔は、今でも鮮明に覚えている。当惑しながらも、実の娘のように慈しみ、愛してくれた。部隊の全員が彼女の父であり兄であり、かけがえのない家族だった。
護りたかった。だが、護れなかった。それでもプリシラは、彼らの死を名誉あるものだと信じていた。彼らがプリシラを護ってくれたからこそ彼女は生き残り、カイゼンもアイザックも生き長らえたのだから。
いつの間にか固く閉じていた瞼を押し上げ、プリシラは目の前に立つカイゼンを見据えた。そして、口を開いた。
「閣下。私はもうベルクにはおらず、戦場に立つこともないと申し上げたはずです」
「私からも頼むと言っただろう。私は貴殿が必要なのだ」
「……もし私がその頼みを断ると言えば、閣下はどうなさるおつもりですか?」
プリシラの問いに、彼女をじっと見つめていた青灰色の瞳に冷徹な光が宿った。彼女に合わせるように立ち上がったカイゼンが手を上げると、開け放たれていた応接室の扉が重々しく閉まった。一歩、プリシラに歩み寄ったカイゼンは、彼女の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。
「貴殿を慈しむがゆえ、最大限穏便に接してきたというのに。恩を仇で返すとはな。プリシラ・ライデン、貴殿に決定権があるとでも思っているのか?」
(――シラ。戦争が終わっても俺たちが生き残っていたら、のどかな田舎で一緒に暮らさないか?)
「戦場に立たぬだと? 貴殿の存在意義は、戦場に立つことのみにある」
(――髪を伸ばして化粧をしたシラは、さぞかし眩しいほどに美しいだろうな)
「貴殿は親に売られた奴隷だ」
(――親に捨てられたって? シラ、そんな寂しいことを言うな。お前の親ならここにいるじゃないか)
「貴殿を拾い、慈しんだ恩を返せ。プリシラ・ライデン」
(――シラ。戦争が終わったら、ここで起きたすべてのことを忘れてしまうんだ)
『俺たちを覚えている必要はない。俺たちの死をお前が背負う必要はないんだ』
声が混ざり合っていく。忘れようとしていた過去の記憶が、蓋をしていた心の扉を突き破って溢れ出した。
ベルクの辺境伯であり戦場の守護者であるカイゼンと、「戦場の槍」を守るため、プリシラの家族たちは消耗品のように犠牲になった。
死にゆく家族たちの最期の言葉は、いつもプリシラを案じるものばかりだった。
それなのにプリシラは生き残り、戦場を守り続けた。戦場の守護者と「救済の天使」、そして「戦장의 창」を守るため、家族さえも犠牲にしたのだ。
(いっそ、あの戦場で死んでいれば……そうしていれば、幸せだっただろうか)
アイザックを守ったのは、彼が誰よりも清廉で、前線に立って仲間を守っていたからだった。
カイゼンを守ったのは、彼が誰よりも死者の命を崇高に扱い、生き残った者たちを慈しんでいたからだった。
『妹を愛していたから、君に情をかけることはできなかった』
もしアイザックが正直に告白していたなら、プリシラは許していただろう。
『妻が大切だ。失うばかりだった人生で、唯一手に入れた幸せなのだ』
もしカイゼンが正直に打ち明けていたなら、プリシラは残っていただろう。
だが、家族を犠牲にしてまで守り抜いた二人の男は、誰もプリシラを慈しみも愛しもしなかった。彼女を道具以上に見てはいなかった。
ならば、もはやプリシラも彼らを見守ることはない。彼らが大切にしているものなど、彼女にとっては、何の価値もないのだから。
心の整理を終えたプリシラは、カイゼンの腕を掴んだ。タンザナイト色の瞳が、無情なまでに美しい男の顔を射抜いた。
「閣下。私は貴方を尊敬しておりました。貴方が戦場におられたからこそ、私は盾として貴方を名誉ある形で守ることができたのです」
「ならば……」
「だからこそ、今の貴方を私は許せません。私の家族を死地へ追いやった分際で、自分の家族を慈しむなど」
嘲笑が漏れた。プリシラが言い終えると同時に、彼女の周囲に純白の光が広がった。彼女が定義した「悪」を弾き飛ばす聖なる防壁――【戦場の盾】だった。
騒ぎを聞きつけた辺境伯の騎士たちが応接室になだれ込んできた。
「くっ……しまっ……。プリシラ・ライデンを捕らえろ! 決して逃がすな!」
窓から飛び降りたプリシラは、辺境伯邸の最果て、「死者の森」へと駆けた。
「プリシラ! 閣下が君に酷い仕打ちをしたのは分かっている。だが、それほど君が重要だったから、仕方がなかったのだと理解してはくれないか?」
切り立った断崖の前に立つプリシラを見つめ、かつての戦友が彼女を説得しようと手を伸ばした。彼らの姿をじっと見つめていたプリシラが、一歩、崖の縁へと近づいた。
「プリシラ! 今すぐこちらへ来い。お前は……」
「デカルド。私はあの血生臭い戦場で、家族たちと約束したのです。必ず幸せになると」
崖から吹き上げる強風が、彼女の髪を乱した。
プリシラはなびく自分の黒髪を一掴み切り落とし、彼らへと流した。
「ですが、私はその約束を守れませんでした。だから、せめて今からでも約束を果たそうと思います」
髪を切って仲間に託すのは、急を要する戦場で遺品を回収できない代わりに身体の一部を切り取って持ち帰る行為であり、生前の仲間へ贈る遺品でもあった。
「プリシラ・ライデンは今日、この場所で死にます」
切り取られた髪が風に乗り、辺境伯邸へと舞い散っていった。
(デカルド。死にたくないのなら、ここを離れることを勧めます。かつての戦友としての、最後の忠告です)
プリシラはデカルドが言葉を継ぐよりも早く、さらにもう一歩、後ろへと下がった。彼女の足が虚空を捉え、浮遊感が全身を包み込んだ。
プリシラが身を投げたのは、魔導王国の残骸であり、数多の魔法と魔物が入り混じる「死者の森」。生者は決して逃れられないという禁忌の森だった。
ハウェル王国歴四百三十七年。
プリシラ・ライデンは、遺骸さえ回収できぬ絶壁の下で死んだ。
今日は4話まで




