#27.
プリシラの「黒い防壁」は、全盛期のリュエンはもちろん、ドラゴンと化したフェンベルクでさえ穿つことのできなかった最強の盾だ。いくらミラベルがアイザックを補助したところで、決して突破することはできない。
「どうして急に黙り込んじゃうの? 防壁を破るくらい、簡単でしょうに」
当然のことながら、プリシラも二人が自分の防壁を破れるなどとは思っていなかった。ただ、これほどはっきりと言い放たなければ、この往生際の悪い二人はこれ以上時間の無駄遣いをやめないだろうと考えただけだ。
(まあ、嘲笑の意味が全くないわけじゃないけれど)
かつては似通った実力だったはずだ。しかし、プリシラがスキルをより強固に練り上げている間、安全な場所で、安逸を貪り遊んでいた二人が、今のプリシラに勝てるはずがなかった。
動けずにいる二人の姿を眺め、プリシラは肩をすくめた。
案の定だわ。
今度こそ引き止めたりはしないだろう。プリシラは二人から視線を外し、未練なく歩き出した。たとえ背を向けている今、彼らが攻撃を仕掛けてきたとしても構わなかった。
この程度なら、防ぐなど造作もないことだから。
そう、油断していたのだ。いくら彼らが底辺まで落ちぶれたとしても、汚い手までは使わないだろうと思っていた。ゆえに、低く紡がれたミラベルの声に、プリシラは対応することができなかった。
「プリシラ・ライデン。こっちへ来なさい」
「……っ!」
聞いてはならない。しかし、脳内に突き刺さるミラベルの言葉に従い、プリシラの体は勝手に彼女の方へと向いてしまった。
聞いてはダメ。なのに、抗うことができない。
正気を保つために唇を強く噛み切ったプリシラが、ミラベルを睨み据えた。
「ミラベル……あなた……このスキル……っ」
「魅惑」スキルを人間に向けて安易に使ってはならない。人道的な問題もあるが、下手に使えば精神を崩壊させる危険があるからだ。使用するには王国の公的な許可が必要なはずなのに。
(……そう、その許可まで取ってきたっていうわけね)
一本取られたわ。プリシラの口角から一筋の血が流れ落ちた。
ミラベルの魅惑スキルのランクは高くない。耐え難い苦痛が与えられれば、魅惑は解けるはずだ。プリシラには治癒スキルがある。どこか一部位を自ら砕いてでも、再生させれば済む話だ。
プリシラが自分の右腕を荒々しく掴んだ。彼女がまさに腕をへし折ろうとした、その時だった。
「……そなたは、本当に私を頼ろうとしないのだな」
怒りに満ちたような、あるいは悲しげなリュエンの声に視線が引き寄せられた。プリシラの腰を抱き寄せたリュエンの紅い瞳には、複雑な感情が入り混じっていた。プリシラがその感情の意味を問おうとした時。
リュエンが彼女を抱く腕に力を込めた。彼女に向けられていた紅い瞳が、前方の二人へと転じられた。と同時に、ミラベルとアイザックの体が何らかの力によって押し潰された。
「ミラベル・バレット。アイザック・ペイン。一度きりだ」
一言、一言。リュエンが口を開くたびに、周囲が白く燃え上がった。いつの間にかミラベルとアイザックの周囲を取り囲んだ白い火炎によって、急速に辺りの空気が奪われていった。
一帯の騒動を察知した警備兵が駆けつけたが、誰一人としてリュエンとプリシラの側に近づくことはできなかった。
酸素が消失し始めたのか、火炎の向こう側の二人が喘ぎ始めた。
「そなたらがプリシラと知己であるゆえ、一度は見逃してやる」
「ぐっ……化け物め……っ」
ミラベルもまた守護スキルを持っていたため、障壁を張って自分たちを囲ったが、リュエンの力に抗う術はなかった。蒼白になり冷や汗を流すミラベルを冷ややかに見下ろし、リュエンは続けた。
「だが、二度目は無い。プリシラを手に入れたいならば、貴様らの国が灰燼に帰す覚悟をしろ。『白い悪夢』という二つ名の意味を、刻み込んでやる」
「……リュエン、もうやめて。周りにも被害が出ているわ」
プリシラの言葉が終わると同時に、周囲を囲んでいた白い火炎が霧散した。抑え込まれていた空気が再び溢れ出し、逃げ遅れた人々が苦しげな咳を吐きながらその場にへたり込んだ。
「ミラベル、そしてアイザック。あなたたちは私がハウェルの人間だと言ったけれど、私はもうリベリアに移住登録を済ませたわ。二度とあの国に戻るつもりはない。だから、二度と来ないで。最後の警告よ」
「帰路の心配は無用だ。貴様らを叩き返すなど造作もないことゆえ」
二人に手を伸ばしたリュエンが軽く指を弾くと、二人の姿は跡形もなく消え去った。リュエンはスキルは持っていないと言っていた。ならばこれは……。
「リュエン、あなた転移魔法も使えるの?」
「使える」
「あの二人、どこに送ったの?」
「リベリアの外だ。二度とこの中に入れないよう、リベリアに足を踏み入れた瞬間に体が弾け飛ぶ魔法もかけておいた」
「それはまた随分……まあ、いいわ。あなたがいると分かれば来ないでしょうし」
体が弾け飛ぶというのは少しやりすぎな気もしたが、どうせ未練の一欠片も残っていない縁だ。あの二人が再び現れるよりはマシだろう。溜息をついたプリシラは、リュエンの胸に頭を預けた。魅惑スキルの副作用のせいか、頭が痛かった。
「軽く散歩に来ただけなのに、疲れるわね」
「歩けないのなら、抱いていこう」
「あなたが? そんなにひょろひょろなのに、私をどうやって抱くつもり?」
プリシラが悪戯っぽく微笑むと、リュエンも彼女に倣って微笑んだ。そして、プリシラをひょいと抱き上げた。それも、お姫様抱っこのように横に抱くのではなく、幼子を抱くように片腕で抱き上げたのではないか。
まさか本当に抱き上げられるとは思っていなかったプリシラが、目を丸くした。
「ちょっと、リュエン、下ろして! 歩けるわよ!」
「顔色が良くない。黙って抱かれていろ」
「嫌よ! こんなところで落ちたら、痛みより恥ずかしさの方が何倍も勝るわ」
「……なぜ落とすことを仮定する?」
「当たり前でしょう。そもそもあなたの腕、完治してないんだから! 私がどれだけ重いか分かってる!? 断言するけど、私、あなたより重いわ……わあっ!」
プリシラが言い終える前に、彼女の肩をぐいと引き寄せたリュエンは、そのまま空へと舞い上がった。驚いたプリシラが反射的に彼の首にしがみつくと、リュエンが耳元で囁いた。
「そなた程度、いつでもどこでも抱き上げられる。そのくらいの力はある」
「その言葉、わざわざ空に上がってから言わなきゃいけないの!?」
プリシラは日常的な魔法しか使えない。当然、空を飛んだ経験など一度もなかった。空を飛ぶ高揚感はあったが、正直に言って怖かった。真っ青になったプリシラの顔を見て、リュエンは溜息をつき、彼女の肩に顔を埋めた。
「一体どうすれば、そなたは私を信じてくれるのだろうか」
感情を露わにするリュエンの様子に、プリシラの視線が彼へと向けられた。先ほどの過激な行動もそうだが、今の様子もそうだ。リュエンがどこかおかしい。
(あの二人を相手にした時、何か間違えたかしら?)
プリシラが彼の髪を撫でながら尋ねた。
「……リュエン。怒ってる?」
「ああ、怒っている。そなたが私を、微塵も頼ってくれないことに」
アイザックと夫婦関係であったことに、狂おしいほどの怒りが湧いた。プリシラを軽んじるミラベルを殺したかった。
プリシラを強引に連れ去ろうとする二人を目の前にしながら、リュエンを少しも念頭に置かず、自分一人で解決しようとするその姿に腹が立った。
私は、そなたに私を頼ってほしいのだ。
私だけを見つめ、私だけを感じ、私なしでは生きられなくなればいい。
心の中で、歪んだ感情が芽生えていた。この想いを、そなたは知りもしないのだろうが。




