#26.
プリシラの無情な返答にアイザックは唇を震わせたが、プリシラは彼に口を開く隙を与えなかった。
「それからミラベル。あんたは何しに来たの? 今あんたがすべきなのは、無意味な許しを乞うことじゃなくて、陥落した領地を取り戻すために戦場に立つことじゃないかしら?」
「それは……あなたを……」
「私を連れ戻して? またあんたは王城で何の心配もなく贅沢に遊び呆けて、自分の仕事を私に押し付けようとしたの?」
本来、プリシラが立っていた場所は、ベルク辺境伯夫人であるミラベルが立つべき場所だった。最前線で領民を守ることこそが貴族の義務であり、その名が持つ責任なのだから。
彼らが自分たちの義務をプリシラに押し付けても気にしなかったのは、彼らが大切だったからだ。
しかし、その情愛さえも摩耗して消えてしまった今、プリシラにとってかつての縁は、煩わしいだけの吸血蛭に過ぎなかった。
「あんたたちに私を捜し歩く時間があるなんて驚きだわ。これ以上見苦しく付きまとう暇があるなら、自分の土地でも守りなさいよ」
これ以上、対話を重ねる価値さえない。
リュエンに目配せしたプリシラは、アイザックとミラベルを通り過ぎて歩き出そうとした。いや、歩き出そうとした瞬間だった。
「シラ、まだ話は終わって……ぐっ!」
アイザックがプリシラを呼び止めようと手を伸ばしたのと同時に、彼の腕から鮮血が噴き出した。反射的に腕を引いたアイザックは、深く斬られた己の腕を確認し、目を見開いた。
プリシラもまた訝しげな顔で瞬きをしていると、彼女の背後に影のように寄り添っていたリュエンが、低い声で口を開いた。
「プリシラは貴様になど名を呼ばれることを拒んだ。見逃すのは一度きりだ。二度とその名を口にするな」
リュエンの言葉に、プリシラはフードを深く被った彼へと視線を向けた。
紅い瞳には、見覚えのある殺意が宿っていた。かつて幾度となく対峙した重苦しい敵意に、アイザックとミラベルの表情が驚愕に染まっていく。
弾かれたように立ち上がったミラベルが、信じられないといった声で叫んだ。
「プリシラ……どうしてあなたが『白い悪夢』と一緒にいるのよ!?」
「それは私の勝手でしょう」
「プリシラ、正気なの!? いくらアイザックに裏切られたショックが大きいからって……あれは私たちの部隊を何度も壊滅寸前まで追い込んだ殺人鬼よ! あなたを何度も殺そうとしたクズなのよ!」
「だから何。私の勝手だって言ったじゃない。一体あんたたちは、何度言えば理解できるの?」
同じことを何度も言わせる。理解力が足りないのだろうか。
確かに、昔から話をまともに聞かなかったことを思えば、二人とも理解力はあまりよろしくないのかもしれない。
プリシラの表情に退屈さが滲むと、リュエンの眼光はいっそう鋭く沈んだ。
リュエンの殺気に息を呑みながらも、アイザックはたどたどしく言葉を継いだ。
「私が君をどれほど愛しているか……君もよく知っているだろう」
「それがどうしたの。私はもう、あなたを愛してもいないし関心もないわ。ハウェルに戻る理由なんて尚更ない。未練がましくしてないで、さっさと消えて」
虫を追い払うように手を振ったプリシラは、聞こえよがしに溜息をついて続けた。
「散々な目に遭ったわね。リュエン、早く帰りましょう」
「……分かった」
今度こそ二人を無視して歩を進めた。いや、進めようとした瞬間だった。
「プリシラ、あなたは私たちと一緒に戻らなければならないのよ」
見え透いた脅迫に立ち止まった理由は、大したことではない。
窮地に立たされたミラベルが何を言い出すのか、ただ興味があっただけだ。
プリシラが視線を向けると、先ほどまでの悲劇のヒロインのような姿とは打って変わった、残酷な顔をしたミラベルが口角を吊り上げていた。
「あなたはまだペイン子爵夫人であり、ベルク領の騎士だわ。『死者の森』に落ちたところで、あなたが死んだと信じる者など一人もいない。あなた自身も、死んだと偽装さえしなかったでしょう?」
ミラベルの言う通り、死者の森に落ちたのは一種の縁を切る合図に過ぎず、プリシラを知る者たちは誰一人として彼女の死を信じなかった。実際、死んでもいないのだし。
「離婚届は提出していないわ。不倫の痕跡もとっくに消した。たとえそうでなくても、あなたがハウェル王国の国民である以上、ベルクの騎士である以上、脱走は法律違反よ」
「それで?」
「あなたの言う通り、私はベルク伯爵夫人よ。アイザックはベルク辺境伯の筆頭騎士。脱走兵であるあなたを連行するのは私たちの権利であり、義務なのよ。そうでしょう?」
(ほう、そう来ると?)
ミラベルの言い分通り、離婚云々はさておき、脱走は重罪だ。
しかし……。
勝利に酔いしれるミラベルの表情を見て、プリシラはこらえきれずに吹き出した。
「アハハハ!! おかしいわね。哀願の次は脅迫? 悩み抜いて出した結論が、せいぜいそれなの?」
可笑しくてたまらない。実際、息もできないほど笑ったせいで、肺が痛み始めてきた。プリシラの苦しそうな様子にリュエンが顔色を変え、彼女を支えた。
「ハハハ……ふぅ……う。死ぬかと思ったわ」
「プリシラ。落ち着いて呼吸をしろ。もう笑うな」
背中を撫でてくれるのはありがたいが、笑いをおさめるために背中を撫でるというのは……少し、いや、かなり変ではないだろうか? その事実にまた笑いが込み上げそうになり、プリシラは思考を打ち切った。
プリシラとリュエンの様子に、ミラベルは無表情で二人を冷たく見据えた。
「何がそんなにおかしいの? 私たちと一緒に帰れるのが、そんなに嬉しい?」
「そうね。本当に嬉しくて涙が出そうだわ。いいわよ、私をハウェルまで連れて行ってみなさいよ」
「……え?」
「連れて行ってみろって言ってるのよ。もしあんたたちが私をハウェルまで連行できたら、ええ、言ってくれたこと全部やってあげるわよ」
リュエンの助けを借りてようやく笑いを止めたプリシラは、緩んだままの口角をさらに吊り上げて言い放った。
「『戦場の槍』と『癒やしの天使』なら、『黒い防壁』を打ち破るなんて造作もないことでしょう? そうでしょう?」




