#25.
プリシラに突き放されたことがショックだったのか、呆然と彼女を見つめていたアイザックだったが、名を呼ばれるやいなや目元を潤ませてプリシラへと歩み寄った。
およそ半月ぶりに見る夫の姿。だが、プリシラの中に湧き起こったのは、懐かしさや戸惑いよりも先に、純粋な「疑問」だった。
「シラ……どこか怪我はないか? 無事でいてくれて本当によかった。君を失うことになったら、私は……」
耳に届く言葉が、まるで実感を伴わない。結婚してから一度たりとも心配の言葉など口にしたことがないくせに、今さら何を言っているのか。
(討伐中にどこか頭でも打ったのかしら?)
そもそも、なぜアイザックがリベリアにいるのか。
(どうしてこんなに早く?)
アイザックが自分を追ってくること自体は、想定の範囲内だった。「死者の森」に飛び込んだところで、プリシラがかすり傷一つ負わないことは明白であり、彼女が死んだと信じる者など誰もいないからだ。
しかし、それにしても時期が早すぎる。
プリシラの予想では、半年ほど経ってから「もう限界だ」とプライドを折って現れるだろうと思っていたのだが。
(危険な魔物でも出没したのかしら)
アイザックは、別れてからわずか半月しか経っていないにしては、ひどくやつれた様子だった。同情を買うためか、シャツの隙間から包帯が巻かれているのも見えた。
それでも整った顔立ちは光を失っていなかったが、リュエンの顔を毎日眺めているせいか、以前ほど美しくは感じられなかった。
(かつては愛した人なのだから、せめて憐れみくらいは感じると思ったけれど)
傷ついた姿を見ても、アイザックに対して何の感情も湧き上がってこなかった。
プリシラが冷静にアイザックを品定めしていると、真っ青な瞳に熱を帯びた彼が、手を伸ばしながら言葉を継いだ。
「シラ、すまない。私がすべて悪かった。アリシアも反省している。二度と私たちの間に割り込ませたりはしない。シラ……どうか、もう一度だけチャンスをくれ」
アイザックの手がプリシラの頬に触れる直前、彼女はその手を音を立てて払いのけた。
「嫌です」
「……シラ?」
「愛称で呼ばないでください。私たちはそんな仲ではないでしょう? ペイン卿」
「腹が立つのも無理はない。失望しただろう。一生かけて謝罪しても足りないことはわかっている。それでも一度だけ……もう一度だけチャンスをくれ、シラ」
「腹も立っていませんし、失望もしていません。そして、あなたに与えるチャンスなど存在しませんよ、ペイン卿」
プリシラの冷徹な拒絶に、アイザックの顔が悲しみに歪んだ。
以前のプリシラなら、彼の悲しげな顔を見ればすぐに言葉を飲み込んだだろう。彼を笑顔にするためなら何だってしたはずだ。だが、今は何の感情も動かない。
まるで、あの日、あの寝室に彼への感情をすべて置いてきてしまったかのように。目の前の男に対しては、怒りも、悲しみも、同情も、恋しさも……いかなる感情も芽生えなかった。
プリシラが無味乾燥な眼差しを向けていると、アイザックの背後から見覚えのある顔が現れた。
軽蔑に満ちた視線でアイザックを見ていたミラベルだったが、プリシラと目が合うと即座にその色を消し、両目に涙をいっぱいに溜めて近寄ってきた。言葉に詰まったように唇を震わせる姿は、可憐というより悲劇的にさえ見えた。
「シラ……本当に、本当に会いたかった。ごめんなさい。私が……あなたの傍を離れてしまったせいで……」
溜まっていた涙が頬を伝い落ちる。相変わらず表情の演技だけは一級品だ。
(どうしてこんなに早く来たのかと思えば。そうよね、ミラベルがいなければ『死者の森』を通ることすらできないもの。彼女が手引きしたと考えるのが妥当だわ)
それにしても、アイザックもさることながらミラベルの登場も意外だった。彼女の性格上、一度王都へ行ったからには、カイゼンが半身不随にでもならない限り、ベルク領に戻るはずがないと思っていたのだが。
それほどまでにベルク領の状況が悪いのだろうか? ベルクが危険な地であることは確かだが、一週間前のリベリアに比べれば十分に立ち回れる程度のはずだ。
プリシラの疑問に答えるかのように、ミラベルが彼女の前にへたり込みながら言葉を続けた。
「シラ、ベリタの村が魔物に陥落したのよ。あなたのためなら何でもする。だからお願い、戻ってきて」
ベリタの村は、辺境伯邸に隣接する「死者の森」に最も近い村だ。ベリタが陥落したということは、辺境伯邸もまた陥落したことを意味する。
(ベリタが陥落した、ね……)
「ペイン卿。討伐の途中でS級魔物でも刺激したのですか?」
「そんなはずはないだろう? シラ、君がいないからだ。君がいないから防衛線が崩れたんだ。シラ……私たちには、いや、私には君が必要なんだ」
「あなたに大きな荷を背負わせていたことはわかっているわ。ペイン卿も深く反省している。ペイン令嬢の処遇はあなたに任せる。あなたの望む通りにしていいから。だから……ね?」
(どいつもこいつも……)
愛称で呼ぶなという言葉が聞こえなかったのだろうか。プリシラの意見を聞くふりをして自分たちの要求を押し通そうとする二人を見ていると、ひどく面倒になってきた。どうやら、言葉で言い聞かせても理解できないらしい。
(私はもう、貴族の令嬢じゃない)
礼儀を弁える必要も、後腐れを案じる必要もない。プリシラは腕を組み、二人を見据えて答えた。
「嫌よ」
「……え?」
「嫌だって言ってるの。そもそも防衛線が崩れたからって、私にどうしろっていうのよ?」
「シラ、急にどうしたんだ?」
「あなたたちこそ、どうしたのよ? いつも自分たちが一番立派だと言って威張っていたくせに、今さら縋り付いて。呆れてものも言えないわ」
プリシラの返答が意外だったのか。それとも、常に礼を重んじ敬語を使っていたプリシラがタメ口を叩いたのが意外だったのか。アイザックとミラベルは、呆気にとられた顔でプリシラを見つめた。乱れた前髪をかき上げ、プリシラは言葉を継いだ。
「アイザック。覚えてる? 『今日目の前にいる存在が、明日もいると思うな』という言葉」
「……」
「だから今日が最後であるかのように、目の前の大切な人を慈しむのを忘れるな。私にそう言ったのは、他でもないあなただったじゃない?」
「……シラ。それは」
「三年間。私は三年間、あなたを信じていた。あなたの言葉を、あなたの人品を、あなたの愛を」
忌々しげに溜息をついたプリシラは、軽蔑の眼差しを向けながら言い放った。
「私の信頼に対するあなたの答えは、妹と肉体関係を持つことだったわ。あんたみたいな汚らわしい奴に名前を呼ばれたくない。反吐が出るから、二度と私の名を呼ばないで」




