#19.
プリシラに向かって悠然と飛来するドラゴンの姿を、呆然と見つめた。どうすべきか一瞬悩んだが、どのみちドラゴンは彼女の防壁を越えることはできない。ならば、このままドラゴンを閉じ込めておくことが、被害を最小限に食い止める最善策だろう。
(ふう、よし。やってやろうじゃない)
計算を終えたプリシラは、ドラゴンを誘い出すように防壁の境界に踏みとどまった。緩慢に飛んでいるように見えたが、瞬きする間にドラゴンは彼女の目の前まで迫っていた。
ドラゴンが口を開きブレスを吐き出すのと同時に、プリシラはその周囲に防壁を展開した。四方を囲む防壁は、さながら檻のような姿を成していた。
放たれたブレスが黒い防壁に触れたかと思うと、壁に塗り込められるようにして消えていく。ドラゴンの魔力を吸い込んだ防壁は、一瞬禍々しい赤黒い色に染まったが、すぐに以前よりも深い漆黒へと戻った。
滑空を止めたドラゴンの視線が、自身を阻む半透明の壁に触れ、やがて地上に立つプリシラへと注がれた。遠目では分からなかったが、その瞳には知性を持つ個体特有の、鋭く理知的な光が宿っていた。
高位の魔物には高い知能を持つ者が多い。神話に語られるような特殊個体であれば、人間の言葉を理解することなど造作もないはずだ。
(対話が通じるかは未知数だけどね)
黒い障壁に遮られてなお、ドラゴンの巨体からは燦然とした光が放たれていた。ドラゴンは防壁が珍しいのか、一度円を描くように旋回してから、再びブレスを吐きかけた。
プリシラの防壁は、攻撃を受けるほどそれを吸収し、より強固なものとなる。持続時間に限界はあっても、壊されることは決してない。ドラゴンがいかなる攻撃を仕掛けようとも、防壁は維持される。だが。
(さて、ここからどうしたものか)
ドラゴンの捕獲には成功した。しかし、これほど精巧な守護防壁を一日以上持続させることは不可能であり、防壁を維持している以上、プリシラ自身もこの場を離れることはできない。それまでに討伐隊が編成されれば良いのだが……。
(それ以前に、討伐隊を組んだところでドラゴンを殺せるのかしら)
状況からして、このドラゴンこそが「勇者カルデオン」を葬り去った個体ではないかと思われた。帝国に勇者が何人存在し、どれほどの技量を持っているのかは知る由もないが、プリシラの目から見れば、たとえアイザックやカイゼン閣下を連れてきたとしても、この龍の相手が務まるとは思えなかった。
この龍に対抗し得る唯一の存在がいるとすれば……。
腕組みをしたプリシラは、横目で隣を窺った。危険極まりない場所であるにもかかわらず、平然と足を踏み入れ彼女の傍らに立つリュエンは、深く被ったフードの奥からドラゴンを見つめていた。だが、その表情がどこかおかしかった。
青ざめたリュエンの瞳は、細く震えていた。まるで、何かを酷く恐れているかのように。明らかに異常なリュエンの様子に、プリシラが声をかけようとした、その時だった。
――ズシン!
奪われた関心を引き戻すかのように、ドラゴンの側から大きな地響きが鳴った。反射的に顔を向けると、翼を畳んだドラゴンが地上に降り立っていた。
プリシラに向けられていたドラゴンの視線が、彼女を通り越し、隣に立つリュエンへと固定された。ドラゴンの表情など読み取れるはずもないのに、その口角が吊り上がり、嘲笑を浮かべているのが手に取るように分かった。裂けた口からは、明瞭な人間の言葉が漏れ出した。
『生きていたか、シェイルグ』
「……フェンベルク」
「……っ?!」
今、リュエンは何と言ったのか。
(フェンベルク?)
ミュベル・フェンベルク。リュエンと同じ魔導兵であり、カイアード帝国を蹂躙した「紅い光輝」の名ではないか。理解し難い状況に、プリシラの目が見開かれた。驚愕に染まるプリシラの表情が面白いのか、フェンベルクは牙を剥き出しにして笑った。
『クハハ! 黒い防壁の呆け面を拝めるとは! 長生きはしてみるものだな!』
幾重にも重なった声は、聞き覚えがあるようでいて、酷く疎ましかった。数えるほどしか聞いたことはないが、決して忘れられない声。間違いなく、フェンベルクの声だった。
(どうしてドラゴンがフェンベルクの声を……。本当に、あのドラゴンがフェンベルクだというの?)
もしそうなら……あの塔は? ガエル魔導王国は一体、何をしでかしたのだ。
人間が魔物に変じる方法が存在しないわけではない。しかし、一度魔物になれば二度と人間には戻れないため、古来より忌むべき禁忌として排除されてきたはずだ。
また、魔物になれば人間としての記憶も概念も失う。本能に従い、破壊と捕食のみを繰り返す怪物に成り果てる。
確かに、そうだったはずなのに。
リュエンは何かを知っているのだろうか。だからこそ、あれほどまでに顔を白くさせているのか。納得のいくことなど一つもなかった。プリシラが呆然とフェンベルクを見上げていると、その紅い瞳が細められた。
『シェイルグ。貴様がなぜ、八つ裂きにしても飽き足りぬ黒い防壁と共にいる?』
「……私はもう、魔導国の人間ではない。フェンベルク、貴様と戦いたくはない。退け」
『退けだと? 違うな、シェイルグ。忘れたか? ここは我らの祖国だ。薄汚い野蛮族どもが祖国を踏みにじっているではないか。感情など無用なもの。貴様は我が王国の兵器だ』
「……!」
『誰もが貴様を卑怯な裏切り者と呼ぶ。だが、私は知っている。貴様ほど祖国を想っていた者はいなかった。シェイルグ、まだ遅くはない。今すぐ汚らわしい野蛮族どもを屠り、戻ってこい』
「私は……私は、もう……」
呪文のように紡がれるフェンベルクの言葉に、リュエンの表情が凍りついた。ぶつぶつと独り言を漏らすリュエンの姿に、フェンベルクの笑みが深まる。
『すべては貴様のために用意されたのだ。彼女は今も、塔の最上階で貴様の帰りを待っているぞ』
「彼女」という単語を耳にした瞬間、リュエンの呼吸が乱れた。激しく震え出す体と、焦点の定まらない視線。まるで何かに洗脳されているかのような……。
「リュエン? しっかりして、リュエン!」
プリシラがリュエンの肩を掴もうとしたその時、どこからか声が聞こえてきた。か細く、それでいて美しい、さながら歌うような旋律を帯びた声。
――リュエン、すべてはあなたのために用意されたの。戦争も苦痛もない、あなたの望む理想郷。
だから、戻ってきて。私のそばへ。
「何が……っ」
眉を潜めたプリシラが、高くそびえる塔を見上げた。その瞬間だった。




