#01.
「シラ、何を言って……」
「ライデンです、ペイン卿。もはや貴方と私は夫婦ではありませんから」
「君……自分が今、何を言っているのか分かっているのか?」
アイザックの深い緑の瞳に、淡い怒りが宿った。どうやら私の哀れな夫は、未だに状況が把握できていないらしい。プリシラは一片の感情もこもっていない瞳で言葉を継いだ。
「当然分かっています。まさか、私が貴方たちを許すとでもお思いでしたか?」
「シラ。私は君だけを愛すると誓った。君以外の女性と共に歩むことなどできない」
「ライデンだと申し上げたはずですが? 貴方が私以外の女性と共におれないと言うのなら、そのままアリシア様と一緒にいればよろしいでしょう」
プリシラはアイザックにぴったりと寄り添うアリシアをちらりと見やり、口角を片方だけ吊り上げた。
「貴方がいつも口にしていた通り、『アリシアの最期を見守りながら』ね」
「『シラ』。君とは絶対に別れないぞ」
「いいえ。貴方は私と離れることになります。……そうではありませんか、カイゼン閣下?」
プリシラが言い終えると同時に、彼女に遮られていた扉の向こうから一人の男が現れた。三十を超えた年齢であるにもかかわらず、色褪せた金髪の下にある顔立ちは溜息が出るほど秀麗だった。しかし、細められた瞼の奥にある青灰色の瞳には、十年以上も死線を越えてきた者特有の残酷さが混じっていた。
思いも寄らない人物の登場に、アイザックはプリシラが現れた時よりも驚愕した表情で唇を震わせた。ただでさえ蒼白だったアリシアの顔は、さらに血の気が引いて真っ白になった。
(今日、カイゼン閣下が訪問すると伝えたはずだけれど)
ガエル魔導王国が滅亡して三年。魔導王国から溢れ出した魔物が落ち着くかと思われたが、少し前から魔物たちが異様な頻度で出没し、深刻な被害をもたらしていた。その対策として、「戦場の槍」と「戦場の盾」が揃うペイン子爵邸で会議を行うと話しておいたはずだ。
アイザックがプリシラの言葉を記憶していないのは日常茶飯事だったが、まさかこれほど重要な事項まで忘れているとは。書面にして懐にでも入れてやるべきだっただろうか。
いいえ、どうせ読みもしなかったでしょう。
プリシラが嘲笑を漏らすと、カイゼン・ベルク辺境伯は青灰色の瞳に蔑みの色を湛えたまま、プリシラに言葉を返した。
「言っても無駄なようだな。ペイン……いや、ライデン」
「か……閣下……誤解です。これは……」
「誤解? ペイン卿。一体何が誤解だと言うのだ? 口ではライデンを愛していると言いながら、義妹と肌を重ねたことか? それとも、私にライデンとは睦まじいと嘘を報告したことか?」
カイゼンが寝室へと一歩踏み出した。彼が歩みを進めるたび、寝室の気温が下がるような、あるいは熱を帯びるような錯覚に陥った。それは錯覚ではないのかもしれない。
「言ってみろ、ペイン卿。私は一体何を誤解したというのだ?」
「……」
「ペイン卿が答えられないのなら、ペイン令嬢。貴女が答えてみるか?」
「え、えっ? 私……私は、ただ……」
アイザックもアリシアも、まともな言葉を発することができなかった。二人の姿に、カイゼンは深い溜息をついた。
「……アイザック。私は誰よりもお前を信頼していた。だからこそプリシラとお前を引き合わせたのだし、彼女を一生幸せにするというお前の言葉を信じたのだ」
「閣下、本当に違います。私はシラを……」
「違うと言うのなら、証拠を示せ!!!」
カイゼンの怒りに満ちた一喝に、アイザックは口を閉ざした。そう、愛しているのなら証拠を示すべきだ。大切にしていたのなら、堂々と言えばいいではないか。
(大切にされたことなど一度もないのだから、自信などあるはずもないけれど)
これ以上ここで彼らと対話を続けるのは時間の無駄だった。プリシラはカイゼンに視線を向け、告げた。
「閣下。荷物をまとめた後、離婚届を受理していただきたく存じます。お先に失礼することをお許しいただけますか?」
「荷物は多いのか?」
「いいえ。いくつかの貴重品を除いて、すべて置いていきます。そもそも頂いたものもわずかですし、持っていく価値さえないものばかりですから」
「ならば、離婚届が受理される間、辺境伯邸に滞在するがいい」
「いえ、そこまでお気遣いいただかなくても……」
「行く当てもなかろう? 心配するな。貴殿が来ると知れば、ミラベルが飛んでくるだろうから」
「……」
ミラベルという名を聞いた瞬間、蓋をしていた昔の記憶が蘇った。救済の天使、ミラベル。プリシラ、アイザック、カイゼンと共に戦争を終結させた戦争英雄の名であり、終戦以降一度も戦場に姿を見せなくなったベルク辺境伯夫人だった。
辺境伯領の状況が芳しくなく、王都に留まっているミラベルの姿を思い描きながら、プリシラは無機質なタンザナイト色の瞳を向け、カイゼンを見つめた。
「……では、お言葉に甘えて失礼いたします」
***
「プリシラ。これからどうする計画だ?」
辺境伯邸に到着するなり執務室に呼び出されたプリシラに、カイゼンがかけた第一声だった。
「質問の意図が分かりかねます」
「愚か者のふりはよせ。貴殿は昔から、一度情を捨てればそれに関するすべてを整理していた。ベルク領を出るつもりか?」
カイゼンの問いに、プリシラは執務室の向こうの灰色の空を見上げた。今にも雪が降り出しそうな暗雲に覆われた空が、プリシラの心を代弁しているかのようだった。
「私はもうペイン子爵夫人ではありませんから、ここに留まる理由もございません」
「単刀直入に言おう。アイザックとの離婚は認めるが、ベルク領を出ることは許さん」
「……許可、ですか? 閣下。私はもう兵士ではありませんし、貴方の部下でもありません」
「ならば言い方を変えよう。プリシラ、我々には貴殿が必要だ。だからここに残り、ベルク領を守ってくれ」
プリシラは、カイゼンが率いる討伐部隊の最精鋭ディフェンダーだ。そんな彼女をカイゼンが簡単に手放すはずがないことは、プリシラもよく分かっていた。
ええ、ここに残るのも悪くはない。カイゼンは冷酷だが正当な人物であり、何より領地と領民を想う良き君主だから。
けれど。
曇り空に向けられていたプリシラの視線が、カイゼンへと移った。彼女の赤い唇が、ゆっくりと開かれる。
「ミラベル姉様は私より優れた軍人でした。戦場を護ることしかできない私とは違い、彼女は守護と治癒の両方をこなす『救済の天使』ではありませんか」
「ミラベルは今、身重なのだ。彼女を戦場に立たせるわけにはいかない」
「身重ではない……ですか」
「では、それ以前はどうして戦場に立たせなかったのですか? 子供を産んだ後は、戦場に立たせるのですか?」
「プリシラ」
「閣下。辺境伯夫人ならば、どの兵士よりも先頭に立って領民を護るべきだと伺いましたが」
「ミラベルは数年間、戦場にいたのだ。ようやく安らぎを得た彼女を、再び戦場へ追い込めと言うのか?」
(――なら、私は?)
プリシラはミラベルよりも若い年齢で戦場に駆り出され、血まみれになりながら一日一日を耐え忍んできた。治癒の力を持つミラベルとは違い、守護の力しかなかったプリシラは、常に最前線に立って誰よりも多くの死を目撃しなければならなかった。
終戦後も、プリシラの体に付いた血が乾く日はなかった。彼女が所属していた部隊で生き残ったのはプリシラだけだ。それでもプリシラは激戦地へ向かい、誰よりも多くの人々を護ってきた。
それが辺境伯筆頭騎士の妻がすべきことだったから。
辺境伯の領民として、その地にいる人々を護らなければならなかったから。
それがカイゼンがプリシラに教えた、持つ者の義務だったから。
(そんな貴方が……)
領民と領地を誰よりも優先していた人だったのに。
この六年間、私は何をしてきたのだろう。
自分勝手な者たちのために、私は、私たちは死をも厭わず、この国を、この地を、こんな人々を護ってきたのか。
亡くなった仲間たちの顔が瞼の裏に浮かんだ。怒りで頭がくらくらするほどだった。
カイゼンの青灰色の瞳を見つめていたプリシラは、席から立ち上がりながら言った。
「私はもう、ベルクにはおりません。戦場に立つこともありません」




