#12.
ガエルの「白い悪夢」が朝食を作った。
(食堂は一階だったわね……。「白い悪夢」が作る朝食かぁ……。)
何度反芻してみても、信じがたい話だ。
そもそも、彼は料理ができるのだろうか? 一体どこで教わったというのか。
軽く身なりを整えて一階へ下りながら、プリシラは首をかしげた。
プリシラも戦場にいた身として、簡単な料理くらいは教わった。しかし、あくまで貴族の令嬢であったため、料理の腕前は壊滅的で、かろうじて
「食べられなくはない」程度のものしか作れなかった。
「いい匂いはするけれど……。」
プリシラの寝室まで漂っていた香ばしい匂いは、階段を下りるたびに濃くなり、食欲をそそった。
(リュエンも貴族だったのかしら? うーん……。)
リュエンに関する情報は,、娯楽の少ない戦場では格好の噂の種だった。しかし、そのほとんどが「~らしい」という程度の噂に過ぎず、実際に彼が貴族なのか平民なのか、あるいは噂通り国王の隠し子なのか、知る由もなかった。
(まあ、何にせよリュエンはリュエンだし、料理なんて食べられさえすればそれでいいわ。)
何が出てこようと、他人が作ってくれた料理なら美味しくいただけるはずだ。
軽い足取りで食堂にたどり着いたプリシラは、目の前に並んだ光景を見て言葉を失った。
食堂の中に入ることすらできず、プリシラが呆然と立ち尽くしていると、リュエンが不安そうな顔で彼女に近づき、尋ねた。
「プリシラ? どうかしたのか?」
「あの、リュエン。この料理……もしかして、どこかで買ってきたの?」
「いや、私が作った。」
作った? リュエンが?
(これを全部?)
プリシラの視線がテーブルに並んだ料理へと向けられた。テーブルを埋め尽くしているのは、貴族の屋敷か……いや、王族の晩餐会でしかお目にかかれないような豪華な品々だった。
前菜はもちろん、メインディッシュにデザートは少なくとも四種類。ワインにウィスキー、紅茶はもちろん、果物も何種類あるか分からない。
(これを全部、一人でやったっていうの?)
一体どこから突っ込めばいいのか分からない。何よりリュエンはまだ患者だ。
明け方からこんなものを作っていたというのか? 休むようにとあんなに言ったのに。
プリシラが怒った顔で口を閉ざすと、リュエンは彼女の手を握り、困惑した声で尋ねた。
「プリシラ。何か、まずかっただろうか? 私は、してはいけないことをしたのか?」
「あなた。私が寝る前に何て言ったか覚えてる?」
「言葉……?」
「そうよ。言ったでしょう、その腕は中が空っぽだから注意しなさいって。それにあなた、自分の体の状態が分かっていないの?」
腕と舌はどうにか処置したとはいえ、内臓はまだボロボロだ。立っていることさえ許されない状況なのに、こんなに無理をするなんて。
一体何を考えているのか。
「体は、大丈夫だ。動ける。」
「動けるからって大丈夫なわけじゃないでしょう。痛みをこらえちゃいけないのよ。」
「すま、ない。悪かった、だから怒らないでくれ。見捨てないで……くれ。」
リュエンの顔が、今にも泣き出しそうなほど歪んだ。
その謝罪に、プリシラの目が大きく見開かれた。
(あぁ、しまった。)
患者に対して必要以上に怒鳴ってしまった。そもそも、リュエンは何一つ悪くないではないか。食事を用意したのは、プリシラのためだ。彼女が喜ぶ姿を想像して作ったのではないか。
「リュエン。ごめんなさい、急に怒ったりして。驚いたでしょう? あなたが私のために用意してくれたこと、本当に嬉しくて感謝してるわ。」
うなだれるリュエンの姿に、プリシラは彼の頬を優しく撫でながら言葉を継いだ。
「でも、私はあなたに、自分自身を大切にしてほしいの。私は豪華な食事よりも、あなたが健康になってくれる方がずっと嬉しいわ。」
「……私の、健康?」
「ええ。私は食べられるものなら何でもいいし、こんなにたくさんは食べきれないわ。だから、あなたが苦労してまでこんなにたくさんの料理を作る必要はないのよ。」
「苦労など、していない。」
「ええ、あなたは苦労だと思っていないかもしれないけれど。でもリュエン、料理っていうのは『ちちんぷいぷい』で魔法のように出てくるものじゃないでしょう?」
「できる。」
「それだって体力を消耗する……え?」
「『ちちんぷいぷい』。できる。」
リュエンの答えに、プリシラはきょとんとした表情を浮かべた。この人は何を言っているのか。
(そういえば……この食材は一体どこから調達したの?)
食材だけではない。入居直前の家を契約したとはいえ、あくまで清掃が終わっただけの家で、服など一着もなかったはずだ。
プリシラだって、軍服のシャツを適当に洗って繕って着ていたではないか。それに加えて、彼の体。
目が覚めた時はそういうものかと思っていたが、改めて見てみるとあまりに清潔で、おまけに良い香りまで漂っている。
数年間の奴隷生活を送っていたリュエンの体は、酷く汚れていた。髪は埃のせいで灰色に見えるほどで、顔も体も真っ黒だった。
彼を抱えて移動したプリシラでさえ、三度も風呂に入ってようやく清潔さを取り戻したというのに。
プリシラの訝しげな表情に、リュエンは自由な方の手を持ち上げた。すると、彼の手から料理の盛られた皿が現れた。
「え……えぇ!? 何それ? どうやったの!?」
「成分さえ、分かれば。作れる。」
「成分?」
「ああ。料理に含まれる、材料の成分。皿の成分。分かれば、魔法で形にできる。」
「もしかして、今着ている服も?」
「そうだ。」
「そんなのあり……? もしかしてあなたのスキルなの? 成分が分かれば創り出せるっていう……。」
スキルとは固有の才能だ。魔法とは異なる先天的な祝福は、学ばずとも本能的に使うことができ、魔法とは比較にならないほど強力な力を振るうことができる。
魔法とは別物であるため、磨けば上達するというものでもない。
ただし、ランクが一定以上であれば、無から有を創造することも難しくはない。
プリシラが盾なしで守護スキルを操るように、リュエンも「制作」のようなスキルを持っているのではないかと思い尋ねると、彼は首を振った。
「私にスキルはない。」
「えっ? スキルがないのに、どうやって料理を作ったの?」
「魔法で。」
「……。」
リュエンの答えに、プリシラは口をあんぐりと開けた。スキルとは違い、魔法は魔力を消費し、精巧な工程を必要とする。
簡単な元素魔法でさえ使える人間が全人類の10%にも満たないというのに……魔法で瞬く間に料理を作るなんて。
「リュエン。魔導王国の魔法使いは、みんなこんなことができるの?」
「いや。」
「じゃあ、あなたはどうやってるの?」
「ただ、やるだけだ。」
「ただ、やるだけなのね……。」
何とも言いようのない答えだ。プリシラが呆けた声で彼の言葉をなぞると、リュエンは再び困ったような声で問い返した。
「いけない、だろうか?」
「そういうわけじゃないわ。でも……一つだけ聞かせて。魔法は莫大な魔力を消費するでしょう? 体が痛んだり、疲れたりはしない?」
「この程度、何でもない。痛くも、疲れてもいない。」
「それならいいんだけれど……。」
プリシラはテーブルいっぱいに並んだ料理に視線を戻した。保存魔法がかけられているのか、料理からは今しがた作ったかのように湯気が立ち上っていた。
「痛くないし疲れないというのなら、その力をあなたの回復のために使ってほしいわ。」
「私の、回復……。」
「ええ。あなたが健康になったら、その時にまた料理を作ってくれる? こんなにたくさんじゃなくて、メインディッシュ一つでいいから。それまでは、料理は私がするわ。」
プリシラの答えに、リュエンは考え込むような表情で彼女を見下ろした。朱色の瞳が、青紫色の瞳を映し出す。リュエンは静かに口を開いた。
「プリシラ。料理は、得意なのか?」
「いい、リュエン? 料理っていうのは、栄養があって食べられさえすればいいのよ。」
プリシ라がにっこりと笑うと、リュエンの目が細められた。
「つまり?」
「すっごく下手よ。」
「美味しい料理は、嫌いか?」
「それを嫌いな人なんて、まずいないわね。」
「ならば、私が作る。体に負担をかけずに、やる。貴殿に、美味しいものを。食べさせてあげたい。お願いだ。」
お願いだ、と言われては断れない。プリシラはリュエンと、その向こう側に並ぶ贅を尽くした料理を見つめた。
正直なところ、ものすごく美味しそうだ。毎日これを食べられるなら、人生はもっと幸せで豊かになるに違いない。
悩んだ末、プリシラが言った。
「絶対に無理をしない範囲で作るって、約束できる?」
「できる。」
「分かったわ。じゃあ、これからは料理は一品だけにしてね。」
プリシラの答えに、ようやくリュエンの目尻が三日月のように細められた。初めて目にする、彼の微笑みだった。




