#00.
春が間近に迫っているというのに、肌を刺すような風が身に染みる寒い日だった。ペイン子爵邸の主寝室の前に立つプリシラ・ペインは、寝室の向こうから聞こえてくる忍び笑いを聞きながら、万年雪よりも冷たく凍てついた表情を浮かべていた。
結婚して三年。一度たりとも足を踏み入れたことのない寝室だった。その場所に、夫であるアイザックと「誰か」が共にいる。
「……。」
この期に及んでも、プリシラはアイザックを信じていた。戦場でのアイザックは誰よりも信頼できる人であり、プリシラが初めて恋い慕った男性だったからだ。
ボロボロに擦り切れていても、その信義を胸に抱いて寝室の扉を開けた。
もし心に形があるのなら、プリシラ心は粉々に砕け散っていただろう。
タンザナイトのように透き通った青い瞳いっぱいに映ったのは、一糸纏わぬ姿で抱き合う男女だった。
一人はプリシラの夫、アイザック・ペイン。眩いほどに燦然とした金髪を乱した彼は、息を呑むほどに美しい顔に困惑を浮かべていた。そんな彼の傍らで、慌てて胸元を隠すのは、柔らかな小麦色の髪を持つ妙齢の女性だった。
アリシア・ペイン。アイザック・ペインの義理の妹。
重苦しい沈黙が寝室に降りた。一言も発さず二人を見つめるプリシラの姿に、先に口を開いたのは夫のアイザックだった。
「シ……シラ」
「……アイザック」
「シラ、君が何を考えているかは分かっている。だが、これは『すべて誤解』だ!」
誤解? この状況で一体何が「誤解」だというのか。プリシラの疑問に答えるかのように、アイザックが慌てて言葉を継いだ。
「最期に人の温もりを知りたいという、アリシアの願いを聞き入れただけなんだ」
「願い……ですか」
今、それを言い訳だと言っているのか? 笑いすら出なかった。
「温もりというのが、いつから肉体関係を結ぶ行為になったのですか? あなたは妹の頼みなら、肌を重ねることまでしてあげるのですか?」
「それは……」
「この状況が筋の通るものだとお思いですか?」
プリシラの正論に、アイザックが言葉を濁した。たとえ血が繋がっていないとはいえ、アイザックとアリシアは幼い頃から共に過ごした家族だった。
そんな家族と、いくら最期の願いだからといって身体を重ねるなど。
(なんて吐き気がする……)
夫婦の寝室で睦み合っていたであろう二人の姿が勝手に脳裏に浮かび、顔が歪みそうになった。表情を整えたプリシラが冷ややかな目で彼らを見据えると、アイザックが必死に訴えた。
「君も知っている通り、アリシアの命はもう長くない。たった一人の家族の最期の願いなんだ。叶えてやらないわけには……」
また、その言葉か。
「余命いくばくもない。最期の願いだ。一体それが何度目だと思っているのですか?」
「……何だと?」
「結婚した最初の一年、あなたは私に言いましたね。病弱な妹の最期を見届けたいから待ってほしいと。私はその言葉を信じました」
「……」
「私よりアリシアを優先しても……辺境伯の筆頭騎士であり、戦場の槍であったあなたのことを知っていたから、私はあなたの品格を信じていました」
「……」
「この三年間、あなたはことあるごとにアリシアの側に張り付き、『最期だ』『余命短い子だ』と同じ言葉を繰り返しましたね。アイザック、私は三年間、あなたの言葉を信じていたのですよ」
だが、その全ての信頼の対価が、不貞であったとは。
プリシラはそっと目を閉じた。閉じた瞼の裏に、戦場で見上げた輝かしいアイザックの姿が描かれた。
(三年か。こんな無様な姿を見るために、私は三年間耐えてきたのか)
長い戦争が終わり、辺境伯からアイザックとの結婚を打診された時は、夢ではないかと疑うほど胸が高鳴った。
たとえそれが「戦場の盾」と呼ばれるプリシラの優秀な能力を利用するためであったとしても、アイザックと共にいられるならそれで良かった。
幾度となく戦後処理や魔物討伐に呼び出されても、彼女が帰る家にアイザックがいれば、それだけで幸せだった。
アイザックがプリシラを愛していると言う時、悲惨な戦場での日々が報われる気がした。
アイザックはプリシラを愛していると言いながらも、彼女に指一本触れなかった。
病弱な妹の最期を見届けるまでは、幸せになる資格がないという理由で。
アリシアがアイザックに向ける視線が、家族ではなく女のそれであったとしても、プリシラはアイザックを信じた。
彼がプリシラを蔑ろにし、アリシアばかりを掌中の珠のように慈しんでも、プリシラはアイザックを信じた。
アイザックを愛していたから、彼を信じた。
だが、これ以上は信じられない。
信じる必要もなかった。
笑いが込み上げてきた。
「ペイン卿。どうやらあなたの人生において、私は不審者に過ぎなかったようです。お邪魔虫はこれでお暇いたしますので、どうか妹さんとお幸せに」
始めました. よろしくお願いします. 毎日連載を目指しています。




