月の影
平日、昼間の図書館は、いつも以上に静かで、穏やかで、落ち着く。
ゆかりは【歴史】コーナーで紫式部や和歌関連の本を手に取ると、近くの椅子に座った。
なんとなく思い立って、スマホを開いて美月とのLINEのやりとりを振り返る。
最後のメッセージは5年前。
『同窓会の服、どうする?』
と、美月。
『最近お気に入りのワインレッドのワンピースがあるから、それにしようかと』
と、ゆかり。
『なるほど。じゃ、私もワンピにしよっと!』
と、美月。
ゆかりがスタンプを返し、会話は途切れている。
美月のアイコンは、サイゼリヤのピザ。
放課後によく行っていた、高校の最寄りにあったあのコスパ最強のファミレスは、つい最近コインパーキングに姿を変えたと知った。
人間と一緒で、思い出の場所も時間と共に姿を変えていく。
スマホを机に置いて、本を読み始める。
* * * * *
ガシャーンと、陶器が割れる音がする。
床に転がって割れた、色違いのペアマグカップ。
寒々しくも裸足の女の足に、熱いコーヒーが降り注いだ。
「……ごめんなさい……許して、お願い……ひとりにしないで……」
震えた声で美月が男の足にしがみつくが、蹴り飛ばされる。
バンッという重い音によって家が少し揺れた気がする。
乱暴に閉じられた扉の向こうで、足音がどんどんと小さくなっていく。
震える手で机の上のスマホを取る。
おもむろにLINEを開くと、ゆかりとのトーク履歴を眺める。
「……」
スマホを床に置き、膝を抱えて泣き出す。
* * * * *
夕方。仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの学生たちで混み合い始める図書館を出て、閑静な住宅街を歩いていると、懐かしい声に名前を呼ばれた。
「……篠宮?」
振り向くと、スーツ姿の涼が立っていた。
「よっ。久しぶり」
「久しぶり。え、成人式以来?」
「だね」
陽気な声と雰囲気が学生時代と変わらないからか、スーツ姿にかなり違和感を覚える。
「社会人、ちゃんとやれてるの?」
「母親かっ」
あぁ、懐かしいノリだな。と、ゆかりは思った。
そして心の奥底で眠っていた「寂しい」という感情が、今にも目覚めてしまいそうな感覚がして、ごまかすように笑った。
「今日は取引先と打ち合わせ。それなりに社会人やってます」
「それは失礼致しました」
どうやら途中まで行き先が同じようなので、涼と並んで歩き出す。
これはまったく懐かしくない。というか、初めてじゃないか?
「篠宮はすごいな、夢叶えて。ま、俺は篠宮には文才があるなって昔から思ってたけど」
どの口が言っているのか。フンっと鼻で笑う。
「私は涼に『そんなふわっとした夢でいいのか』って言われたこと、いまだに覚えてるからね」
「言ったっけな」
こういうのはたいてい、言った本人は忘れているものだ。
「今思えば、夢なんてふわっとしたものでいいんだよな。叶う人なんて、ほんの一握りなんだし」
「それで作文、サッカー選手って書いたの?」
「カッコいいだろ、サッカー選手になりたいって語る俺」
ぞわっとして、涼の横顔を見る。目が合うと、二ッと笑った。
……そうか、もしかしたら彼は当時から「夢は叶うものではない」と、悟っていたのかもしれない。
ましてや高校生でサッカー選手だなんて、小説家以上に口に出したら反対されそうな夢だ。
あの作文はきっと、涼が夢を語ることが出来た最後の時間だったのだろう。そう思うと……。
「カッコいいね」
と、伝えたくなった。せめて、今の涼に。
「は? 何? ぞわっとした!」
「そうだよね。ごめん」
ぎこちなく、笑う。
それでも、涼から返ってきた声は、名前の通り涼やかだった。
「篠宮は恵まれてるよ」
「……そう、だよね」
また、それか。たしかに、ゆかりは作文に書いた夢を叶えた。でも、家族が最初から良い顔をしてくれたわけじゃない。
「私の人生は、私のものだ」
という強い意志を曲げなかったこと、そして周りが良い意味で“野放し”にしてくれていたことは、もしかしたら恵まれていると言えるのかもしれないけれど。
だけど、これまで幾度も言われてきた「恵まれている」という言葉にはもっと、重く暗いものを感じる。
少しの間、沈黙が続く。
「……ねぇ、同窓会、なんで来なかったの」
5年前、高校の同窓会が開かれた。そういうイベントはあまり得意ではなかったが、美月と涼が参加すると聞いて会場に向かったのに、扉を開けてみれば2人とも不参加だった。
「出張で東京にいなくて」
「言ってよ。知り合い誰もいなくて孤独だったんだけど」
「同窓会って知り合いの集まりだろ。会場間違えたんじゃね」
(……間違えたのかも)
ふいに、ゆかりの頭にそう浮かんだ。
美月が同窓会をものすごく楽しみにしていたことは、LINEの文面から伝わって来た。
それなのにあの日、美月は来なかった。そして何の連絡もゆかりの元には届かなかった。
日にちや場所を間違えたなんて、そんなことはないはずだけれど、何かの手違いで何かを間違えて、あの日、美月は来なかった。そう、思いたかった。
「ねぇ……美月のこと何か知らない?」
「ん? あぁ、美月も同窓会来なかったんだっけ?」
藁にも縋るような思いだった。
交友関係の広い涼なら、どこからか情報を得ている可能性がある。
「いや、特には。たしか親が認知症で、妹と世話してるってことくらいしか知らん」
ぴたり、とゆかりの足が止まる。
「あれ、もしかして知らなかった?」
この街で自分だけが、モノクロの存在のように感じた。
* * * * *




