9.訪れた屋敷
セーヌ川の支流。
そのほとりに寄り添うようにして広がる町、ポントワーズ。
空の色は灰色に染まり、地表には朝靄が薄く広がっていた。
赤玉 菊がこの地に足を踏み入れたのは、ちょうど日が昇りきらぬ時間だった。
駅舎を出ると、湿った冷気が彼女の頬を撫でる。目の前に立つ街灯の灯りさえ、霧に滲んでぼやけていた。
「まるで、世界が輪郭を失ったようね」
誰に言うでもなく、菊はつぶやく。
小さな革鞄を手に、町の中心部へと歩き出した。
◆
ポントワーズは、古い街だ。
大陸戦争前は貴族たちの避暑地であり、領主家の館を中心に文化が栄えたと聞く。
だが今、その館──ル・サン=レミ家は、丘の上に孤立するように建っている。
現当主・ノアは町に姿を現さず、住民たちはその名をほとんど口にしなかった。
「亡霊が住む」と囁かれる屋敷。
「主は老いた」と噂する者もあれば、「若返った」と囁く者もいた。
そのどちらも真実から遠くないことを、菊はまだ知らなかった。
◆
屋敷への道は、町外れの森へと続いていた。
古い石畳が苔に覆われ、地面は湿っていた。霧のせいか、景色はすべて遠ざかって見える。
風が止み、鳥の声すらない。
そして、現れた。
塔を抱くように建つ、洋館。
その最上階の尖塔からは、ひとつの鳥籠が吊るされていた。
外気に晒されながら、まるで時の流れから取り残されたように──そこに、在る。
「……あれが、“檻”か」
菊は足を止めた。
鳥籠の中で、微かな光が揺れている。生物とも、霊ともつかぬ、魂の残滓。
菊の内にある《視す力》が、警鐘のように微かに反応する。
◆
扉を叩くと、しばらくして音もなく開かれた。
中から現れたのは、長身の青年。
艶のある黒髪に、紫色の瞳。淡く笑うその顔立ちは、少年にも、大人にも見えた。
「……君が、赤玉 菊さんですね」
低く、よく通る声だった。
その声に、ほんの一瞬、菊は既視感を覚えた。
「はい。日国帝から参りました。赤玉菊と申します。ご依頼を受けて参りました」
「僕が、ノア・ル・サン=レミです。どうぞ、中へ」
青年──ノアは、静かに招き入れた。
その掌はひどく冷たく、菊は思った。
この男は、**すでに“半分、死んでいる”**のかもしれない、と。
◆
館内は驚くほど静かだった。
壁には絵画、天井には花の文様。けれど、それらはどこか“止まって”いた。
時間というものがこの屋敷の中だけ静止しているような、異様な感覚。
菊は、ノアに案内されながら、塔のある部屋へ向かった。
その途中、数冊の錬金術書が積まれた書斎を通り、床に描かれた複雑な円環模様に目を留める。
「これは……魂の術式?」
ノアは、かすかに目を伏せて言った。
「ええ。あれは僕が……彼を繋ぎとめるために書いた式です。
でも、それはもう必要ありません」
「なぜです?」
ノアは、鳥籠を見上げた。
「……彼が、もう声を出さなくなったからです」
菊はその言葉を、深く胸に刻んだ。
魂が沈黙するとは、消えかけているということだ。
あるいは、意思を閉ざしているということ。
「このままでは、彼は“忘れられる存在”になってしまう」
「……それを望んでいるのは、彼自身では?」
「そうだとしても――僕は、彼を“解放”したい。今度こそ、彼の意志で、自由に」
ノアの目が揺れる。
だがその中にあったのは、自分の罪を理解しながらも、それでもなお「愛した者のために何かをしたい」と願う、痛ましいほどの誠実さだった。
菊は静かに頷いた。
「ならば、私にすべてを話してください。あなたの過去を──その魔人との記憶を」
ノアは一瞬、目を閉じた。
そして、こう答えた。
「……始まりは、夜の廃墟でした。
病に倒れかけた僕の前に、光のように現れた存在があった。
それが、彼──エメとの出会いでした」
その瞬間、空気が変わった。
塔の窓の外から、霧がわずかに揺れ、鳥籠の光がふっと強くなった。
物語が、開かれようとしていた。