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9.訪れた屋敷

セーヌ川の支流。


そのほとりに寄り添うようにして広がる町、ポントワーズ。



空の色は灰色に染まり、地表には朝靄が薄く広がっていた。

赤玉 菊がこの地に足を踏み入れたのは、ちょうど日が昇りきらぬ時間だった。

駅舎を出ると、湿った冷気が彼女の頬を撫でる。目の前に立つ街灯の灯りさえ、霧に滲んでぼやけていた。



「まるで、世界が輪郭を失ったようね」



誰に言うでもなく、菊はつぶやく。

小さな革鞄を手に、町の中心部へと歩き出した。



ポントワーズは、古い街だ。


大陸戦争前は貴族たちの避暑地であり、領主家の館を中心に文化が栄えたと聞く。

だが今、その館──ル・サン=レミ家は、丘の上に孤立するように建っている。

現当主・ノアは町に姿を現さず、住民たちはその名をほとんど口にしなかった。


「亡霊が住む」と囁かれる屋敷。


「主は老いた」と噂する者もあれば、「若返った」と囁く者もいた。


そのどちらも真実から遠くないことを、菊はまだ知らなかった。





屋敷への道は、町外れの森へと続いていた。

古い石畳が苔に覆われ、地面は湿っていた。霧のせいか、景色はすべて遠ざかって見える。

風が止み、鳥の声すらない。


そして、現れた。


塔を抱くように建つ、洋館。

その最上階の尖塔からは、ひとつの鳥籠が吊るされていた。

外気に晒されながら、まるで時の流れから取り残されたように──そこに、在る。


「……あれが、“檻”か」


菊は足を止めた。

鳥籠の中で、微かな光が揺れている。生物とも、霊ともつかぬ、魂の残滓。

菊の内にある《しるす力》が、警鐘のように微かに反応する。



扉を叩くと、しばらくして音もなく開かれた。

中から現れたのは、長身の青年。

艶のある黒髪に、紫色の瞳。淡く笑うその顔立ちは、少年にも、大人にも見えた。


「……君が、赤玉 菊さんですね」


低く、よく通る声だった。

その声に、ほんの一瞬、菊は既視感を覚えた。


「はい。日国帝から参りました。赤玉菊と申します。ご依頼を受けて参りました」

「僕が、ノア・ル・サン=レミです。どうぞ、中へ」


青年──ノアは、静かに招き入れた。

その掌はひどく冷たく、菊は思った。

この男は、**すでに“半分、死んでいる”**のかもしれない、と。



館内は驚くほど静かだった。

壁には絵画、天井には花の文様。けれど、それらはどこか“止まって”いた。

時間というものがこの屋敷の中だけ静止しているような、異様な感覚。


菊は、ノアに案内されながら、塔のある部屋へ向かった。

その途中、数冊の錬金術書が積まれた書斎を通り、床に描かれた複雑な円環模様に目を留める。


「これは……魂の術式?」


ノアは、かすかに目を伏せて言った。


「ええ。あれは僕が……彼を繋ぎとめるために書いた式です。

でも、それはもう必要ありません」

「なぜです?」


ノアは、鳥籠を見上げた。


「……彼が、もう声を出さなくなったからです」


菊はその言葉を、深く胸に刻んだ。

魂が沈黙するとは、消えかけているということだ。

あるいは、意思を閉ざしているということ。


「このままでは、彼は“忘れられる存在”になってしまう」

「……それを望んでいるのは、彼自身では?」

「そうだとしても――僕は、彼を“解放”したい。今度こそ、彼の意志で、自由に」


ノアの目が揺れる。

だがその中にあったのは、自分の罪を理解しながらも、それでもなお「愛した者のために何かをしたい」と願う、痛ましいほどの誠実さだった。


菊は静かに頷いた。


「ならば、私にすべてを話してください。あなたの過去を──その魔人との記憶を」


ノアは一瞬、目を閉じた。

そして、こう答えた。


「……始まりは、夜の廃墟でした。

病に倒れかけた僕の前に、光のように現れた存在があった。

それが、彼──エメとの出会いでした」


その瞬間、空気が変わった。

塔の窓の外から、霧がわずかに揺れ、鳥籠の光がふっと強くなった。


物語が、開かれようとしていた。



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