8.手紙
日国帝、東都。
夜明け前の街は、白く、静かだった。
石畳の通りをひとり歩く影。薄氷のような空気を裂きながら、その足音だけが確かに響く。
少女の名は──赤玉 菊。
白い羽織の袖が風に揺れ、裾から覗く足と踵の音が、舗道に小さく弾かれる。
探偵。それが、彼女の肩書き。だが世間が噂するような、派手な活躍をする人物ではない。
むしろ、彼女の名が囁かれるとき、人々はふと顔を曇らせる。
なぜなら──
彼女が“解く”のは、生きている者たちの謎ではない。
すでに声を失った者たちの、最期の叫びなのだから。
彼女の右手には、銀色の鍵が握られていた。
真鍮の箱の封を解くためのものだ。
その箱の中には、白磁の封筒がひとつだけ入っていた。西洋式の封蝋には、複雑な紋章。
剣と花、そして鳥籠の意匠。
差出人の名は――ノア・ル・サン=レミ。
日国帝の中央情報庁地下、通称「白蓮室」で預かったものだった。
内容はこうだ。
「どうか、あなたの眼で、私の罪を見てほしい。
そして、私の愛が、赦されるに足るものであるかを──判断してほしい」
たったそれだけの手紙。
だが菊は、その筆跡に宿る何かに引っかかりを覚えていた。
理性の奥に沈んだ恐れと、意志の輪郭が重なる文字。
どこかで、自分の終わりを望みながらも、それを委ねようとする者の手跡。
「……罪と、愛、か」
菊は足を止め、空を仰いだ。
冬の曇天は、まだ夜を引きずっている。
微かに雪の気配さえある空気の中で、彼女は自らの心に問いかける。
罪を裁くのは法だ。
では、愛を赦すのは──誰なのか。
ふと、記憶がよぎる。
まだ幼かった依頼人。
「母を殺したのは、父じゃない」と言って泣いた少女に、彼女は何も言えなかった。
言葉が追いつかないほどの苦しみを、ただ隣で見ていただけだった。
あの日から、彼女は“死者の側に立つ”ことを選んだ。
無念を抱えたまま消えていった声を聞くために。
けれど、この手紙に綴られていたのは、生きた声だった。
赦しを乞う者の言葉。
そして──死よりも苦しい生を背負った、ひとつの魂の叫び。
「これは、謎ではない……」
菊は静かに目を閉じた。
風の音が止み、遠くで汽笛の音が鳴る。
列車の始発は、東へ向かう。
海を越え、霧の町へと。
「……行こう。“罪の中の愛”が、本当に在るのなら」
そのわずか二日後。
赤玉菊は、USD国・ポントワーズへ旅立った。
まだ何も知らなかった。
この旅が、ひとつの魂を解き放つまでの物語となることを。
そして、自らの胸にも、ひとつの“愛のしるし”を刻むことになることを──。