表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スズランが咲く季節に、君はもう遠く  作者: 鷹 いつか
第二章『呪われた花嫁』
7/39

7.幸せな笑顔

「──花嫁になりなさい」

夢の中でそう言われてから、菊の胸は妙にざわついていた。


朝。館はしんと静まり返っている。


「……妙だな」


起き抜けに呟いた菊の顔を、窓から差し込む光が照らしていた。

胸の奥に残る、スズランの匂い。

そして、あの女が残した最後の言葉──


「殺された者と、殺した者の顔をした少女。どちらが“本当の妹”か、もう誰にもわからない」


“誰にもわからない”

本当に、そうだろうか?


広信とダチェラも気配を察して後ろからついてくる。


──わたしが今、確かめたいのは一つだけ。


“本当に花嫁だったのは、誰だったのか”


当主家の花嫁部屋は二階の突き当たりにあった。

白いカーテン。銀の額縁。

壁には一枚、女性の肖像画がかけられている。


「……これ、妹のポリーヌの部屋、って言われてたけど……」

菊は壁の絵に目を凝らした。


描かれた女は、穏やかな表情をしていた。

けれど──その髪に差された髪飾りは、見覚えがあった。


「これ、**夢の中で見た“姉”の髪飾りと同じ」」


カルカンサイト。

あの有毒な鉱石でできた、美しい翡翠色の飾り。


「変じゃない? 花嫁になったのが“妹”だったなら、

なぜこの髪飾りをつけてるの?」


ダチェラが小さく唸った。「確かに、矛盾している」


「もう一つ変なところがあるの」

菊は部屋のクローゼットを開けた。


中には、きれいに整頓されたドレスや靴が並んでいた。


「ねえ、広信ちゃん。ポリーヌさんは華奢な人だった?」

「うん、姉のほうよりずっと細くて背も低かったって……あ」


そこにかかっていたドレスは、**明らかに“姉のサイズ”**だった。


「つまり──この部屋にいたのは、姉だったってこと?」

「でも……ポリーヌが花嫁になったはずじゃ……?」

「誰かが、**入れ替わっていたのよ。生きてるうちに。あるいは死んだあとに」

菊の声が静かに響いた。

「写真も服も、記録も、すべて“妹のため”に“姉の部屋”をすり替えた。

彼女が“ポリーヌとして”愛されるように。

あるいは、“ポリーヌが姉を演じた”ことを、完全に隠すために」


広信が、ぽつりと呟いた。


「つまり……花嫁だったのは“姉”。でも、“妹が姉になった”──ってこと?」


「もしくは逆。

“花嫁は妹だったけど、姉が身代わりになった”のかもしれない」


真相はまだ霧の中。


けれど今確かに言えるのは、部屋に残された痕跡が“妹の物”ではないということ。


「本当に愛されたのは誰だったのか」

「殺されたのは誰だったのか」

「誰が“花嫁としてふさわしかった”のか」


それを知っているのは、既に死んだ者たちだけ──


静かにスズランの香りが部屋に漂い、菊は思った。


この館そのものが、すでに一つの“デスマスク”なのではないか、と。


地下への階段は重たい鉄扉の奥にあった。

ルノー夫人が持っていた古い鍵の束。その中に、ひとつだけ歯が欠けた鍵があった。


「……もともと閉鎖されていたんだけどね」

そう呟いたルノー夫人の声が少し震えていた。


扉の奥からは冷たい空気が流れてくる。

濡れた石の匂い。湿った土。地下は、死者の沈黙を湛えていた。


「広信ちゃん、灯りお願い」


「あぁ」


松明の代わりに用意されたランプの明かりが壁を照らす。


そこは古い納骨堂のような構造になっていた。

石の棚。無数の壺。誰の名も記されていない。


「この先……!」


ダチェラが足を止めた。

そこだけ、床に妙な跡があった。

最近になって動かされたような──棺の跡。


「誰かが、ここを使ってた……?」


「おそらく、“死体”を一時的に保管してたんだわ」


菊の声が、低く響く。

彼女はその先にある、小さな部屋の扉に手をかけた。


ギィ……


扉を開くと、そこにあったのは──


ひとつの机。そして、その上に安置された“仮面”。


仮面は石膏でできていた。

けれど、それは明らかに──“人間の顔から型を取った”ものだった。


「……これは……!」


ダチェラがランプを当てると、その仮面の頬には泣きボクロの跡がうっすらと残っていた。

しかし──


「違う、これは……男じゃない。女の顔だ」


菊は震える声で呟いた。


「……髪の筋が……女性の髪飾りの跡がある。

これ、“姉のデスマスク”だよ」


「じゃあ、やっぱり──姉は殺された……」


広信の声に、菊は頷いた。


「ううん、それだけじゃない」

彼女は机の引き出しに手をかけ、そっと開いた。


中には、ひとつの写真と、日記の切れ端。

そして、小さな銀の缶。


カルカンサイトの缶。


中身は、すでに干からびた灰のようになっていた。


「これが……呪いの源?」


「表向きには、“この水を飲んだ者が死ぬ”って言われてるけど……」


菊は震える手で缶を持ち上げた。


「実際は、“これは花嫁に選ばれた証”だったのかもしれない。

当主が、愛する者にだけ贈る、毒にもなる飾りの素。

でも、それを知った姉が、妹を庇うために奪った……」


「じゃあ、姉を殺したのは?」


ダチェラが問う。


「彼女を殺したのは──愛したふりをした男。

フランソワ。当主候補だった彼は、妹の純粋さを利用して、

姉を“すり替えた”。

花嫁を装った姉を殺し、“妹”と結婚した」


「でも、妹はそれを知ってたんだよね……?」


「知ってた。だから……呪った。

彼が死ぬまで、傍にいて、彼を愛し抜くことで、

“姉の顔を見せることなく”、罪を焼き付けた」


「……“仮面の愛”だったのか」


菊はデスマスクを見つめる。

その唇は、微かに笑っていたように見えた。


「これはただの呪いじゃない。

愛されたふりをして、愛した人を裁いた、もうひとつの復讐だったのよ」


重たい沈黙のなかで、館が軋む音がした。

地下の奥、亡霊のように──

誰かの声が、聞こえた気がした。


「ありがとう、気づいてくれて──」


スズランの香りが、ふわりと鼻先をかすめた。



館の大広間。

正面の暖炉には火が灯り、だがその温かさとは裏腹に、空気は重く凍っていた。

集められたのは、次期当主ポール、館の使用人たち


「では──始めます」


ゆっくりと、菊が立ち上がる。

その瞳は、宇宙のように深く、研ぎ澄まされていた。


「事件の始まりは、ある“双子”の誕生でした。

姉と妹。どちらも美しく聡明でしたが、“妹”だけが愛された」


「しかし──愛されたからこそ、妹はある“男”が近づき、

“缶”を渡されました。カルカンサイトの粉末が入った、小さな銀の缶。

妹はそれを、無邪気に“姉”に見せた」


「けれど“姉”は、それが毒であること、

もしくは“花嫁に贈られる死の証”であることを知っていた。

姉はそれを奪って走り去り、自分が身代わりになったのです」


「つまり──花嫁になったのは“妹”ではなく、姉。

けれど、彼女は“妹”の名を名乗り、結婚した」


ざわめきが走る。


「姉は殺されました。

─フランソワは、愛していなかったのです。

彼が欲しかったのは“従順で純粋な妹”、それなのに花嫁となったのは姉の方だった。そのために“花嫁となった姉”を殺し、

──そして彼女の“デスマスク”を作った」


ダチェラが、机の上の石膏の仮面を見つめていた。


「彼は生涯、その仮面を手放さなかった。

罪の記憶を閉じ込めるように。

一方、生き残った“妹”は、姉の死を知り、愛した男が姉を殺したと知り──

黙っていた」

「なぜか?」


菊は静かに言う。


「それが彼女なりの“復讐”だったからです。

彼を呪い、彼と生き、愛し合ってみせることで、

“姉が奪われた痛み”を一生彼に刻みつけた」

「彼女は愛される顔で、呪ったんです。

──“花嫁の仮面”を被ったまま、一生を終えるまで」


誰も言葉を発せなかった。


「そしてこの館も、またひとつの仮面だった」

菊は視線をポールに向けた。

「記録、写真、部屋。すべてが、“妹の存在”を守るために作り替えられていた。

だけど、服のサイズ、髪飾り、花嫁の部屋に残った痕跡は、

その仮面の“裏”を教えてくれました」

「呪いは、本当にあったのかもしれません」

菊の声が静かに響く。

「殺された姉の呪い。

あるいは、“愛を信じてしまった妹の、悔恨の呪い”。

でも──それは誰にも否定できない、

**“愛されなかった者の、唯一の証明”**だったんです」


一輪のスズランが、風に揺れた。


「事件は解決しました。

でも、傷は消えません。

ここに眠る者たちの“沈黙”こそが、真実だったのです」


沈黙。


──長く、深く、静かな沈黙。


その後、ポールはゆっくりと立ち上がった。


「……ありがとう。赤玉 菊さん」

その声は、どこか震えていた。

「私たちは……この館の真実に向き合います。

フランソワの愛も罪も、すべて受け止める覚悟があります」


菊は頷いた。


青い瞳が、まっすぐに夜の闇を見据えていた。



アヌシー湖の春は、想像よりも穏やかだった。

凍てつく湖面は解け、すべてを覆っていた白霧は晴れ、

水面には新しい季節の色が映っていた。


菊は、小道の石畳を一歩一歩ゆっくりと踏みしめた。

その手には、小さな花束。

白い、スズランの花。


丘の上にある墓地には、二つ並んだ墓碑があった。

どちらも名は刻まれていない。

まるで、どちらが“姉”で、どちらが“妹”なのか──

もう、誰にもわからないように。


「……きっと、本人たちにしか分からなかったんだね」


菊はそっと、スズランを置いた。

冷たい石に触れたとき、微かに風が吹いた。

それは、声にならない囁きのようで──

まるで“ありがとう”と聞こえた気がした。


「“愛されたふり”をして、“愛していた”……

それが、彼女の復讐だった。

でも、たぶんね──

それだけじゃなかった。

あの人は、“姉の魂”を一人にしないために、

ずっと傍にいたんだと思う」


足音が背後から近づく。


「……話し終えた?」


ダチェラが立っていた。

黄色がかった黒髪が春の光を浴びて揺れている。

紫の瞳が、菊の手元にあるスズランを見つめた。


「スズランってさ……

花言葉、知ってる?」


「……『再び幸せが訪れる』、でしょ?」


「それもあるけど、国によっては──

“あなたの帰りを待っています”、とも言うんだってさ」


「……なに、それ」

菊は少し笑った。


「じゃあ、私に咲いてた“スズランの記憶”って、

そういうことだったのかな。

──ずっと、誰かが待っててくれた記憶」


ダチェラは何も言わなかった。

ただ、そっとその手を伸ばして、菊の髪をひと房、指に巻いた。


「記憶がなくても、君は君だった。

ずっと、見ていた。」


風が吹いた。


湖の向こうに、ひとつの白い蝶が飛んでいく。

その羽ばたきは、春の空に静かに溶けていった。


──さようなら。

──さようなら、仮面の花嫁たち。

そして、またね。


菊は微笑み、目を閉じた。

心の中で、確かに誰かが笑っている気がした。


静かに、スズランが揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ