7.幸せな笑顔
「──花嫁になりなさい」
夢の中でそう言われてから、菊の胸は妙にざわついていた。
朝。館はしんと静まり返っている。
「……妙だな」
起き抜けに呟いた菊の顔を、窓から差し込む光が照らしていた。
胸の奥に残る、スズランの匂い。
そして、あの女が残した最後の言葉──
「殺された者と、殺した者の顔をした少女。どちらが“本当の妹”か、もう誰にもわからない」
“誰にもわからない”
本当に、そうだろうか?
広信とダチェラも気配を察して後ろからついてくる。
──わたしが今、確かめたいのは一つだけ。
“本当に花嫁だったのは、誰だったのか”
当主家の花嫁部屋は二階の突き当たりにあった。
白いカーテン。銀の額縁。
壁には一枚、女性の肖像画がかけられている。
「……これ、妹のポリーヌの部屋、って言われてたけど……」
菊は壁の絵に目を凝らした。
描かれた女は、穏やかな表情をしていた。
けれど──その髪に差された髪飾りは、見覚えがあった。
「これ、**夢の中で見た“姉”の髪飾りと同じ」」
カルカンサイト。
あの有毒な鉱石でできた、美しい翡翠色の飾り。
「変じゃない? 花嫁になったのが“妹”だったなら、
なぜこの髪飾りをつけてるの?」
ダチェラが小さく唸った。「確かに、矛盾している」
「もう一つ変なところがあるの」
菊は部屋のクローゼットを開けた。
中には、きれいに整頓されたドレスや靴が並んでいた。
「ねえ、広信ちゃん。ポリーヌさんは華奢な人だった?」
「うん、姉のほうよりずっと細くて背も低かったって……あ」
そこにかかっていたドレスは、**明らかに“姉のサイズ”**だった。
「つまり──この部屋にいたのは、姉だったってこと?」
「でも……ポリーヌが花嫁になったはずじゃ……?」
「誰かが、**入れ替わっていたのよ。生きてるうちに。あるいは死んだあとに」
菊の声が静かに響いた。
「写真も服も、記録も、すべて“妹のため”に“姉の部屋”をすり替えた。
彼女が“ポリーヌとして”愛されるように。
あるいは、“ポリーヌが姉を演じた”ことを、完全に隠すために」
広信が、ぽつりと呟いた。
「つまり……花嫁だったのは“姉”。でも、“妹が姉になった”──ってこと?」
「もしくは逆。
“花嫁は妹だったけど、姉が身代わりになった”のかもしれない」
真相はまだ霧の中。
けれど今確かに言えるのは、部屋に残された痕跡が“妹の物”ではないということ。
「本当に愛されたのは誰だったのか」
「殺されたのは誰だったのか」
「誰が“花嫁としてふさわしかった”のか」
それを知っているのは、既に死んだ者たちだけ──
静かにスズランの香りが部屋に漂い、菊は思った。
この館そのものが、すでに一つの“デスマスク”なのではないか、と。
地下への階段は重たい鉄扉の奥にあった。
ルノー夫人が持っていた古い鍵の束。その中に、ひとつだけ歯が欠けた鍵があった。
「……もともと閉鎖されていたんだけどね」
そう呟いたルノー夫人の声が少し震えていた。
扉の奥からは冷たい空気が流れてくる。
濡れた石の匂い。湿った土。地下は、死者の沈黙を湛えていた。
「広信ちゃん、灯りお願い」
「あぁ」
松明の代わりに用意されたランプの明かりが壁を照らす。
そこは古い納骨堂のような構造になっていた。
石の棚。無数の壺。誰の名も記されていない。
「この先……!」
ダチェラが足を止めた。
そこだけ、床に妙な跡があった。
最近になって動かされたような──棺の跡。
「誰かが、ここを使ってた……?」
「おそらく、“死体”を一時的に保管してたんだわ」
菊の声が、低く響く。
彼女はその先にある、小さな部屋の扉に手をかけた。
ギィ……
扉を開くと、そこにあったのは──
ひとつの机。そして、その上に安置された“仮面”。
仮面は石膏でできていた。
けれど、それは明らかに──“人間の顔から型を取った”ものだった。
「……これは……!」
ダチェラがランプを当てると、その仮面の頬には泣きボクロの跡がうっすらと残っていた。
しかし──
「違う、これは……男じゃない。女の顔だ」
菊は震える声で呟いた。
「……髪の筋が……女性の髪飾りの跡がある。
これ、“姉のデスマスク”だよ」
「じゃあ、やっぱり──姉は殺された……」
広信の声に、菊は頷いた。
「ううん、それだけじゃない」
彼女は机の引き出しに手をかけ、そっと開いた。
中には、ひとつの写真と、日記の切れ端。
そして、小さな銀の缶。
カルカンサイトの缶。
中身は、すでに干からびた灰のようになっていた。
「これが……呪いの源?」
「表向きには、“この水を飲んだ者が死ぬ”って言われてるけど……」
菊は震える手で缶を持ち上げた。
「実際は、“これは花嫁に選ばれた証”だったのかもしれない。
当主が、愛する者にだけ贈る、毒にもなる飾りの素。
でも、それを知った姉が、妹を庇うために奪った……」
「じゃあ、姉を殺したのは?」
ダチェラが問う。
「彼女を殺したのは──愛したふりをした男。
フランソワ。当主候補だった彼は、妹の純粋さを利用して、
姉を“すり替えた”。
花嫁を装った姉を殺し、“妹”と結婚した」
「でも、妹はそれを知ってたんだよね……?」
「知ってた。だから……呪った。
彼が死ぬまで、傍にいて、彼を愛し抜くことで、
“姉の顔を見せることなく”、罪を焼き付けた」
「……“仮面の愛”だったのか」
菊はデスマスクを見つめる。
その唇は、微かに笑っていたように見えた。
「これはただの呪いじゃない。
愛されたふりをして、愛した人を裁いた、もうひとつの復讐だったのよ」
重たい沈黙のなかで、館が軋む音がした。
地下の奥、亡霊のように──
誰かの声が、聞こえた気がした。
「ありがとう、気づいてくれて──」
スズランの香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
◆
館の大広間。
正面の暖炉には火が灯り、だがその温かさとは裏腹に、空気は重く凍っていた。
集められたのは、次期当主ポール、館の使用人たち
「では──始めます」
ゆっくりと、菊が立ち上がる。
その瞳は、宇宙のように深く、研ぎ澄まされていた。
「事件の始まりは、ある“双子”の誕生でした。
姉と妹。どちらも美しく聡明でしたが、“妹”だけが愛された」
「しかし──愛されたからこそ、妹はある“男”が近づき、
“缶”を渡されました。カルカンサイトの粉末が入った、小さな銀の缶。
妹はそれを、無邪気に“姉”に見せた」
「けれど“姉”は、それが毒であること、
もしくは“花嫁に贈られる死の証”であることを知っていた。
姉はそれを奪って走り去り、自分が身代わりになったのです」
「つまり──花嫁になったのは“妹”ではなく、姉。
けれど、彼女は“妹”の名を名乗り、結婚した」
ざわめきが走る。
「姉は殺されました。
─フランソワは、愛していなかったのです。
彼が欲しかったのは“従順で純粋な妹”、それなのに花嫁となったのは姉の方だった。そのために“花嫁となった姉”を殺し、
──そして彼女の“デスマスク”を作った」
ダチェラが、机の上の石膏の仮面を見つめていた。
「彼は生涯、その仮面を手放さなかった。
罪の記憶を閉じ込めるように。
一方、生き残った“妹”は、姉の死を知り、愛した男が姉を殺したと知り──
黙っていた」
「なぜか?」
菊は静かに言う。
「それが彼女なりの“復讐”だったからです。
彼を呪い、彼と生き、愛し合ってみせることで、
“姉が奪われた痛み”を一生彼に刻みつけた」
「彼女は愛される顔で、呪ったんです。
──“花嫁の仮面”を被ったまま、一生を終えるまで」
誰も言葉を発せなかった。
「そしてこの館も、またひとつの仮面だった」
菊は視線をポールに向けた。
「記録、写真、部屋。すべてが、“妹の存在”を守るために作り替えられていた。
だけど、服のサイズ、髪飾り、花嫁の部屋に残った痕跡は、
その仮面の“裏”を教えてくれました」
「呪いは、本当にあったのかもしれません」
菊の声が静かに響く。
「殺された姉の呪い。
あるいは、“愛を信じてしまった妹の、悔恨の呪い”。
でも──それは誰にも否定できない、
**“愛されなかった者の、唯一の証明”**だったんです」
一輪のスズランが、風に揺れた。
「事件は解決しました。
でも、傷は消えません。
ここに眠る者たちの“沈黙”こそが、真実だったのです」
沈黙。
──長く、深く、静かな沈黙。
その後、ポールはゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう。赤玉 菊さん」
その声は、どこか震えていた。
「私たちは……この館の真実に向き合います。
フランソワの愛も罪も、すべて受け止める覚悟があります」
菊は頷いた。
青い瞳が、まっすぐに夜の闇を見据えていた。
◆
アヌシー湖の春は、想像よりも穏やかだった。
凍てつく湖面は解け、すべてを覆っていた白霧は晴れ、
水面には新しい季節の色が映っていた。
菊は、小道の石畳を一歩一歩ゆっくりと踏みしめた。
その手には、小さな花束。
白い、スズランの花。
丘の上にある墓地には、二つ並んだ墓碑があった。
どちらも名は刻まれていない。
まるで、どちらが“姉”で、どちらが“妹”なのか──
もう、誰にもわからないように。
「……きっと、本人たちにしか分からなかったんだね」
菊はそっと、スズランを置いた。
冷たい石に触れたとき、微かに風が吹いた。
それは、声にならない囁きのようで──
まるで“ありがとう”と聞こえた気がした。
「“愛されたふり”をして、“愛していた”……
それが、彼女の復讐だった。
でも、たぶんね──
それだけじゃなかった。
あの人は、“姉の魂”を一人にしないために、
ずっと傍にいたんだと思う」
足音が背後から近づく。
「……話し終えた?」
ダチェラが立っていた。
黄色がかった黒髪が春の光を浴びて揺れている。
紫の瞳が、菊の手元にあるスズランを見つめた。
「スズランってさ……
花言葉、知ってる?」
「……『再び幸せが訪れる』、でしょ?」
「それもあるけど、国によっては──
“あなたの帰りを待っています”、とも言うんだってさ」
「……なに、それ」
菊は少し笑った。
「じゃあ、私に咲いてた“スズランの記憶”って、
そういうことだったのかな。
──ずっと、誰かが待っててくれた記憶」
ダチェラは何も言わなかった。
ただ、そっとその手を伸ばして、菊の髪をひと房、指に巻いた。
「記憶がなくても、君は君だった。
ずっと、見ていた。」
風が吹いた。
湖の向こうに、ひとつの白い蝶が飛んでいく。
その羽ばたきは、春の空に静かに溶けていった。
──さようなら。
──さようなら、仮面の花嫁たち。
そして、またね。
菊は微笑み、目を閉じた。
心の中で、確かに誰かが笑っている気がした。
静かに、スズランが揺れていた。