6.姉妹
深夜、アヌシー湖の当主館。
月の光が湖面に揺れ、館の影を黒く染めていた。
「ここよ。厨房の裏階段。昔は保存食を置く倉庫だったの」
ルノー夫人の囁きに導かれ、菊、広信、そしてダチェラの三人は古びた扉の前に立っていた。
鍵はすでに開けられていた。油の匂いと、湿った石の臭いが漂う。
「……なんだか、イヤな空気だな」
広信が肩をすくめる。
ダチェラは無言で懐中電灯を点けた。
──紫の瞳が、闇を警戒するように細められる。
ギイ……
階段を降りると、地下室はひんやりとした静けさに包まれていた。
天井には古い鉄のパイプが走り、壁には湿気で黒ずんだ紙のラベルが貼られた棚が並んでいる。
「まるで時間が止まってるみたい……」
「ここは、誰も入ってはいけないとされてきた場所です。ですが……フランソワ様だけが、時折この部屋に来られていました」
ルノー夫人は、片隅の古びた木箱を指差した。
「開けてごらんなさい」
菊がそっと木箱の蓋を開ける。
中には、古いノート、鍵のついた銀の缶、そして少女用の髪留めが二つ、布に包まれていた。
「これは……」
菊がノートを手に取り、表紙をなぞる。
擦れて読みにくいが、端に細い文字で書かれていた。
「F. M. 私だけの言葉帳」
「F・M……姉のものですね」
ルノー夫人がつぶやく。
「見て、このページ──」
菊が開いたページには、こう綴られていた。
「あの子は私を『姉』と呼ぶ。でも誰もそのことを信じない。
“二人いる”ことを、皆、見ようとしない。
ポリーヌは、どんどん私と話さなくなっていく。
まるで私が、最初から存在しないかのように」
「……消されてたんじゃない。最初から、存在を“認めてもらえなかった”んだ……」
菊が震える声でつぶやいたそのとき──
カラン……!
誰かが何かを落とした音が、暗闇の奥から聞こえた。
全員が息を呑む。
「……誰かいる」
ダチェラが即座に前へ出て、懐中電灯を奥へ向ける。
だが、光の先に見えたのは、ただの白いカーテンのような布だけだった。
けれど──その布が、ほんの一瞬、誰かの顔のように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「……ここ、もっと調べたほうがいい。
この館全体が、“姉”の存在を閉じ込めた牢獄みたいだ」
菊の胸に、一つの予感が灯った。
──これはただの“過去の呪い”じゃない。
何かが、今もここで生きている。
菊は、埃を被ったノートのページをめくりながら、ぴたりと手を止めた。
「……これ」
広信とダチェラがそばに寄る。
そこに記されていたのは、流れるような細い筆記体の文字だった。
6月13日
ポリーヌが嬉しそうに缶を持ってきた。
彼が渡してくれたのだという。銀色の小さな缶。宝石箱みたいだった。
でも──
缶を見た瞬間、私は直感した。
これは贈り物ではない。
これは選別。
彼が誰を「花嫁」にするか、彼が誰に「見せたかった」のか。
中身が何であれ、それを渡されたのはポリーヌだった。
私は缶を奪って、走った。
怒っていたわけじゃない。
怖かったの。
私は……生きていたい。
私はこの館の「次の花嫁」になんて、なりたくなかった。
「……彼って、ポールのこと?」
「いや。これ、時期が合わない。
たぶん──ポールの前の当主、“姉の婚約者”だ」
ダチェラが静かに言った。
「この日記のトーン……“死にたくない”って何度も書かれてる」
菊は唇を噛んだ。
「当主の花嫁になった女は、みんな死んでる。
中身が何であれ、“缶を贈る”って行為が“選ぶ”って意味を持ってた」
「この缶……銀製だよな。で、中は密閉構造。
……毒物を仕込むにはちょうどいい」
ダチェラの言葉に、広信が頷いた。
「しかも、当主家の毒殺記録は正式には“存在しない”ことになってる。
“呪い”って言葉で隠されてきたんだ」
「じゃあこの缶が──“花嫁殺し”の道具だったってこと?」
「いや、それだけじゃない」
菊はページをさらにめくった。
6月14日
中身を見た。
それは小さな髪飾りだった──淡い青、でもどこか虹のような光を帯びていて。
まるで水晶を溶かしたみたいな、不思議な美しさ。
けれど、それに触れた指が、少し焼けるように熱かった。
カルカンサイト。
私は、名前を知っていた。
昔、書庫で見た鉱石──
「皮膚を通して内臓を侵す」と記されていた。
彼は、ポリーヌを殺そうとしていた。
あるいは──その“運命”を渡しただけ。
でも、なぜ?
なぜポリーヌに?
なぜ私じゃないの?
「……“カルカンサイト”。」
菊がその名を口にすると、ダチェラの顔が少しだけ動いた。
「聞いたことあるの?」
「……日国帝軍の研究施設でも名前は出てた。
戦時中、“皮膚浸透性神経毒”として分類されていたはずだ。
非常に微量で致死性を持つ。水に溶かすと……毒素は消えず、透明になる」
「……」
広信が、ぽつりと呟く。
「じゃあやっぱり、“呪い”じゃなかったんだ」
「いや……違う」
菊はそっとノートの最後の行に目を落とした。
でも私は、それでも思う。
これは毒なんかじゃない。
これは、彼の“真心”だったんじゃないかと──
「……“愛されてなかった姉”が、“愛を信じた”瞬間が、
彼女を殺したんだよ」
沈黙が、地下を満たした。
冷たい空気の中で、誰もが胸の奥に小さな傷を感じていた。
引き出しを開けるとそこにはなにか書かれている紙が眠っていた。
湖の夜は深く、凍るように静かだった。
満月がアヌシーの水面に揺れていた。
誰もいない小礼拝堂。そこにただひとり、妹・ポリーヌは跪いていた。
蝋燭の灯が、揺れる。
十字架の影が、壁を這っている。
その膝元には、銀の缶が、ぽつりと置かれていた。
「……わたしは、姉のことを、ひとりの人間として愛していました。
鏡のような人だった。わたしのことを笑って、わたしと同じ顔で泣いた」
「でも、あの人は……笑って、死んでいたんです」
ポリーヌの声は震えていた。
「銀の缶の中に入っていたのは、宝物だと思っていた。
でもあれは違った。
あれは……毒でした」
「それを、あの人は見抜いて、わたしの代わりに死んだ」
彼女は手を胸にあてると、深く息を吸い込んだ。
「神様。
もし、あなたが本当にいるのなら──」
ポリーヌは、両手を強く握り締める。
その白い手は、血が滲むほどだった。
「わたしはもう、愛を信じません。
わたしは、祈りません。
わたしは……呪います」
「わたしの姉を殺した男が、どんな幸福を手に入れようと、
どれほど家を継ごうと、
どれほど敬われようと──」
「一秒たりとも安らかであれと願いません。」
蝋燭が、吹き消されたかのようにふっと揺れた。
「死ぬまで、
彼の影にわたしの姉が付きまとうように。
夢に、耳元に、呼吸の中に。
彼がどこで死のうと、
その遺体が、姉の“マネキン”と見間違えられるように」
「彼が、わたしの手を取り、結婚を申し込んだ夜──
わたしは微笑みました。
姉のふりをして、笑いました。
……あの人が好きだった姉のように」
ポリーヌは、銀の缶をそっと手に取った。
「これが、呪いじゃなかったのなら──
わたしが、呪いに変えてあげる」
彼女の声は、もはや祈りではなかった。
それはただ、**姉を喪った少女が言葉にした、“静かな復讐の詩”**だった。
一旦帰って眠ることにした私達は各々部屋に入り眠った。
──白。
視界のすべてが白く染まっていた。
霧の中にいるような静けさ。
鳥の声も、風の音もない。
菊はそこにひとり、立っていた。
裸足だった。地面の感触も温度もない。何もかもが“仮の世界”。
そんな中に、ただ一人──女が立っていた。
白いワンピース。
ふわりとした長い髪。
その目は、涙を湛えたように澄んでいて。
「……あなたは」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。
その顔は、どこか──懐かしい気がした。
「あなたが、“菊”ね」
彼女は微笑んだ。どこか切なげに。
「わたしは、“誰か”の中に、ずっと閉じ込められていたの。
だから、ありがとう。呼んでくれて」
「……あなたは、もしかして……“姉”?」
問いかけに、女は首を横に振った。だが、完全には否定しなかった。
「いいえ。でも、わたしは“誰かの姉”だったわ。
そして、“誰かの代わり”に死んだ」
「……カルカンサイトの……缶……?」
菊がそう言うと、女は一瞬だけ悲しそうに目を伏せた。
「そう。わたしはあれを“彼の真心”だと、最後まで思ってた。
でも──それは、“死”だったの」
「それを奪ったのは、あなただった?」
「ええ。でも、それは“奪った”んじゃない。
“代わった”の。わたしが妹の代わりに、死ぬことにしたの」
「……それで、呪った?」
問いかけに、女は、ふっと微笑んだ。今度は少し──怖いほどに冷ややかに。
「“呪った”のは、わたしじゃないのよ。
わたしは、死んでいくとき、妹の名前を呼んだだけ。
でもね──その声を聞いた“あの子”が、変わったの」
「……妹が?」
「ええ。わたしよりも強く、優しかった子が──
ある晩、彼に言ったのよ。“あなたのために笑うわ”って」
「……姉のふりをして?」
「ううん。“死んだ姉のふり”をして、彼を騙したの。
でも、その“ふり”がずっと続くうちに、彼女の中で──
本当に“わたし”になってしまった」
「……!」
「だからこの館には、“ふたりの女の記憶”が眠っている。
殺された者と、殺した者の顔をした少女。
どちらが“本当の妹”か、もう誰にもわからない」
「それを、教えてほしいの?」
そう言って、女が一歩近づく。
その声が、湖の底から響くように低くなった。
「なら、あなたが、“妹の罪”を背負いなさい」
「わたしが……?」
「あなたはもう、この館の“記憶”と繋がった。
過去を暴くということは、
その罪を、今ここに生かすということ」
「答えを知りたいのなら──“花嫁”になりなさい」
その瞬間、女の姿が、
スズランの香りと共に、ふっと霧のように消えた。
そして足元から水が染み出すように、
菊は、アヌシー湖の水底に沈んでいった。
冷たさが、喉元に迫る。
「──ッは」
菊は、息をのんで目を覚ました。
心臓が、ドクドクと脈打っていた。
夢の中の言葉が、まだ耳に残っていた。
「妹の罪を背負いなさい」
彼女の胸の奥に、かすかに水の匂いが残っていた。