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スズランが咲く季節に、君はもう遠く  作者: 鷹 いつか
第二章『呪われた花嫁』
6/39

6.姉妹

深夜、アヌシー湖の当主館。

月の光が湖面に揺れ、館の影を黒く染めていた。


「ここよ。厨房の裏階段。昔は保存食を置く倉庫だったの」


ルノー夫人の囁きに導かれ、菊、広信、そしてダチェラの三人は古びた扉の前に立っていた。


鍵はすでに開けられていた。油の匂いと、湿った石の臭いが漂う。


「……なんだか、イヤな空気だな」

広信が肩をすくめる。


ダチェラは無言で懐中電灯を点けた。

──紫の瞳が、闇を警戒するように細められる。


ギイ……


階段を降りると、地下室はひんやりとした静けさに包まれていた。

天井には古い鉄のパイプが走り、壁には湿気で黒ずんだ紙のラベルが貼られた棚が並んでいる。


「まるで時間が止まってるみたい……」


「ここは、誰も入ってはいけないとされてきた場所です。ですが……フランソワ様だけが、時折この部屋に来られていました」


ルノー夫人は、片隅の古びた木箱を指差した。


「開けてごらんなさい」


菊がそっと木箱の蓋を開ける。


中には、古いノート、鍵のついた銀の缶、そして少女用の髪留めが二つ、布に包まれていた。


「これは……」


菊がノートを手に取り、表紙をなぞる。

擦れて読みにくいが、端に細い文字で書かれていた。


「F. M. 私だけの言葉帳」


「F・M……姉のものですね」


ルノー夫人がつぶやく。


「見て、このページ──」


菊が開いたページには、こう綴られていた。





「あの子は私を『姉』と呼ぶ。でも誰もそのことを信じない。

“二人いる”ことを、皆、見ようとしない。

ポリーヌは、どんどん私と話さなくなっていく。

まるで私が、最初から存在しないかのように」





「……消されてたんじゃない。最初から、存在を“認めてもらえなかった”んだ……」


菊が震える声でつぶやいたそのとき──


カラン……!


誰かが何かを落とした音が、暗闇の奥から聞こえた。


全員が息を呑む。


「……誰かいる」

ダチェラが即座に前へ出て、懐中電灯を奥へ向ける。


だが、光の先に見えたのは、ただの白いカーテンのような布だけだった。

けれど──その布が、ほんの一瞬、誰かの顔のように見えたのは、気のせいだったのだろうか。


「……ここ、もっと調べたほうがいい。

この館全体が、“姉”の存在を閉じ込めた牢獄みたいだ」


菊の胸に、一つの予感が灯った。


──これはただの“過去の呪い”じゃない。

何かが、今もここで生きている。

菊は、埃を被ったノートのページをめくりながら、ぴたりと手を止めた。


「……これ」


広信とダチェラがそばに寄る。

そこに記されていたのは、流れるような細い筆記体の文字だった。





6月13日


ポリーヌが嬉しそうに缶を持ってきた。

彼が渡してくれたのだという。銀色の小さな缶。宝石箱みたいだった。


でも──

缶を見た瞬間、私は直感した。


これは贈り物ではない。

これは選別。


彼が誰を「花嫁」にするか、彼が誰に「見せたかった」のか。

中身が何であれ、それを渡されたのはポリーヌだった。


私は缶を奪って、走った。

怒っていたわけじゃない。


怖かったの。


私は……生きていたい。

私はこの館の「次の花嫁」になんて、なりたくなかった。





「……彼って、ポールのこと?」

「いや。これ、時期が合わない。

たぶん──ポールの前の当主、“姉の婚約者”だ」


ダチェラが静かに言った。


「この日記のトーン……“死にたくない”って何度も書かれてる」

菊は唇を噛んだ。

「当主の花嫁になった女は、みんな死んでる。

中身が何であれ、“缶を贈る”って行為が“選ぶ”って意味を持ってた」

「この缶……銀製だよな。で、中は密閉構造。

……毒物を仕込むにはちょうどいい」


ダチェラの言葉に、広信が頷いた。


「しかも、当主家の毒殺記録は正式には“存在しない”ことになってる。

“呪い”って言葉で隠されてきたんだ」

「じゃあこの缶が──“花嫁殺し”の道具だったってこと?」

「いや、それだけじゃない」

菊はページをさらにめくった。





6月14日


中身を見た。

それは小さな髪飾りだった──淡い青、でもどこか虹のような光を帯びていて。


まるで水晶を溶かしたみたいな、不思議な美しさ。


けれど、それに触れた指が、少し焼けるように熱かった。


カルカンサイト。


私は、名前を知っていた。

昔、書庫で見た鉱石──

「皮膚を通して内臓を侵す」と記されていた。


彼は、ポリーヌを殺そうとしていた。

あるいは──その“運命”を渡しただけ。


でも、なぜ?

なぜポリーヌに?


なぜ私じゃないの?





「……“カルカンサイト”。」


菊がその名を口にすると、ダチェラの顔が少しだけ動いた。


「聞いたことあるの?」

「……日国帝軍の研究施設でも名前は出てた。

戦時中、“皮膚浸透性神経毒”として分類されていたはずだ。

非常に微量で致死性を持つ。水に溶かすと……毒素は消えず、透明になる」

「……」


広信が、ぽつりと呟く。


「じゃあやっぱり、“呪い”じゃなかったんだ」

「いや……違う」

菊はそっとノートの最後の行に目を落とした。





でも私は、それでも思う。

これは毒なんかじゃない。

これは、彼の“真心”だったんじゃないかと──





「……“愛されてなかった姉”が、“愛を信じた”瞬間が、

彼女を殺したんだよ」


沈黙が、地下を満たした。

冷たい空気の中で、誰もが胸の奥に小さな傷を感じていた。

引き出しを開けるとそこにはなにか書かれている紙が眠っていた。




湖の夜は深く、凍るように静かだった。

満月がアヌシーの水面に揺れていた。


誰もいない小礼拝堂。そこにただひとり、妹・ポリーヌは跪いていた。


蝋燭の灯が、揺れる。

十字架の影が、壁を這っている。


その膝元には、銀の缶が、ぽつりと置かれていた。


「……わたしは、姉のことを、ひとりの人間として愛していました。

鏡のような人だった。わたしのことを笑って、わたしと同じ顔で泣いた」


「でも、あの人は……笑って、死んでいたんです」

ポリーヌの声は震えていた。


「銀の缶の中に入っていたのは、宝物だと思っていた。

でもあれは違った。

あれは……毒でした」


「それを、あの人は見抜いて、わたしの代わりに死んだ」


彼女は手を胸にあてると、深く息を吸い込んだ。


「神様。

もし、あなたが本当にいるのなら──」


ポリーヌは、両手を強く握り締める。

その白い手は、血が滲むほどだった。


「わたしはもう、愛を信じません。

わたしは、祈りません。

わたしは……呪います」


「わたしの姉を殺した男が、どんな幸福を手に入れようと、

どれほど家を継ごうと、

どれほど敬われようと──」


「一秒たりとも安らかであれと願いません。」


蝋燭が、吹き消されたかのようにふっと揺れた。


「死ぬまで、

彼の影にわたしの姉が付きまとうように。

夢に、耳元に、呼吸の中に。

彼がどこで死のうと、

その遺体が、姉の“マネキン”と見間違えられるように」


「彼が、わたしの手を取り、結婚を申し込んだ夜──

わたしは微笑みました。

姉のふりをして、笑いました。

……あの人が好きだった姉のように」


ポリーヌは、銀の缶をそっと手に取った。


「これが、呪いじゃなかったのなら──

わたしが、呪いに変えてあげる」


彼女の声は、もはや祈りではなかった。


それはただ、**姉を喪った少女が言葉にした、“静かな復讐の詩”**だった。


一旦帰って眠ることにした私達は各々部屋に入り眠った。






──白。


視界のすべてが白く染まっていた。

霧の中にいるような静けさ。

鳥の声も、風の音もない。


菊はそこにひとり、立っていた。

裸足だった。地面の感触も温度もない。何もかもが“仮の世界”。


そんな中に、ただ一人──女が立っていた。


白いワンピース。

ふわりとした長い髪。

その目は、涙を湛えたように澄んでいて。


「……あなたは」


声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。

その顔は、どこか──懐かしい気がした。


「あなたが、“菊”ね」

彼女は微笑んだ。どこか切なげに。


「わたしは、“誰か”の中に、ずっと閉じ込められていたの。

だから、ありがとう。呼んでくれて」


「……あなたは、もしかして……“姉”?」


問いかけに、女は首を横に振った。だが、完全には否定しなかった。


「いいえ。でも、わたしは“誰かの姉”だったわ。

そして、“誰かの代わり”に死んだ」


「……カルカンサイトの……缶……?」


菊がそう言うと、女は一瞬だけ悲しそうに目を伏せた。


「そう。わたしはあれを“彼の真心”だと、最後まで思ってた。

でも──それは、“死”だったの」


「それを奪ったのは、あなただった?」


「ええ。でも、それは“奪った”んじゃない。

“代わった”の。わたしが妹の代わりに、死ぬことにしたの」


「……それで、呪った?」


問いかけに、女は、ふっと微笑んだ。今度は少し──怖いほどに冷ややかに。


「“呪った”のは、わたしじゃないのよ。

わたしは、死んでいくとき、妹の名前を呼んだだけ。

でもね──その声を聞いた“あの子”が、変わったの」


「……妹が?」


「ええ。わたしよりも強く、優しかった子が──

ある晩、彼に言ったのよ。“あなたのために笑うわ”って」


「……姉のふりをして?」


「ううん。“死んだ姉のふり”をして、彼を騙したの。

でも、その“ふり”がずっと続くうちに、彼女の中で──

本当に“わたし”になってしまった」


「……!」


「だからこの館には、“ふたりの女の記憶”が眠っている。

殺された者と、殺した者の顔をした少女。

どちらが“本当の妹”か、もう誰にもわからない」


「それを、教えてほしいの?」


そう言って、女が一歩近づく。

その声が、湖の底から響くように低くなった。


「なら、あなたが、“妹の罪”を背負いなさい」


「わたしが……?」


「あなたはもう、この館の“記憶”と繋がった。

過去を暴くということは、

その罪を、今ここに生かすということ」


「答えを知りたいのなら──“花嫁”になりなさい」


その瞬間、女の姿が、

スズランの香りと共に、ふっと霧のように消えた。


そして足元から水が染み出すように、

菊は、アヌシー湖の水底に沈んでいった。


冷たさが、喉元に迫る。


「──ッは」


菊は、息をのんで目を覚ました。


心臓が、ドクドクと脈打っていた。

夢の中の言葉が、まだ耳に残っていた。


「妹の罪を背負いなさい」


彼女の胸の奥に、かすかに水の匂いが残っていた。

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