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スズランが咲く季節に、君はもう遠く  作者: 鷹 いつか
第二章『呪われた花嫁』
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5.呪われた館

館に入ると、空気が変わった。

湿った石の匂い、冷えた空気、木の床がわずかに軋む音。

ポールが静かに手を広げて言った。


「この家には、いくつか“見ていただきたい部屋”があります。

……まずは、姉妹が最後に共にいた場所へ──ご案内します」


その言葉に、菊の心臓がすっと冷えた。

三階の奥、ひっそりと閉ざされた部屋。

開かれた扉の向こう、柔らかい日差しの中に、それはあった。


古びた白い缶だった。


棚の上、レースの下敷きに載せられたその缶は、誰かが大切に保管していたように見える。

ところがそれに近づいたとたん、菊の胸がチクリと痛んだ。


──その缶、知ってる。


音もなく、視界がゆらいだ。

ぐらり、と景色が傾いた。


「菊?」


ダチェラの声が聞こえた気がしたが、もう届かない。


◇ ◇ ◇


──「見て見てお姉ちゃん! もらったの! かわいいでしょ!」

──「それ……っ、誰から?」

──「あの人。フランソワ様……! 私たちの話、聞いてたんだって。だから……」

──「……やめて。触らないで」

──「え?」

──「それ、返して。私が持っていく」

──「え? ど、どうして?」


スズランの絵が描かれた白い缶。

中には透明な結晶と、小さなカルカンサイトの髪飾り。


──“これを贈った女は、必ずポール様の花嫁になる”って。


叫び声。走り去る足音。

追いかけようとした──けれど、何かが“止めた”。


黒い靄。

冷たい湖の底。

閉じ込められた「姉」が──そこで、何かを見ていた。


◇ ◇ ◇


「……っは……!」


菊ははっとして息を吸い込んだ。

気づけば床に膝をつき、冷や汗をかいていた。


「菊、無理するな。急に……倒れかけたぞ」


ダチェラがそばにいた。

その紫の瞳が心配そうにのぞき込んでくる。

ポールも険しい顔をしていたが、口をつぐんでいる。

菊は缶を見た。

今も、あの絵が揺れて見える。──スズラン。


「……あたし、この缶、見たことある。前に──確かに、どこかで」


震える手でそっと蓋に触れた。

その瞬間、また一閃──記憶の欠片が、脳裏に浮かぶ。

“お姉ちゃんなんて、消えればいいのに”

それは妹の声だったのか、他人の記憶なのか。

わからなかった。




「こちらが、姉妹がかつて共に暮らしていた部屋です」


ポールがそう言って扉を開けた。

日当たりのいい角部屋。

クリーム色の壁紙にはバラの模様がうっすら浮かび、白い木製のベッドが二つ──いや、一つだけだった。


「……あれ?」


菊が思わず声を漏らす。


「どうかされましたか?」


「いえ……あの、双子なんですよね? 二人姉妹って……」


「ええ、そうです」


「でも……ベッドが一つしかありません」


その瞬間、部屋の空気がわずかに凍った。

ポールの微笑みが、ほんのわずかに引きつったのを菊は見逃さなかった。


「それは……お姉さんが亡くなってから、もう一つは処分したと聞いています」

「でもそれにしては、跡が残ってない。家具をどかしたら床の色が違ったり、日焼けの跡があったりするはずです」


そう、ベッドの周囲の床には“動かされた形跡”がまったくなかった。まるで、最初から一つしか置かれていなかったように。

さらに奇妙だったのは──


「この鏡台、引き出しが一つだけで仕切りもない。双子が一緒に使っていたなら、もう少し分かれていてもよさそうですけど……」


棚の上には、ヘアブラシと香水瓶、片方のイヤリングだけが置かれていた。どれも可愛らしく、年頃の少女の好むものだったが、“一人分”しかなかった。


「……双子の姉妹がいたって話、ほんとですか?」


菊の声に、ダチェラが横目でポールを見やる。


「それとも……誰かが“いたことにした”、あるいは“いなかったことにした”?」


ポールは答えなかった。ただ、視線を落とし、ふっと笑った。


「……この家には、そうした“整合性のない場所”が多々あります。

その理由を調べるために、あなた方に来ていただいたのかもしれませんね」


それは、明確な肯定でも否定でもなかった。

けれど菊の背中に、ひやりとしたものが這い上がる。

何かが、この部屋から──姉の存在そのものを、消し去ろうとしている。


「……ここ、“二人で暮らしてた”って空気がないよ」


菊がそう呟いたとき。

窓の外、風に揺れた白い花が見えた。


スズランだった。


それはまるで、「よく気づいたね」と言いたげに、ゆれていた。


館の厨房は、石造りの土間と大きな暖炉が残る古風な造りだった。

その片隅で、年配の女性が手を休めずにジャガイモの皮を剥いていた。


「失礼します。わたくし、少しお話を伺えればと思いまして──」


菊が声をかけると、女性は微かに顔を上げた。灰色の目が穏やかに笑う。


「まあまあ、お客様。わざわざこんな場所まで。お話だけでしたら、いくらでも」

「ありがとうございます。…昔のこと、教えていただけますか? フランソワ様と、そのご妹君のことを」

「フランソワ様……」


使用人は、手を止めた。

ほんの一瞬だけ、表情に戸惑いが浮かぶ。


「ええ、フランソワ様は、……ご病気がちで、あまり外には出られない方でした」

「では、妹さんの方──お名前、なんとおっしゃいましたか?」

「……ポリーヌ様です」


明確な答え。それに菊は頷いた。


「双子でいらっしゃったんですよね?」

「……は?」


その瞬間、使用人の顔から血の気が引いた。


「いえ……ポリーヌ様は、一人娘でございましたよ。双子など──聞いたことがありません」


その場の空気がピンと張った。


「けれど、ポール様から“姉妹だった”と伺いました。三階に“二人が共に暮らしていた部屋”があるとも」

「それは……おそらく……記憶違いでは。

ポリーヌ様がご婚約される前に、確かに一時期、“お付きの方”がいらっしゃいましたけど……。

ご姉妹というわけでは……」

「その付き人の方のお名前は?」

「……さあ、もう随分前のことで。

名前までは、誰も……」

「本当に?」


女性は目を逸らし、皮を剥いたジャガイモをバケツに落とした。


ぽちゃん。


鈍い水音が、なぜかやけに大きく響いた。


そのとき、ダチェラがそっと耳打ちしてきた。


「菊さん。この使用人──今の話、“嘘をついてる時の脈拍”になってる」

「……あたしも、そう思ってた」


“双子なんて、いなかった”と言われたとき、あの人の左手が一瞬震えた。

真実を隠してる人の癖。”


菊の目に、再び白いスズランの幻がちらついた。

……誰かが、姉の存在を消そうとしている。


それは、記録でも。部屋でも。人の記憶の中からさえも。


けれどそれが、“妹を守るため”なのか──“姉の罪”を隠すためなのか。

それはまだ、わからなかった。


「フランソワ様のことをお聞きしたいのですが」


菊は、館の中庭に咲くアジサイの手入れをしていた若い女性使用人に声をかけた。


「あっ……ええと……フランソワ様、ですよね……?」


小柄なその使用人──名前はリゼットというらしい──は曖昧に笑い、手を止めた。


「フランソワ様は……とても綺麗な方でした。でも、わたし、あまりお話ししたことは……」


「それは、病弱だったから?」


「……いえ」


リゼットは少しの間口ごもったあと、ぽつりと続けた。


「……あの部屋は、私たち下働きは“触れてはいけない場所”と教えられていたんです。掃除も、ポール様が自分でなさってました」


「それ、いつから?」


「フランソワ様が亡くなった年から……たぶん」


そのとき、背後から低い声がした。


「何を話しているんだ?」


庭師の男だった。灰色の髭をたくわえた古株の使用人、ピエール。


「お前は口が軽いな、リゼット。客人相手でも、話していいことと悪いことがある」


「で、あなたは何を隠してるんです?」


菊が一歩進み出ると、ピエールは目を細めた。


「“姉”なんて、初めからいなかった。それがこの館の真実だ」


「でも部屋は“二人部屋”だった」


「見た目だけだ。お嬢様が“二人いるふり”をしていただけだ。よくある話さ。想像の友達みたいなもんだ」


「……じゃあ、妹さんはその“想像”の姉と喋ってたの?

寝るときも、散歩のときも? 写真には?」


ピエールは黙った。


ダチェラが後ろからそっと菊に言った。


「心拍、早くなってる。嘘ついてるよ、間違いなく」


「……だよね」


そのとき、遠くから老女の声がした。


「それ以上は、言ってはなりませんよ」


振り返ると、館の元女中頭だったというルノー夫人が立っていた。黒いドレスに身を包み、年齢の割に背筋の伸びた気品ある佇まい。


「この館には“決められた真実”があるのです。

それを守るのが、私たち使用人の勤めでした。

あなたが今、掘り返そうとしているのは、皆が見ないふりをしてきた悲劇そのもの。

それでも、進まれますか?」


「……ええ。わたし、探偵ですから」


菊の目に宿った光に、ルノー夫人は静かに頷いた。


「では、夜になったら、厨房裏の階段下へいらっしゃい。

“その子がいた証拠”が、今もそこに眠っているかもしれませんよ──」

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