3.須古雪
私はふと、背後を振り返った。
月明かりに浮かぶ影。そこに立っていたのは、日国帝軍の軍服をまとった男だった。
じっと、私を見つめている。
──誰……この人?
警戒しながら問いかけた。
「あなた、誰?」
男はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「……ダチェラ」
そして、一言だけ言って歩き出す。
「ついてこい」
私はためらいながらも、彼の背中に導かれるようにして歩き始めた。
胸の奥で、何かが静かに疼いていた。
無機質な通路を歩きながら、彼は突然尋ねた。
「“赤玉”に拾われてから、君は何も思い出していないのか?」
その名に、私は立ち止まる。
「……どうしてその名前を?」
「赤玉山椒。探偵事務所“赤玉”の所長だ。帝軍情報部にとっては厄介な存在。そして――君が行方不明になってから、彼女の元に現れた」
私は目を伏せ、静かに答えた。
「目覚めたとき、何も覚えていなかった。“かあ様”が助けてくれた。『菊』という名前も、彼女がくれたんです」
「それは偽名じゃない。君の本当の名前だ」
「……え?」
「君は俺の婚約者だった」
心臓が大きく跳ねた。でも、記憶は戻らない。
「そんな記憶、私には――」
「当然だ。君の記憶は“スズラン”に触れたときに消された。
スズランには、記憶を操る毒がある。君の母――白鷺ミナはその研究に関わり、君自身も被験者だった」
「……母が?」
「君は何かと“契約”を交わした。その代償が、記憶の喪失だ。偶然じゃない。君が“消える”ように仕組まれていた。だが……俺はずっと探していた。君を」
彼は胸元から小さな銀の指輪を取り出す。内側には〈K & D〉の刻印。
「これが証拠だ。君と俺が確かに交わした約束だ」
私は指輪を見つめた。
記憶は戻らないのに、胸だけが痛んだ。
「……どうして思い出せないの?」
「君が“そう選んだ”からだ。すべてを忘れ、逃れるために。だがもう……逃げ続けることはできない。スズランの香りが再び現れた時点で、物語はもう始まっている」
◆
「……ただいま、かあ様」
新聞を畳む音がして、山椒が椅子からゆったりと立ち上がる。
「おかえり。……会ったのね、あの軍人と」
「うん。ダチェラって名前。……彼、私の婚約者だったって」
私はそっと向かいのソファに腰を下ろす。
「でも……本当にそんな過去があったのかな。指輪も見せられた。なのに、覚えていない。でも心だけが苦しくて」
山椒は優しい香りのハーブティーを差し出す。スズランに似ているけれど、どこか穏やかだ。
「記憶ってね、思い出せば幸せになるとは限らないのよ」
「……?」
「あなたが倒れていたとき、血だらけで、名前も分からなかった。でも、“かあ様”って呼んだのよ。私はその瞬間、あなたに“菊”という名前を贈ったの」
「……そうだったんだ」
「私は本当の母じゃない。でも“かあ様”と呼ばれたその日から、あなたの母になる覚悟をした」
私は静かに手を握る。
「それでも……知りたいんです。過去を、自分の意思で。ダチェラのことも、母のことも、“スズラン”のことも」
山椒は、母のような優しさと強さで微笑んだ。
「なら、行ってらっしゃい。迷ってもいい。どんな真実に出会っても……帰る場所はここにある」
「ありがとう、かあ様。行ってきます」
日国帝軍・元帥室
「“桐生遥の死”についての報告か?」
飯島元帥の前で、ダチェラと私は頷いた。
「事故でも自殺でもありません。軍による“記憶遮断実験”の副作用でした」
「遥は“スズラン計画”の被験者だったんです。記憶を何度も操作され、自分が誰かさえ見失っていった」
「最後の記録には、“菊が来たら伝えて”と残されていました。『彼女は真実から目を逸らさない人だから』と」
飯島の表情が歪む。
「……私は、彼女を戦果として処理した。だが、本当は信じていたんだ。彼女が……生きているかもしれないと」
私は遥の日誌の一部を差し出す。
そして、彼は封筒を取り出した。裏には“遥”とだけ書かれていた。
「私は、この手紙を開けられなかった。自分の罪が、怖かった」
「彼女の記憶を、ただの実験記録で終わらせないでください」
飯島は黙って頷いた。
日国帝軍・本部、作戦会議室
重い扉が閉まり、軍上層部が揃う。
「“スズラン計画”の存在を議会に報告しただと? 元帥、何を考えている?」
「虚偽の報告を改めただけだ」
「命令に従えばいい。それが軍人だろう!」
飯島は立ち上がり、机を叩く。
「命令か? 桐生遥を“消した”命令は誰が出した? 少女を被験者に選んだのは? それが正義か!」
重い沈黙。そして──
「飯島元帥、あなたは命令違反を犯した。この場で職権を停止し、謹慎を命じる」
部屋に重い空気が満ちる、飯島は唇を噛み悔しそうな顔をした。
「そして飯島元帥、あなたに個人に命ずる。軍の内部改革を進めよ」
「なに……?」
葛西、矢矧、山科が、頭を下げた。
「桐生遥を救えなかったこと……悔いている。我々は命令に従い過ぎた。今こそ、正す時だ」
飯島は震える手で手紙を開き、読み上げた。
「どうか、“菊”を導いてください。
私は、自分で生き方を選んでほしいと願っています。
真実を封印しないでください。記憶の奥に、明日があると信じています」
飯島は手紙を胸に抱く。
「……受け取った。遥の遺志と共に、軍を変える」
「ならば記録を残してくれ。“消された人々”の名を、歴史に」
「分かった。“心”を残す。それが未来だ」
彼の声には、もう迷いはなかった。
──スズランは毒を持つ。
けれど、誰かがその花を愛し、その香りを覚えている限り──
再び、咲かせることはできる。
飯島広信の戦いは、終わらない。
だが今、ようやく──始まったのだ。