いじめられていた僕の暗い日々は、転校生の一言で終わった
朝、学校に行くのが憂鬱だった。靴箱を開けると予想通りの光景が広がる。今日は上靴が泥で汚されていた。
「あー、汚なっ」
背後で誰かが笑う声が聞こえる。反応しても喜ばせるだけだ。無言で靴を洗い教室に向かった。
机の中にはゴミが丸めて押し込まれていた。鼻をつく臭いに思わず顔をしかめる。こちらを見ていつもくすくす笑っている奴ら、あいつらがやったのだろう。
クラスの大半の生徒は、直接いじめに関わってはいなかった。しかし、僕がいじめられていることはみんな分かっているだろう。巻き込まれたくないのか、それとも僕を見て密かに楽しんでいるのか、誰も僕に声をかけようとはしなかった。
そういうものだ。自分にそう言い聞かせる。社会への反発、将来への不安……そういうストレスを抱えているときには、誰かが標的になる。たまたまそれが自分だっただけに過ぎない。
今日も黙って、誰とも関わらずに過ごそう。そう思っていた。
しかし、先生が教室に入ってくると空気が一変した。知らない女の子が一緒に入ってきたのである。クラス全員の視線がその子に集中した。
「今日からこのクラスに転校してきた、広瀬優希さんだ。みんな仲良くしてやってくれ」
「広瀬優希です。みなさん、よろしくお願いします」
そう言って柔らかい笑顔を浮かべながらお辞儀する彼女の姿は、まるで雑誌か何かから抜け出してきたかのようだった。この世の光を全て集めたように輝く瞳、肩まで流れるサラサラの髪、みんなが釘付けになった。
彼女はクラスの全ての話題をかっさらった。僕をいじめていた奴らも彼女に夢中になり、いじめは止まった。正確に言えば、僕への関心をなくしたというべきだろう。
彼女は僕の隣の席になった。僕がいじめられていることを知らない彼女は、僕に何のためらいもなく声をかけてきた。
「こんにちは。これからよろしくね」
「あっ、うん、よろしく」
「私の名前は……さっき言ったね、広瀬優希。あなたは?」
「健二、高田健二」
僕の名前を聞いて彼女は驚いたように僕の顔を見つめた。そんなに変な名前だっただろうか?
その日から、彼女は僕に頻繁に話しかけてくるようになった。あっという間にクラスの人気者になった彼女を通して、休み時間の談笑に加わることもできるようになった。
しかし、彼女が僕に構うのを妬んだのだろうか、ある日登校すると僕の机の中に久しぶりにゴミが詰まっていた。またかと思い、ゴミを片付けようとしたとき、彼女が声をかけてきた。
「それ、何?」
「ああ……これは……」
僕は言い淀んでいると、彼女ははっきりさせようと鋭い口調で言った。
「いじめってこと?」
僕は静かに頷いた。
彼女は勢いよく立ち上がり、教室に響き渡る声で言った。
「これを誰がやったか見ていた人はいない?」
みんなが目線を逸らす。
「もしかして、私が来る前から健二くんへのいじめがあったの?もしそうなら、みんなが今みたいに見て見ぬ振りをしていたなら、それならみんな同罪だと思う!」
クラスの空気が変わる。女子生徒がおずおずと口を開いた。
「広瀬さん、私、見てた。あいつらが入れてた!」
「俺も見た!」
「僕も!」
彼女はクラス全体を味方につけたのだ。いじめっ子たちは狼狽し、パクパクと口を開いている。
「おい、何の騒ぎだ」
先生が入ってきて、彼女が事情を伝えた。みんな口々にいじめを見たと言い、いじめっ子たちは事情聴取のため先生に連れて行かれた。
僕の前の席に座っていた男子生徒が、僕に頭を下げた。
「今までごめん!いじめられてたのは知ってたけど、見てみぬふりしてた」
「高田くん、ごめんなさい」
クラスのみんなが口々に僕への謝罪の言葉を述べた。彼女の言葉ひとつ、行動ひとつでここまで全てが変わってしまうものなのか。僕は驚きながら言った。
「ありがとう、みんな。僕はみんなのことを恨んでいないし、むしろ今証言してくれて感謝してる。良かったら、これからも仲良くしてくれ」
それからは、今までとまるっきり逆だった。僕の代わりにいじめっ子たちが腫れ物扱いされるようになり、追って学校からも停学の処分が下った。
ある日の放課後、僕は彼女に一緒に帰るよう誘われた。帰り道、僕は改めて彼女にお礼を言った。
「広瀬さん、ありがとう。君のおかげでいじめもなくなったし、クラスのみんなとまた仲良くなれた」
「お礼なんていいよ。当然のことをしただけだから」
彼女と静かに歩く帰り道。爽やかな秋風できれいな髪が揺れる。僕はずっと気にかかっていたことを彼女に尋ねた。
「こんなことを言うべきかは分からないんだけど……」
「どうしたの?」
「本当にこれでいいのかなって」
「どういうこと?」
「僕の代わりに、いじめっ子たちが新しいいじめの標的になっただけなんじゃないかって……」
彼女は立ち止まって僕の顔を見つめ、微笑みながら言った。
「本当に優しいんだね。健二くんって」
彼女は言葉を続けた。
「あの人たちは、健二くんにひどいことをしていた。だから、報いを受ける必要があると思う」
彼女は突然立ち止まり、まっすぐ僕の顔を見ていった。
「それより、ねえ。私のこと、覚えてない?」
「?」
「ケンちゃん」
ケンちゃんという言葉に、遠い記憶の中の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「もしかして、ユキ?」
「当たり」
彼女は小学校の低学年のころ、引っ越しで別れたきりの幼馴染だったと思い出した。どうして忘れていたのだろう。
「あのときから変わってないね。ケンちゃんはいつも、他の人のことばかり気にして、自分はみんなの犠牲になっても良いって考えてる」
その通りだ。
「私が小学生のころ、上級生に囲まれて脅かされてたとき、ケンちゃんは私を無理やり逃がして、代わりにそいつらに殴られてた」
彼女は優しく、慈愛に満ちた表情で言った。
「もうそうやって、自分の幸せを二の次に考えなくて良いんだよ。あなたが幸せになっていいの」
僕が幸せになってもいい。そんなことは考えもしなかった。
そして彼女は、恥ずかしそうにこう言った。
「私は、昔からケンちゃんのことが好きだったんだよ」
嬉しさと驚きで涙が止まらなかった。立っていることができず座り込むと、彼女は僕の頭を優しく抱きかかえた。
そのときから、僕は誰かの犠牲になることはやめた。自分の幸せを探していく。彼女と一緒に。