ハルト Ⅱ - ① - A
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始業式の日、息苦しく暑い朝、ハルトは一人、履き潰した靴の先をいつものようにぼんやりと眺めながら、小さな丘を巻く勾配のきつい坂道をとぼとぼと歩いていた。
人影は疎ら、クルマもまず走っては来ない通学路の端は、等間隔に植えられた桜並木が未だに青々と茂っていて、少しでも日差しから逃れようとするハルトの足は自然とその傘の下に向かっていた。九月を秋と言うのは昔のカレンダーだけだった。
丘の中腹にさしかかった所で、坂道を歩く人の数が急に増えてきた。
皆がハルトと同じ〝学園〞の生徒達だった。
寮から続く道と丘の麓から登ってくる通学路は丁度この辺りで合流していた。〝学園〞に通う子供達は日本全国から集められているので、その大半が寮住まいであり、ハルトのように「通い」で来ている生徒はごく少数だった。
すぐに通学路は、先程までの空焚きされた鍋のような空気とは打って変わった、賑やかで明るい雰囲気の華やかな界隈となった。
梢の影の輪郭を踏みながら、久々に親元へ戻れたらしい友人同士が、夏休みの間に何をしていたか、互いの身に起こった出来事を楽しげに語らっていた。
強い日差しを跳ね返す勢いではしゃぐ一団は、上位クラスの希望者のみに実施された能力強化合宿での思い出や今後のスケジュールについて盛り上がっていた。
粛然と歩くハルトを追い抜いていった別の一団は、クラスで仲が良い者同士の集まりのようで、夏休みの宿題や、近頃バズっているアプリの話題に興じていた。
〝学園〞に籍を置いているという事は皆、大なり小なり能力者だった。しかし、外見も言葉も普通の人と何か変わっているという訳でもなかった。生徒達の多くは髪を染めたり、制服をある程度着崩したりして、あるいは上位クラスの者はおおっぴらに、下位クラスの者は目立たぬようにアクセサリーを身につけて、 高校生活を満喫していた。
丘の上に建つ学園が徐々に近づいてきても、ハルトは一人、靴紐を眺めながら歩いていた。去年も彼は一年間ずっとそうしていたし、二年生になってからもそうだった。
ハルトが誰かから顧みられる事はなかったし、ハルトも誰かに声をかけたりはしなかった。新学期になったからと言って何かが変わる訳ではなかった。いつも通りだった。
これまでもずっとそうしてきたように、ハルトは並木の影に溶け込んで見えるように祈りながら登校し、そして下校するのだ。何もかもが前と同じだった。
だから、唐突に親しげな女子の声で名を呼ばれても彼は咄嗟には反応できなかった。
「石上クン?」
苗字で呼ばれる時は大抵、学校の先生に皆の前で立たされて怒鳴りつけられたり、厳しく責められたりする時だった。両親という人達や同じ年頃の子供達からは「クズ」とか「カス」とか、「キモいの」とか「クサい奴」としか呼ばれなかった。ハルトの事を名前で呼んでいたのは姉だけだった。
だから、この時もハルトは心臓がキュッとするような感覚を覚えて、このまま気づかなかった振りをして歩いていってしまおうかと思ったくらいだった。
しかし、呼びかけは怪訝な風ではありながらも、健気に繰り返されてしまった。
「石上、ハルト君だよね?」
気づいた時にはハルトは振り返っていた。
透き通るようなアッシュブラウンの長い髪が目についた。
サイドを編み込んだハーフアップ。膝上スカートの前に両手で提げたスクールバッグ。 日陰と日向の境界線に、光沢滑らかなローファーの先をかけて。
愛らしい顔にやや不安気な表情を浮かべながらも、やんわりと微笑む彼女の首元には小ぶりのチョーカーが嵌められていて、その真中で小さな水色の輝石が淡く燦めいていた。 それは劣化エーテルの模晶質に起こる擬似的な回折現象であり、その輝きこそが上位ランクの生徒である証だった。
ハルトは彼女の髪を、靴を、そして導具を順繰りに見て、最後に、くりっとした大きな焦げ茶の瞳に視線を吸い寄せられた。
親しげな瞬きが、彼の返答を待っていた。
ハルトははっとして、慌てて目を逸らした。
しかし、もう遅かった。眼は合ってしまっていた。
父親という人。母親という人。何人もの先生たち。たくさんの生徒たち。想起された一瞬一瞬が脳裏で明滅し、痛くもない右手指の一本一本がヒリヒリとした。
彼はすっかり気を動転させた。
相手は上位ランクの生徒だった。どうすれば良いのか、わからなかった。
姉も他人を無遠慮に見てはいけないと言っていた。その通りだった。
謝らなければならなかった。悪意がなかった事を知ってもらわなくてはならなかった。
許してもらわなければならかった。
記憶と規範が彼を板挟みにして、咄嗟に何かを言おうとしても頭の中は真っ白で、言葉は全く文法を成さなかった。声は喉元でくぐもってしまって何も生み出さず、「あ」だとか「う」だとか、そんなぽつぽつとした音素がはみ出てくるだけだった。
そんな自分の無様な姿が自分でも良くわかっていたから、他の誰かがやってきて彼を皆の前で晒し者にして嘲笑ったり、あるいは怒鳴りつけて殴ったりするのではないかと気が気ではなくなり、余計に何もかもがわからなくなった。
それでも相手が待ってくれている事だけは理解していたから、ハルトはとにかく頷いてみせた。その会釈が肯定の意味なのか謝罪の意味なのかは彼自身にもわからなかった。
「やった、やっぱり石上クンだったんだ!」
ハルトの不審な挙動にも関わらず、女子生徒はその場で飛び跳ねるようにして喜んだ。
ハルトはとても申し訳ない気持ちになった。他人に喜んで貰えるような事は何もしていなかった。自分が何もしていない事だけは自分でも良くわかっていた。
「久しぶりだね。私のこと、憶えてる?」
彼女が声を弾ませたので、ハルトの体にかかっていた重圧は少しだけ薄らいだ。
彼は糸が切れた人形のように、もう一度だけ頭を縦に動かした。
「良かった! ちょっとドキドキしちゃった。中学校の卒業式以来だよね?」
ひとまず相手が上機嫌になってくれた事は僥倖だった。目が合ってしまった事も見つめてしまった事も特段責められる事はなさそうで、ハルトは息が吹き返る気がした。
「でも、ホントびっくりしちゃった。石上クン、転校とかじゃないよね。去年一年間、同じ学園にいたのに、全然気づかなかったよ。だって同じ中学でここに来る人がいるなんて思わなかったし」
彼女はそう言ってハルトに屈託なく笑いかけ、特に何の衒いも戸惑いもなく、当たり前のように彼の隣に立って、並んで歩き始めた。
姿勢の良い彼女に比べて、いつも背を丸めている彼の頭は彼女のそれよりずっと低い位置にあった。気後れした彼は、自分が一緒に通学路を歩いてしまって良いものなのか躊躇ったが、先を歩いていた彼女が振り返って「どうしたの?」と不思議そうに訊ねてきたので、ハルトは慌てて相手の半歩後ろを歩く事になった。
竹野内ユイは、中学三年時の同級生だった。
けれども、今日の今日まで接点は全くなかったし、言葉も交わした事はなかった。
それは当たり前と言えば当たり前の事で、いつもクラスの真ん中に出来るみんなの輪の中で楽しそうに笑っていた彼女と、隅の方でとにかく嘲笑の標的にならないように身を小さくしていたハルトでは、住む世界がまるで違っていた。竹野内ユイは、ハルトは親しくできるような相手ではなかた。
彼女は明るく素直で、茶目っ気もあって、制服をさして着崩さずともオシャレな雰囲気が良く出ているような女子だった。ハルトはわかっていなかったが、適度なメイクも十分に上手で、可憐な顔立ちに女のコらしさが良く映えていた。
新体操部に所属していて運動神経も良く、友達と一緒に踊ったショート動画がSNSでバズってしまったことなど、クラスの中でもよく話題にあがる人だったので、みんなの輪の外側にいるハルトにまで、そうした話が漏れ聞こえてくる程だった。
そういう訳で、竹野内ユイはハルトの中では「陽気」な「キャラ」としてのイメージがあって、彼は彼女について〝学園〞や〝能力者〞といった現代社会の暗部とは無縁な、ごく一般的な「フツー」の女の子であるように漠然と思っていた。
だからこそ、入学式の日、緊張の面持ちで整列している新入生達の中に、沈んだ顔をしている彼女の姿を見かけた時、ハルトはそれをとても意外に思った。
ただ、その理由は容易に想像できた。〝学園〞に来たという事は、〝能力者〞の烙印を押されたということだ。それはもう、一般社会で今までのように「フツー」に生きていく事はできなくなったということだった。
ハルトは勝手にユイの心情を推測して痛ましく思ったが、だからといって自分からユイに声をかけるような真似はしなかった。元々、彼は自分から他人に声をかけたりするようなことはできない性質の者だったが、それ以上に、その時ユイはA・Bランクの生徒が並ぶ列にいて、ハルトはFランクの列にいたのだった。
姉はAランクを遥かに超える圧倒的な才能を持った稀有な能力者であったというのに、ハルトは相変わらず土俵に上がる事すらできていなかった。
そんな体たらくの彼が誰かに何かを言ったりすることなど出来るはずもなかったのだ。
まだ蒸し暑い通学路を歩きながら、中学時代の思い出話や友人知人の近況について嬉しそうに話すユイの姿は入学式の時の沈みきった様子とは正反対の、かつてハルトが中学の教室で遠目に見ていた時の彼女の姿と何も変わらなかった。
ハルトは、そんなユイの快活な明るい顔をまともに見る事ができなかった。
その上、彼女が話す中学時代の「みんなで盛り上がった体育祭や文化祭」、「校内で有名だった名物教師」や「個性豊かな友人達」といった思い出話にも、あるいは他の同級生たちが今どうしているのか、新体操部の先輩や後輩たちがどんな活躍をしているのか、といった話題にも、まるでついていく事ができなかった。
それでも相手が気持ち良く喋っている話の腰を折って、気分を害したくはなかったから、ハルトはちゃんと聞いているという意思表示のつもりで、適当と思えるタイミングを伺い、おずおずと相槌を打っていた。そうしながら彼は、彼女の首元にあるチョーカー状の導具、その中央を飾る模法石の淡い水色の燦めきを何度も盗み見ていた。
「でもねっ! 悩みとかあったら相談に乗るよとか言ってもらえて、それはすっごく嬉しいんだけど、でもエーテル力学の相談なんて他の学校の子には絶対できないでしょ !? だって、そんなの普通の学校だったらあり得ないし!」