シズマ Ⅰ
*
石築シズマは目を醒ました。
栄光と歓喜の中に。
シズマは起き上がった。
失意と落胆の内に。
彼は立っていた。
魔女の屋根裏部屋に。
そこは薄暗く、仄明るい小世界。
頭上より僅かに差し込む淡い光が、幾つもの柔い柱となって、
巨大な紡錘車と機織り機の陰影を書き割りに炙り出す。
古びた板張りの床は、神殿の磨き抜かれた広間に等しく。
三つ並んだ優雅な寝椅子は、女神を祀る大理石の祭壇。
世界樹を慈しむ花の巫女は、寝椅子に佇む三人の魔女。
彼女らはまさに、この小さな世界の天蓋を支える麗しき三本の女人像柱。
彼女達は興味深そうに、あるいは値踏みでもするかのように、シズマの顔をチラチラと見ては、互いに顔を見合わせて意味深長にクスクスと笑った。
やがて、中央の寝椅子に鷹揚に腰掛けた金髪の魔女が口を開いた。
「お目覚めですか、哲人王。あるいはその胚芽」
聞き慣れない古典期の単語が発音されると、両脇の寝椅子にそれぞれ腰掛けた二人の魔女が一斉に笑い出した。金髪の魔女もそれに同調し、薄く笑った。
彼が朦朧としていると、中央の魔女は自ら語り始めた。
「なんとか言ったらどうですか。貴方の身体を修復するのは、とても大変だったのですよ。皮膚も内臓も使い物になりませんでしたし、血管も骨格もぐちゃぐちゃでした。仮に諸器官が無事であったとしても、それらを駆動する精神がああも粉々になってしまったのではどうにもなりません。この私がロボトミーだのトレパレーションだの、そんな無粋な真似をすると思いますか? かといって脳をいくら継ぎ接ぎしたって何にもならないのです。念の為と思ってゾシモスの遺石を手配しておいて正解でした! 本当に貴重なものなのですよ。この虎の子が、つまり、原-化学たるアル・キミアの聡しき伝統とそれが為せる大いなる御業が、偶然この手にあったからこそ、なんとかなったようなもので、まったくヴェサリウス以前ではあるまいし、アヴィセンナではなくイヴン・スィーナーを学ぶ事に一体どんな意義があるのだろうと常々疑問に思っていましたが、実に有意義でしたよ! 貴方の遺伝子を基に、貴方の残骸を参照しながら、ボロボロになってしまった貴方の肉体を組み直し、手持ちの万能細胞をありったけ使って、細密画のように組み上げ、復活の儀式を執り行うには! もっとも、消滅した右腕と空虚になった脇腹だけはどうにもなりませんでしたが。伝えておかなければなりませんね。失われてしまった貴方の右肘から先は、宝物庫に死蔵されていた生きる黒銀を質料に用いて代替しています。銀の腕、栄光の手、牧人の杖。何とでも好きに呼べば良いでしょう。いずれにせよ、聖王の右手である事に変わりはないのですから。あくまで副次的な効果に過ぎませんが、エーテル絶縁体である貴方の身体に比べれば親和性にはずっと優れています。魔法の杖さえあれば単純な抗意くらいは再現できるはず。具象化したエーテルにも作用する筈です。もう一つ、本当に重要なのは貴方の脇腹です。ここだけは本当にどうする事もできなかった。だからゾシモスの遺石を埋め込み、それによって贖いました。他に置くべき場所があったのかと問われれば確かに返答には困りますから、ある意味、当然の帰結だったのかもしれませんが。何であれ、今の貴方は肉もなく、骨もない、諸器官に分節すらされない一枚の布。着ているものだって、ほら、キトン一枚という訳にはいかないでしょうから、その戦外套は私達三人で用意してあげたものです。貴方が元々着ていたものはもう襤褸雑巾にもなりませんでしたから」
指摘され、初めてシズマは自らを被う衣装に目を落とした。
魔女はそれを陣羽織と呼んだが、その形態はむしろ塹壕戦に用いられていた外套に良く似ていた。シズマは知らず胸元の衣嚢に手を差し込んで、その内にある薄く平たい感触を確かめていたが、金髪の魔女はそれに構わず、次々と言葉を重ねていった。
「その戦外套は火の精霊の皮革に水の精霊の泡膜を張り合わせたものです。表面には、当世風にヴィエナ・サークルの解釈を施した風の精霊の詩歌を土の精霊の髭糸で刺繍してあります。多少理屈っぽくはなりましたがエーテル抵抗は折り紙付き、言葉通りの理論武装なのです! そして忘れる事勿れ、我らが麗しき女神の恩寵を! 全くもって完膚なきまでに灰塵へと帰した貴方の精神をよくぞここまで織り上げてくれました! 先にも言いましたが、どれだけ立派な骨肉があったところで、受容し、処理し、駆動する事ができなければ、単に死体を縫い合わせて人形を作ったに過ぎません。一体誰がそのような冒涜を働くでしょう? そう、そこなのです。肉体でもなく、精神でもない。それら存在する者を〝存在している〞に至らしめる、まさしく存在そのものが、即ち魂が不在であったのなら、そもそも貴方は今ここに立ってはいないのです」
溶岩を吹き出す火口のように長向上をまくしたてた金髪の魔女はようやく言葉を区切って、ぐったりと肩を落とした。ひどく集中力を要する大仕事を終えて、神経を消耗し、昂ぶったままの気分を御す事に苦労しているかのようだった。
そして、魔女は溜め息を吐くように続けた。
「然るに、貴方の魂は確かに繋ぎ留められた。知性の原索によって。それ故に、ゾシモスの遺石は稼働し、儀式は危うい所で成功した。即席の合作としては上出来です。もう一度、同じ事をやれと言われても難しいでしょうね」
金髪の魔女は顔を上げた。白い顔は青褪めた月のように血の気が引いていた。しかし、その鳶色の瞳は獲物を睨む猛禽のように眼光鋭く彼を捉えていた。
「石築シズマ、貴方は復活したのです。知性の原索を得た哲人王として、今ここに。そして、ようこそ、私達のささやかなる夜の会へ」
三人の魔女の六条の視線が、シズマを真っ直ぐに射抜いた。
しかし、シズマが何かの感動を覚える事はなかった。
何の感慨も湧かなかったし、何の感想も抱かなかった。
彼はただ立っていた。そして、あるモノを睥睨していた。
「いきなり言われても、すぐには順応できませんか。それともこういう事には少なくとも三日はかかると考えていますか? 紀元後まもなくならいざ知らず、現代ではそこまで時間は必要ありません。三時間もあれば十分です。何か言う事は?」
シズマは自身の了解の内にある〝そのモノ〞を仄めかし、これは何か、と暗に尋ねた。
しかし、魔女達は皆一様にすげなかった。
中央の寝椅子に腰掛け、脚を組む金髪の魔女は鼻白んだ。
向かって左の寝椅子で脚を揃える茶髪の魔女は困り顔だった。
向かって右の寝椅子で横向きに脚を投げ出す黒髪の魔女は見向きもしなかった。
答えを容易に得る事はできないと知って、シズマはもう一度それと向き合った。
それは曖昧模糊として、不明確で不明瞭だった。
不定形であり、彩りを持たず、また玉虫色だった。
「それ」とは言ってはみたものの、「それ」がそもそも単数なのか複数なのか集合なのかもわからず、もっとも言えば「それ」は誰が感じても同一の内容を指していると断言する事もできず、単一の意味に解釈できるという訳でもなさそうだった。
仕方なしに、シズマはそれを手にした。文字通りに、把握した。
それはシズマの左手にあって、暗く輝く斧であった。
魔女狩りの斧。ラスコーリニコフの凶器。黒陽石のロジオーン。
それ、ないし、それらは、ひとまずそのように措定された。
いずれは崩れるか、もしくはまた別物に変わるだろう。だが、今はまだシズマの得物であった。
だからこそ、彼は今一度、魔女達にそれを示した。
金髪の魔女は目を見張り、微かな息を零した。
茶髪の魔女は小さく手を叩いて、囁やかな歓声を上げた。
黒髪の魔女は彼に初めて体を向けて、僅かに唇の端を吊り上げた。
「成る程、第七書簡に秘されし予想の通りという訳ですか」
金髪の魔女は一人ごちた。
「生憎、私達には了解はおろか、知覚する事も、認識する事もままなりませんが。必要かどうかは別として、共感する事すら叶いません。しかし、理解する事は出来ます。おそらく、それは物自体。かつて超越論者達によってそのように名付けられ、乞われ、そして斥けられたものでしょう。それにしても、今まで何とも思っていませんでしたが、没せざるザラスシュトラを高祖と仰ぎ、人類成立以来の伝統を誇ってきた魔道の系譜と成果をこうも安々と乗り超えられてしまうというのは、案外腹が立つものですね」
三人の魔女から耳目を集めて、シズマは斧をどうもしなかったし、どうする事もできなかった。その柄を緩く握り、左手の下に提げていただけだった。
やがて、彼は斧を手放した。それはすぐに形を失い、薄闇に溶けていった。
しかし、それは確かに、在るものだった。
手を伸ばせば、掴み取る事ができるものだった。
在るという事はまさしくそういう事なのだから。
もっとも金髪の魔女は意に介さず、息継ぎの後に長口上を再開した。
「しかし、これではっきりとしました。比喩でもなければ冷やかしでもなく、貴方は知性の原索を具え、物自体に触れ得る哲人王の資格 者、その試金石である、と。皮肉なものです。古来より聖林学派の希哲者にして魔道士達、あるいはフィチーノの直系達が探し求めた洞窟の羊飼いに、今や逍遥学派の異端に過ぎなくなった私達が相見えようとは。そして何より、治めるべき国もなく、通すべき道理もない、それを望む民さえいない、この玉座無き時代にあって哲人王とは!」
溜め息を吐き捨てて、金髪の魔女は寝椅子の上から気怠げに呪った。
「石築シズマ。導かれるべき我らが哲人王、その胚芽に改めて問いましょう。白夜の国に現れた灯台とは、しかし一体何の為に在り、一体何を為す者なのでしょう?」
確かに、声をあげた者は金髪の魔女だった。
しかし、問いかけた者は三人の魔女だった。
その問いにシズマが短く端的に答えると、金髪の魔女は鷹揚に首肯した。
「良いでしょう。真理だの真実だの、力強いだけで何の意味もない言葉を使わなかった事は評価します。しかし、どうやって? 概して、知られるべきものとは秘されるもの。知っていけば知っていく程、知らなかった事だけを知っていく。新式導具を世に送り出したベーコンに倣わずとも、知っているとはそれ自体が権力なのです。そうである以上、秘密を独占すべく、隠蔽する者は入れ替わり立ち替わり現れる。それで貴方はどうやって、汝の為すべき事と為し得る事と為さんとする事とを一致させようというのですか?」
魔女達はシズマを試し、彼が顔色を変えるのを待った。
シズマは表情を一筋も変えなかったし、また変えようもなかった。
沈黙を守る彼を一瞥して、金髪の魔女は首を傾げて呆れたように言った。
「立ち止まっていても何も解決はしませんよ。しかし、諦める必要もないのです。何故なら、貴方の格率は私達の企図にも適っているのだから。彼らのやり口に付き合ってあげる必要はなく、私達は私達にとって最適で最高で最善の道を選ぶだけです。つまり、私達魔女には魔法があり、貴方には虚無と幽冥の狭間にあって、それで尚、道筋を失わぬ灯し火があるのです。エーテルの楔を世界に打ち込み、支柱として打ち立て、飛び石の如く、小さな一時の世界の軸とするならば、それらを連ねて柱廊を構え、旅の軌跡とその行く末を示す歩廊に見立て、以って王道と成しましょう。そうであればこそ、我ら逍遥学派の謂われにも相応しい!」
呪文を唱えるように言葉を重ねる内にふつふつと何かが湧き上がってきたのか、金髪の魔女は何かを押さえ込もうとするかのように、徐々に語気を強めていった。
「道迷いの心配は要りません。柱の基部である世界の臍へは私達が導きます。しかし、そこに辿り着くのは決して容易な事ではないでしょう。かつてベーコンが予想した四つのイドラ、自意識の怪物達が行く道に立ち塞がるのですから。そして、そうである以上、石築シズマ、貴方はそれを退けなければならない。この事が何を示しているのか、分かりますか? 私が何を言っているのか理解できますか? 仮にも哲人王である貴方が、聖王として私達、魔女に援助を求めなくてはならないという事なのですよ」
せせら笑う彼女は、だが直ぐに顔を顰めた。額に玉の汗を浮かべ、身を捩った。
「私は少し疲れました。力を使い過ぎたようです」
顔色を見るに、単に喋り疲れたという訳ではなさそうだった。
「先に進みたければ、まず二人の内のどちらかに力を借りなさい。無論、それが叶えられるのであれば、の話に過ぎませんが」
茶髪の魔女は感嘆符と疑問符を同時に発して、金髪の魔女の顔を見た。
黒髪の魔女は我関せずとばかりに、投げ出した足を前後に揺らしていた。
金髪の魔女はもう何も言わず、青白い顔に長い睫毛を伏せていた。
その背景で、巨大な紡錘車と機織り機が中座もなく、終わりもないまま回っていた。
紡錘車に灯る見えぬ火が時間の経緯を撚っていた。
榺を回す聞こえぬ風が虚空の綜絖を開いていた。
踏み板を弾く嗅げぬ水が事物の杼を流転させていた。
土踏まずは運動と場所の織物に触れ得ず、永遠のような一瞬が彼に逡巡をさせた。
少しの間を置いて、シズマは意を決すると茶髪の魔女が佇む寝椅子へと歩み寄った。
彼女は金髪の魔女が本気と知ってから、わざとらしく顔を背け、その場を凌ごうとしていた。しかし、彼が自分の前に立ったとわかると「え、私、なんで私!?」と鳩が豆鉄砲を食らったような挙動を示して、愛らしい顔の下半分を両手で覆った。
金髪の魔女が彼女の名前を呼んで暗に嗜めた。
すると、茶髪の彼女は観念したのか、揃えた脚の上に恐る恐る両手を置いた。
シズマは自身の意志を率直に話し、助力を願った。
率直過ぎた為か、あるいはまだシズマに気負いと強張りがあった為か、茶髪の魔女は終始うつむき加減の困り顔で、膝の上に小さく拳をつくったままだった。そして、控えめな上目遣いで、彼の様子を伺いつつ、こう言った。
「私、魔女になってからそんなに経ってないし、こんな事はじめてだから、あんまり上手に出来ないかもしれないけど、それでも良い?」
シズマが承服すると、茶髪の魔女は桃色を差した頰を綻ばせ、向日葵のように笑った。
そして、シズマに耳を寄せるよう仕草で促すと、声を潜めて、金髪の魔女が言っていた事はあまり気にしなくても良い、という意味の事を言った。
「実は私も難しくってあんまりよくわかってないんだ」
そう言って彼女は、茶目っぽい焦げ茶の瞳を片方瞑り、小さく舌を出した。
「一生懸命やるから、一緒にがんばろう?」
シズマと茶髪の魔女の間に一旦の合意が形成されると、事の成り行きを窺っていたのか、金髪の魔女が半目と口を開いた。
「話はついたようですね。ならば、渡しておくものがあります」
金髪の魔女は三本のシリンダー付きの試験管のようなものを取り出した。
「見ての通り、霊薬です。どうにもならない時には、これを使うと良いでしょう。もっととも、使ったらどうなるのかは誰にもわかりません。記録は何も残っていませんから。そもそもは劇物なのですから毒も薬も同じなのです。なんであれ、この場にあってはこの三本が全て。如何に優れた魔女であっても産み出す事ができるのは月に一度の一本だけなのですから、使わざるを得ない状況に追い込まれない事が一番でしょうね」
シズマは三本の霊薬を受け取ると、コートの内に収めた。
そして、茶髪の魔女に言われるまま膝を屈め、右手を差し出し、目を伏せた。
魔女は何事かの呪文を唱え始めた。見えざる世界の外側で、何かが始まった。
それはおそらく、一つの奔流だった。あるいは打ち込まれた一つの楔であった。
それは、シズマの手の甲から手の平を貫いて、温い絹糸の滝のように流れ出した。
それはエーテルの柱であり、ごく小さな間-世界の枢軸、世界樹の若木のようだった。
シズマはその枝を手折った。それは彼の右手に預けられた魔女の杖だった。
魔女が更なる呪文を唱えると、杖は揺らいで、糸滝に解けていった。
それが放つ淡い水色の光は、帯のように、柱のように、幹のように広がって、シズマを包み込み、気がつくと彼は魔女の屋根裏部屋ではない、別の場所に立っていた。




