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ハルト Ⅰ - ⑤

 *


 青年は、カフェカウンターでSサイズのブレンドコーヒーを二つ買うと、一つを当たり前のようにハルトの前に置いた。カップの蓋の上には、砂糖とミルクと小ぶりのマドラーが置かれていた。

「男なら取り敢えずブラックなんて人が未だに多いけど、実際は胃に良くないらしいんだよね。知り合いに疲労が溜まっている時に、ブラックコーヒー飲み続けて胃を壊したって人がいて、それ以来、必ず何かは入れるようにしてる」

 まぁ単純に甘いのが好きなだけなんだけどね、と苦笑しながら、青年はコーヒーフレッシュの容器を開け、中身を黒い液体に注いだ。混じった白い色がマドラーにかき混ざられて、やがて全体が茶色く染まっていった。

「謝らなきゃいけないね」

 青年は面目なさそうにしているが、ハルトには青年に謝られる義理などなかった。

 別に再会を約束したわけではないし、青年が簡単に口にした事をハルトができるわけでもない。しかし、青年はハルトがコーヒーカップの蓋をそのままにしている事も特に気にする風でもなく、話を続けた。

「あの後、またすぐにここに来ようと思ってたんだ。エーテルのことも、キミのことも気になってたし。でも、さっき聞こえてたかもしれないけど、急にフィリピンで合宿することになっちゃって。できれば、キミみたいな頭の良い子にも来て貰いたかったんだけど、さすがにタイミングがね」

 そこで青年は、「申し遅れたけど」と前置きして、ハルトの俯いた目線の先、コーヒーカップのすぐ傍に名刺を差し出した。

 名刺には、まず一番上に『非営利相互補助ネットワーク <蓬莱の仲間たち>』とあり、その下に『代表』として、青年の名前が大きく記されていた。

「ウラガって言います。よろしく」

 青年は冗談めかして、あえて改まった口調でそう名乗った。

 ハルトはそれに小さく会釈をして返すのが精一杯だったが、ウラガも踏み込んでハルトの名前を訊いたりはしなかった。その代わり、名刺を裏返してカラー印刷された小さな写真を露わにした。いかにも貧しい身なりをしたアジア人の子供達が、ハルトには考えられないような明るい表情で、ゴミ袋を腕いっぱいに抱えている写真だった。

 ハルトは思わずその画像に視線を惹かれてしまい、ウラガに目でその意を問うと、青年は小さく頷き、コーヒーの香りを嗅ぎながら遠くを見るようにして語り出した。

「フィリピンの南側にミンダナオって島があるんだけどね。そこはまだまだ開発が及んでない所が多い地域なんだ。ちょっとした縁があって、急遽みんなでそこに行くことになって。あぁ、みんなって言うのは、同じ <仲間たち>のことね。 なんか長ったらしいから、オレたちは取り敢えず自分たちのことをそう呼んでるんだけど」

 ウラガは、<仲間たち>が「夏合宿」の間に出会った様々な人々や事柄について語った。

 フィリピンの人たちってとにかくすごいパワフルで、エネルギッシュなんだ。

 何に対してもチャレンジするって気持ちが強くてね、色々難癖つけて無理だって決めつけてしまう前に、とにかくやってみよう、ダメだったら考えようって人が多くて。

 もちろん、日本に比べて不便な事もかなり多いんだけど。でも訊いてみると、以前よりはずっと良くなったんだって。今の大統領になってから、島がたくさんあって方向性もそれぞれバラバラだったフィリピンがある程度一つにまとまって、汚職もぐっと減って、開発も必要としている人たちのところに行き届くようになったらしいよ。

 もちろん、大統領のやり方や言動もちょっと過激なところがあるし、日本と同じようにアメリカと距離をとって、ロシアに接近している国だから、欧米にはよく非難されてるみたいだけど、でもそんなのフィリピンの人たちからしたら関係ないよね。

 ウラガはそれ以上、政治的な話題に深入りはせず、南の島の豊かな自然環境と、開発を進める一方で、そうした自然を守ろうとしている人々について語った。

 ハルトにとって、外国とはそこがアジアであろうとヨーロッパであろうと本の中の場所でしかなかったから、ウラガの饒舌だが落ち着いた語り口にいつしか聞き入っていた。

 かつて本を読みながらあれこれと想像していたことが青年の体験談を触媒にして、あっという間に膨れあがり、貧相だった肉付けや粗雑だった細部が埋め合わされていって、それはハルトにとって、これまでに味わった事のない、とても楽しい感覚になっていた。

「それにね、フィリピンに行って一番驚いたのは能力者の子どもたちが当たり前に能力

を使って、自分も周りもそれを当然のこととして受け入れてるってことだったんだ」

 そこが日本と一番違ってる所かな、とウラガは声の調子を変えて言った。

 エーテルっていうよく分からないものを、分からないからと言って排除してしまうんじゃなくて、ごく自然体で、出てしまうものは出てしまうんだからしょうがないって考えで、受け入れてる。それって当たり前のようでいて、スゴい事なんじゃないかなって。

 日本は元は〝大衆主義諸国(オクロクラッツ)〞の先進国だったとは言え、そういう点ではフィリピンよりずっと遅れているんじゃないかな。もしかしたら、フィリピンだけじゃなく、今は日本もロシア側の〝有能者主義諸国(アリストクラッツ)〞になっているわけだけど、その中では一番、後進国になっていると言えるかもしれない。

 ウラガが最後にエーテルや能力者の問題を持ち出したので、和らいでいたハルトの表情は急に曇る事になった。

 豊穣の色彩に満ちた異世界からあまりにもあっけなく、現実へと引き戻されてしまったハルトが覚えた虚しさは、おそらくウラガには想像し得ないものであった。

 実際、黒い髪と黒縁眼鏡の青年は、窓の外の風景よりずっと遠くにある外国の記憶から意識を戻すと、晴れ上がった表情でハルトを見た。

「そんな時、 キミのことをふっと思い出したんだ。いや、この言い方は正確じゃないかな。本当はずっとキミにも合宿に来てほしかったと思ってたんだ。でも、さすがにこないだ会ったばかりでいきなり誘ったりはできないからね」

 話がこの間の方向に向き始めた事を察してハルトは弱ってしまったが、その場で席を立つ事も怖くて、彼は座ったままウラガの話を聞いていることしかできなかった。

 青年がどうして自分にそんな優しい微笑みを向けるのか、ハルトにはわからなかった。

 親切にしてもらっても自分には何も返せるものがないとわかっていたから、彼はますます萎縮した。青年や、その話の中に出てきた<仲間たち>はただ眩しく思えて、そんな自分とは一生縁のなさそうな人たちがどうして自分に関わろうとしてくるのか、それがわからず、ハルトは余計に困惑していた。

「前にも言ったと思うけど、エーテルについては一度正しい知識を身につけておかないといけないとは思ってたんだ。今まではSNSとかにかまけてしまって、ついつい先延ばしにしてしまってきたけど、フィリピンに実際に行ってみて、アジアの現在の姿を知ってしまったら、もう先送りはできないよね、っていうのがオレたちの現状」

 ウラガはハルトの側に身を乗り出したが、ハルトは固まったままだった。

「だからオレたちは今、エーテルについて一緒に勉強してくれる仲間を探してる。もちろん、オレたちだけでやってもいいんだけど、エーテルについても能力者についても本当に何も知らないからね。そういう人たちばかりで素人談義してたって、話がおかしな方向に行っちゃって結局何もわからないまま、てことになりかねないからね。だから、ある程度、筋道をつけてくれる人がいればいいなって思ってるんだ。もちろん、専門的なことはわからなくてもいい。そういう深いところはみんなで一緒にやっていけばいいんだから。でも、そんなことより何より、オレたち<仲間たち>はいつでも新しい仲間が来てくれるのを心待ちにしている」

 ハルトが氷のように本の装丁を見つめていても、ウラガは構わず訴え続けた。

「実は、七月の終わりにキミと会ったって話はもう他の<仲間たち>とシェアしてあるんだ。そしたら、みんなも是非キミに会ってみたいって言っててね。そこで回りくどくなっちゃったけど、今日は一応<仲間たち>の代表としてキミを招待しに来たんだ」

 どうかな、とウラガはハルトの反応を伺った。

 ハルトは恐れていた事が遂にやってきてしまった事を知った。そして、今日の今まで、それに対応する為の方法を何ひとつとして思いつけなかった事もわかっていた。

 確かに、ハルトは能力者だった。

 だが、知らない人ともすぐに打ち解けて、何の気兼ねもなく言葉を交わす事ができてしまうような便利で優秀な能力を持っている訳ではなかった。

 そもそも、夏休みに気軽に海外へと遊びに出かけてしまうような人達は、ハルトにとって別世界の住人だった。ウラガの話を聞いていると、<仲間たち>の誰もが能力者ならずとも、何がしかの一芸に秀でた人達のように思えてしまって、尚更ハルトの感覚はついていけなかった。

 そんな凄い人達に混じって、ただのFランク能力者に過ぎない彼が、エーテルや能力者の問題について何かを言える筈がなかった。

「まぁ、いきなりこんなこと言われても困るよね」

 ウラガがそう言って一旦引いてくれた事に、ハルトは少なからず救われた。

「でも、一度考えてみて。オレたちは、みんなそれぞれ自分のやりたいことや夢を追いかけながら、その一方で一人一人の問題もみんなの問題として取り組むことにしてる。だからこそ、オレたちは<仲間たち>なんだ。もしキミにやりたい事や叶えたい夢があるんだったら、オレたちはそれを応援するよ。というより、応援させて欲しい」

 青年は名刺に書かれたSNSのアカウントを示すと、ハルトの前に置かれた蓋がされたままのコーヒーカップに気がついた。 

「もう冷めちゃったね」

 ウラガは軽快に紙のカップを持ち上げると、帰り際にもう一杯のコーヒーを買って、ハルトの前に置いていった。

「良かったら、飲んでね」

 冷めたコーヒーカップを持って図書館を出て行った青年の姿は直にガラス壁の向こうに見えるようになった。ウラガはしばらく路上でスマートフォンを弄っていたが、やがて大きなバンがやって来た。停車したクルマのスライドドアが開き、ステップに足をかけたウラガはそこで一旦振り返り、ガラス壁越しにハルトの方へ笑顔で手を振った。

 ばつが悪くなったハルトは失礼だとわかりながらも固まった体を動かせず、ただ視線を逸らして、偶然目が合った風に誤魔化すしかなかった。

 青年を乗せたクルマが去って行って、しばらく経ってから、ようやくハルトは全身を弛緩させる事ができた。

 館内は冷房がそこそこ効いているはずなのに、背中を嫌な汗がつたっていた。

 何もしていないのに、頭にも体にも疲れがどっと湧いていた。

 少しの後、ハルトはようやく体を動かす気になって、手をカウンターの上に伸ばした。

 本の表紙をめくるはずが、まだ熱いコーヒーカップを掴んでいた。

 ミルクと砂糖を入れてから、ハルトはカップに口をつけた。  苦い味はあまり好きになれそうにはなかったが、それ以上に、暖かい飲み物はハルトの過敏になった神経を適度に宥めてくれた。

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