ハルト Ⅰ - ④
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青年は「またね」と言っていたが、ハルトはもう会いたいとは思わなかった。
あの時はたまたま有耶無耶になってくれたが、変に話しかけられたり、再び過大な要求をされたりすることを想像すると苦痛でしかなかった。
図書館にはすっかり行きづらくなってしまったが、かといって他に行ける場所があるわけでもなかった。部屋の中でじっとしていても、時間はただ過ぎてはいかず、お腹が空いていくだけだった。本を借りてこようにも、以前に目の前で破かれたり汚されたりしたことを思い出してしまうと、家に本を持ってくること自体が憚られてしまった。
ハルトは思い切ってまた図書館へ足を運ぶ事にした。幸い、書架スペースにもカフェスペースにも青年の姿はなく、彼は安堵した。
ハルトは誰にも声をかけられない安らぎを噛み締め、空腹を水で紛らわせながら、本を読み進めた。図書館には時々、ハルトと同じくらいの年頃のジャージ姿の学生たちの集団が大きな声ではしゃぎながらやってきて、自習ブースへと消えていった。その時だけは、ハルトはどうしても耳をそばだて、「弄り」の標的にされたりしないかどうか、不安に駆られながら身を固くしていなければならなかった。
それは仕方のない事ではあった。郊外の住宅地で他に行く所がないのはハルトに限った話ではなかったのだから。
そのように居心地を悪く感じてしまう瞬間はあるにせよ、夏休みの間、総じて図書館はハルトにとって少なくとも家や学園よりはずっと落ち着くことのできる場所だった。
結局、あの青年は次の日もその次の日も図書館に姿を見せる事はなかったし、おそらくはこの街の住民ではなかったのかもしれなかった。ハルトには他に話しかけてきたりするような知人友人の類は一切いなかったから古書に没頭する事ができた。
ただ、本を読むにしても知りたい所に関連しそうな部分にだけ目を通すくらいに留めておけば良いものを、ハルトは書かれている文字を隅から隅まで隈なく摂取しなければ、その本をちゃんと読んだ事にはならない気がしてしまって、あげくノートまで取っていたものだから、いつの間にか本を読んでいるのか写本を作っているのか、良くわからない状態になってしまっていた。
何をやるにしても、ハルトは要領が悪かった。
『天体論』や『生成消滅論』を読み進めている間にも自分が正しく理解できているのか、どうしても気になってしまい、前巻の『自然学』を何度も読み返す羽目に陥って、ハルトがそれらの本を読み終える頃には八月の終わりに近づいていた。
それに夏休みの宿題として出されていたロシア語やエーテル力学の課題を片付けるにも、手を付けるのが遅かったにせよ、のろのろと時間をかけてしまって、最後の『気象論』に取り組み始めた頃にはもう翌日は始業式という日付になっていた。
この読書は別に課題の自由研究でも何でもなかったし、自然学の次にある倫理学についての著作にはさほどの興味がある訳ではなかったので焦る必要もなかったのだが、ハルトはどうしてか、この夏の間に古典期のエーテル論についてまとめておかなければならない気がしていた。
またいつか「エーテルについて教えてくれ」と言われてしまっても良いように。
もっとも、その日が今日明日になるとは考えていなかったが。
やがて必ずやって来るテストや卒業、そして、その先にある将来と真正面から向き合うことを今はまだ猶予してしまっていることと同じように。
だから、図書の貸出カウンターから中年女性のヒステリックな叫びが聞こえた時も、ハルトは悠長に、未だ慣れない「けだし」という接続詞に気を取られていた。
「あなた、私にこれを捨てろっていうの!?」
成人女性の甲高い吠え声は、騒動とは無縁のカフェスペースに座る無関係なはずのハルトの背筋を無条件に凍らせた。
館内の利用者の幾人かはカウンターの方へと振り向いたが、それが自分には関係のない、立ち入るべき問題ではないとわかると、すぐに自分の用件へと戻って行った。
ハルトだけが、どうしてか自分まで怒鳴られているような気になって浮足立っていた。
「寄贈図書の受け入れは資料の収集方針に従って行っておりまして」
カウンターの上に横倒しにどかんと置かれた紙袋から転げ落ちる大量の本を挟んで、若手の男性が声を荒げる女性に朴訥と応対していたが、その剣幕によってすぐに言葉を遮られてしまった。
「なんなの、その言い方は! 気分が悪い! 不快でしょう! これだけ集めるのがどれだけ大変だったか、わかってるの!? ここに持ってくるのだって、重くて重くて本当に大変だったのに! あなたはね、人の気持ちを全然考えてない!」
感情的にまくし立てられても、男性職員は先と同様の言葉を繰り返すだった。
「当館では、寄贈図書の受け入れを調査研究の為の報告書や郷土資料に限らせて頂いておりまして、その他の図書は希望リストにあるもののみを」
「そんなことどうだっていいでしょ! ここにあるものはね、そんなどうでもいいのとは違って、どれも素晴らしい作品なの! うちにはどうしても置いておけなくなってきたけど、捨てるのなんてもったいなくて、できないでしょう! あなたなんかは知らないでしょうけどね、『もったいない』って日本の言葉は世界中で使われてるの! 図書館にでも置いておいたら貧しい人でも見れると思って、持ってきてあげたのに! それなのに、そんな態度で、本当に不快!」
それでも通り一辺倒の回答しかできない男性職員に、業を煮やした女性はカウンターを何度も叩いて、叫んだ。
「もういい! あなたなんかじゃ話にならない! 上の人を呼んで!」
この時まで、男性職員と女性の間に入る者は誰一人としていなかった。
カウンターの内側にいる他の職員もそれぞれ自分の仕事に集中していて、上司らしき者もその場には不在だった。
また、利用者の側にも図書の寄贈を希望する女性の肩を持つ者はいなかった。
だが、その時ちょうど、カウンター近くのゲートが開いて、一人の青年が入館してきた。遠くから事態の成り行きを固唾を飲んで見守っていたハルトは、落ち着いた黒髪と黒縁眼鏡の入館者がこの間の青年だという事に気づき、思わず首を竦めた。
青年の方はハルトに気づいた様子もなく、それよりもむしろ目の前のいざこざに注意を向けて、即座に事態を理解すると、例の柔らかな口調で女性に声をかけた。
「上の人ではないんですが」
青年はジャケットの内ポケットからカードケースを取り出し、慣れた手捌きでそこから一枚の名刺を抜き出して、恭しい仕草でそれを差し出した。
「もしよかったら、あなたの大切な本、オレたちに預けてもらえませんか」
唐突に話に割って入ってきた男に、女性はあからさまに不信な目を向けていたが、名刺を受け取り、それを一瞥すると少し態度が変わった。
「あなたたち、何をやってる人なの?」
「オレたちは日本で不要になった物を、海外の人たちに届ける活動をしているんです」
「そう、ボランティアなのね!」
機嫌を良くした女性に直接答えず、青年はにこやかに言った。
「今はフィリピンの事業者と付き合いがあって」
裏返した名刺をしげしげと眺めていた女性は、事業の流れを説明しようとする青年の話の途中で、喜色に富んだ声をあげた。
「アジアの恵まれない子どもたちに寄付をしているのね!」
「日本では要らなくなった物でも、海外では必要としているところがありますから」
「そうでしょうね! 物を大切にするのは日本の文化だから! じゃあ、あなたに預けたら、この本も貧しい子どもたちに届けてもらえるのね!」
「きっとそうなると思います」
「そう! じゃあ、この本全部持って行って! こんな図書館に置いておくくらいならアジアの心のきれいな子どもたちに読んでもらった方が本だって嬉しいでしょうね! どれも本当に感動してしまう美しい物語ばかりだもの! きっと喜んでもらえるでしょう。あなたもつまらないガラクタを持ち込むくらいだったら、その方が良いものね。日本はね、物はいっぱいあるけれど心が貧しい人が多いのよ!」
言葉の最後は、カウンターの内側で未だ棒立ちし続けている男性職員へ投げかけられていた。女性は急いで本を掻き集めると紙袋に戻し、それを青年に突き出した。
「お預かりします」
優しい微笑みと共に青年が紙袋の中の大量の本を受け取ると、女性は満足したのか、「目のキラキラした子どもたちによろしくね」と言って、図書館を後にした。
残された青年は紙袋の中を覗き、男性職員に肩をすくめて見せた。そして、視線に気づいたのか、こちらに振り向いた。ハルトは慌てて首を引っ込めたが、もう遅かった。
青年はハルトに向かって手をあげた。