ハルト Ⅰ - ③
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若い母親は憤然とベビーカーを押して、図書館から出て行った。
年輩の男性客は「最初からそう言ってたんだ」「こういう時は真っ先に来て、注意するのがお前たちの仕事だろう」「こういうことでは他の人たちからも言われるよ。この図書館の評判が悪くなるぞ」「お前たちの為を思って言ってやってるんだ」と職員に苦情を言っていたが、職員が「はい」「申し訳ございません」「はい」と神妙に話を聞いていた事で多少の溜飲が下がったのか、やがて元いた席へと戻っていった。
青年はまたハルトの隣にやってきた。そして、椅子に座ったまま、まだ体を折り曲げた状態でいるハルトを気遣った。
「大丈夫?」
見ず知らずの青年に余計な気を遣わせてしまっている事を、ハルトは心苦しく思った。
その時はまだ全身に鋲を打つような圧迫感がようやく薄らいできたばかりで声を出せるだけの余裕はなかったが、それでも彼はなんとか頷いてみせた。
「なら良かった」
青年は椅子に腰掛けず、その背もたれに寄りかかるようにしながら、ハルトが落ち着くのを待っていた。頃合いを見計らって、青年はハルトに問いかけた。
「あれで良かったかな。どう思う?」
ハルトは思わず青年を見上げた。そんな風に物事を訊かれたのは初めてだった。
「色々余計だったな、って自分では後悔してる。あのお母さんも、もしかしたら初めての子育てで、なかなか上手くいかなくて、でも一人でがんばらなくちゃいけなくて、すごくつらかったのかもしれないし。あのお爺さんだって、ちょっと強い言い方だったけど、マナーを守るように言っただけだしね。もちろん、子供は泣くのが仕事なことくらいわかるだろうとは思うけど、もしかしたら家の近くに保育園ができてどうにも落ち着かなくて、それで日中はこっちに来てたとかそういう事情があったのかもしれない」
全部、想像に過ぎないけどね。青年はそう言って、苦笑してみせた。
ハルトは相変わらず上手い具合に言葉を返す事ができなかったが、それは先程までそうであったように困惑だけが原因ではなかった。
青年は自らの行いを省みた。ハルトが見てきた中で、そういう大人は初めてだった。
「でも、最終的にあの子が笑ってくれたからいいか」
ハルトが無言でいると、その間に青年は良い方向へと考え直し始めていた。
「オレは反省が大事だと思ってるけど、それは次に進むための材料にする為だとも思ってる。後悔してるだけでは何も始まらないからね。やらなきゃと思ったらやってみて、ダメだったら反省して次に活かせば良い。できるだけ前向きに考えたいんだ」
青年はどこか遠くを見ながら、そう語った。そしてハルトの方へ振り向くと、例の柔らかい、底抜けに明るい笑顔を見せて、別れを告げた。
「それじゃ、またね」
ハルトが反応する間も無く、青年は図書館を出て行った。
後に一人残されたハルトはすぐには読書を再開できなかった。
特に理由もなく、呆然とガラス壁の向こうを見ていた。
曇り空の色と同じアスファルトの上に、図書館帰りの中学生らしき女の子と小学生く
らいの男の子が手を繋いだまま並んで立っていた。迎えのクルマは直ぐにやってきて、
子供達が嬉々として乗り込むと、あっという間に図書館を離れていった。
それ以外には何もなかった。
見ず知らずの人やクルマが疎らに行き来していただけだった。
ハルトはやがて分厚い装丁の本を開き、必要以上に時間をかけて、ようやく読み進め
ていたページを探し出すと、古書の匂いと厳めしいフォントの中に意識を埋没させた。