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ハルト Ⅰ - ②

 *


 青年は相変わらずの調子で、尚も話を続けた。

「でも、わかんないな。アリストテレスって昔の人だろ? エーテルが出てきたのは割と最近じゃないか。そんな昔の本を読んで、何かわかるの?」

 青年はそう言って首を傾げたが、ハルトの視線は手元にある本の背表紙を彷徨っていた。『アリストテレス全集』『天体論』という文字の輪郭を何度も空でなぞり、上から下まで何度も往復した。

 どうして、この人は自分に話しかけてきたのだろう。

 どうして、この人はそんな事を訊いてくるのだろう。

 どうして、この人はエーテルの話を声も抑えず続けるのだろう。

 どうして、青年はハルトが生まれるよりも前の事を「最近」なんて言うのだろう。

 ハルトが幾つもの疑問に頭を悩ませていると、青年は言い方を変えた。

「エーテルってよくわからないよね。未知のエネルギーとか、劣化エーテルは一般人にも影響があるとか色々言われるけど、話ばかり大きくなって実態が見えないというか」

 青年がハルトの反応を伺っているのがわかった。

 しかし、それがわかったところで、どう答えたら良いのかがわかるわけではない。一体何が求められているのか、一体どうしたら良いのか、皆目見当もつかなかった。

 正直に言って、もう放っておいてほしかった。早く本が読みたかった。書物の中の世界に戻りたかった。

「本って面白いよね。自分が知らなかった事をたくさん教えてくれる」

 ハルトが僅かに顔を上げると、青年はそれよりもっと上を見ながら話し続けていた。

「実は前々からエーテルについては一回ちゃんと勉強しなきゃいけないなって思ってたんだ。今の世の中、色んな問題が山積みだからこそ、一つ一つ真剣に考えていかなきゃいけないと思うし。エーテルや能力者はロシア帝国ができてから現在までの世界を規定する重要なファクターだからね。でも、なかなか時間がとれないし、オレの場合ついSNSとかで時間潰しちゃったりして。それに、この問題って結局誰の言う事を信用したら良いか分からないところがある。専門家っていう人たちもそれぞれ言ってることが違うし。エーテルは火力、原子力に次ぐ新しいエネルギーになり得るとか、それを生み出せる能力者人材を資源や兵器開発の素体として確保するために国家間で争奪戦が行われてて、それが世界的な問題になってるとか、それどころかエーテルとは抽象性そのものだ、なんて言い出す人がいたりするんだから、もうなんでもありだよね」

 青年はそこで言葉を切って、にこやかにハルトの方へ振り向いた。

「いきなりこんな事を言うのもなんだけど、もし良かったらエーテルについてオレたちに教えてくれないかな?」

 ハルトは面食らって、一度は持ち上げかけた頭をまた沈めてしまった。

 見知らぬ人に突然エーテルについて教えてくれと頼まれて、どう反応したら良いのか

分からなかった。ハルトはただ本を読んでいただけだ。第一線の研究者や権威ある学者などでは決してなかったし、エーテルを専門的に学んでいる大学生という訳でもなかった。

 エーテルについて本当に知りたいというのなら、この図書館にだってそれこそエーテルや能力者問題を扱った解説書の類はあるのだから、それを読めば良かった。なのに、どうしてただの高校生にしか見えないハルトにそんなことを言ってくるのか、まるで意味がわからなかったし、意図も読めなかった。

 それとも、この青年はハルトが〝学園〞の生徒であると知っているのだろうか。

 それは恐ろしい想像だった。真っ白になった頭の中を真っ青にしたが、ハルトの過度

な心配を他所に、青年はマイペースに話を続けた。

「もちろん自分で読んで地道に調べればいいじゃないかって話なんだけどね。でも、本といったって中には良い本もあれば、悪い本もあるからさ。変な本を読むくらいならネットで調べた方が良いんじゃないかっていう。それで気づいたらSNS触っちゃってて、結局それで一日過ぎちゃったりする」

 青年はそこで声をたてて、屈託なく笑った。

「それに、本で読んだ知識で分かった気になるくらいなら人から直接聞いた方が良いと思ってるんだ。その方が生の声を聞いたことになると思うし。本やネット越しだと、なかなか書いた人がどういう人なのかわからない。ちゃんと会って聞かなければ信用できる人が書いているのか、正確な知識や情報を元に書いているのか、そういうことが判断できないからね。その点、君はとても真面目そうだし、本もたくさん読んでるみたいだから頭も良さそうだ。誠実そうで、嘘を言うようには思えない。どうかな?」

 にわかに褒めそやされて、ハルトはひどく混乱した。

 青年の眼鏡越しに覗く柔らかな表情を見れば、ハルトにも先の想像が杞憂に過ぎないとは理解できたが、だからといって彼がいきなり饒舌になれるわけでもなかった。

 ハルトからすれば、確証もなく他人を疑ってしまったことに罪悪感を覚えてしまったし、ありもしない物事を必要以上に恐れてしまった自分が情けなかった。

 口を余計に堅く結び、小柄な身をますます小さくしながら、ハルトは「穴があったら入りたい」という慣用句を思い出していた。俯いたまま熱くなった身を強張らせて、過ぎ去る時が事態を運び去ってくれる事を待っていた。

 青年は何も言わなかった。時間がかかろうともハルトの言葉を待っているようにも思えたが、それがハルトの願望ではないと確証することもできなかった。

 そのうち、背中越しに子供の泣き声が聞こえてきた。静かな図書館に幼児の甲高い癇癪はひどく目立った。次いで母親が乱暴な口調でそれを咎めるのが聞こえた。

 ハルトは総毛立った。気が気ではなかった。

「泣いてるね」

 ハルトが何に気をとられているのか気付いたわけではないだろうが、青年は特に苛立つ様子もなく、穏やかに視線の行先を変えた。青年がベビーカーに注意を向けてくれたおかげで、ハルトも恐る恐る首を巡らし、そちらを向くことができた。

「泣くなって言ってんだろ!」

 まだ若い母親はベビーカーの中の子供を口汚く怒鳴りつけた。

 ハルトは自分が叱られているわけでもないのに怯えた。怒声や罵声は彼の耳にこびりついていて、ふとした弾みに彼を襲った。

 ハルトがそこに凍りついている間、業を煮やした母親はついに子供を殴りつけた。

 子供がまだ一段と大きな声で泣き喚くと、母親は「泣き止めって言ってんだよ!」とさらに苛立ち、子供の頭を執拗に小突いた。

 一連の光景を見て、ハルトは目を白黒させた。どうにもならない焦燥感に駆られ、全身の血が青褪めていくかのような錯覚に蝕まれた。じっと息を止めたまま、立ち上がる事も、直視する事も出来ず、何もできないまま、ただ目を伏せて椅子に座っていた。僅かでも体を動かしたり、目が合ったりしてしまったら。間違った事や気に入らない事をしてしまったら。きっと、恐ろしい怒鳴り声と拳に襲われてしまうに違いなかった。

 ハルトが指一本も動かせずにいる間にも、さんざん叱られ、殴られた子供は泣き続けていた。周りの利用客も何事かと注意を向けたが、それだけだった。

 中年の男性が新聞を揺さぶり、紙が擦れる音を立てた。

 女性作家のエッセイ集から顔を上げ、一時、気の毒そうに小さな子供を見遣っていた中年の女性も、色落ちした茶髪の黒いスウェットの上下を着た若い母親にわざわざ声をかけてまで、自ら火の粉を被ろうとはしなかった。

 学生たちはスマートフォンに繋がったイヤフォンや目の前のテキストから注意を逸らそうとはせず、他の大人たちも大なり小なり、似たような反応だった。黙っていれば過ぎていく事を、少し我慢すれば済む事をわざわざトラブルにする必要などなかった。

 やがて耳障りな子供の泣き声に神経を掻き乱される事に耐えられなかったのか、年輩の男性がベビーカーの親子に近づいていくと強い口調で文句を言った。

「うるさいな、外でやれ!」 「うるせえってなんだよ、テメェの方がうるせえんだよ!」

 自分の年齢の半分もないであろう娘に語気荒く言い返されて、相当頭に来たらしく、年配の男性は図書館中に響き渡るような声量で更に言い返した。

「うるさいのはお前たちだろうが。子供なんか連れてくるな!」

「は、こいつマジうぜぇ」

「目上に対する口の利き方がなってないんだよ、お前は!」

「お前、お前ってなんなんだよテメェ!」

 二人の大人が怒鳴り散らす様に、ベビーカーの中の子供はますます怯えて泣き喚いた。

 ハルトは自分が当事者でもないのに、言いようのない圧迫感に胸を焼かれていた。

 どうにかしたいと思っているはずなのに、足の先に凍った杭が打ち込まれ、手には熱い重りが着けられているかのように、その場に釘付けだった。体を折り曲げるように胸を押さえて、荒れる呼吸を堪えていた。

 その時、ハルトの横で微かな風が流れ、黒い人影が俯いた彼の視界を掠った。

 それはさっきまでハルトの隣にいた青年で、彼はマイペースな足取りで二人の大人の脇を擦り抜けると、ベビーカーに近寄り、泣いている子供を覗き込んだ。

「ようし、いい子だ」

 青年は、その場の険悪な雰囲気からは程遠い、例の柔らかな口調で泣いている子供に話しかけた。突然現れた闖入者に母親は当惑し、当然の事だが青年に食ってかかった。

「おい、いきなりなんなんだよ!」

 若い母親に微笑で返すと、青年は子供をあやすように手を広げたり閉じたりして、ふと服の袖から一輪の造花を出す手品を披露した。勿論、子供はそれだけで泣き止まなかったが、一挿の花が瞬く間にアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、クリミア、ウンガリア、トルコ、シリア、イラク、イラン、インド、ミャンマー、ベトナム、インドネシア、フィリピンと次々に様々な国々の旗へと変わっていくと、やがて子供らしい笑い声をあげて、泣き顔を喜色に染めた。

「普段はなかなか泣き止んでもらえないんですが、この子はとてもお利口さんですね」

 青年は柔和な微笑みとともに、一瞬でたくさんの旗をどこかにしまった。

 若い母親は、藪から棒に間近で手品を披露する青年の珍奇な行動に面食らったのか、それとも柔らかな物腰で子供を褒められたことが満更でもなかったのか、顔を背けたままブツブツと文句を言って、それ以上いきり立つ事はなかった。 「子供騙しとは言いますけど、大人が思っている以上に子供って見てるんですよね」

 今度は年配の利用客に向かって、青年は苦笑とともに語りかけた。

「だから、下手な手品をすると全然ウケなかったりするし、こっちがイライラしてしま

うと、敏感にそれを感じ取って笑ってくれなかったりするんですよね」

 年輩の男性は青年の雰囲気に毒気を抜かれてしまったのか、それとも、間の抜けた言動に困惑したのか、もう何も言わなかった。

 そこに図書館の職員がやって来て、三人の大人達に「他の方のご迷惑になりますので、お静かに願います」と声をかけた。

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