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ハルト Ⅰ - ①

 *


 石上ハルトがウラガと初めて会ったのは建て替えられたばかりの市立図書館で、季節は夏、高校二年の一学期を終えてからちょうど七日の後、いい加減に現実を思い知らされた彼が古い書物の日焼けたページに向かって頭を垂れていた時のことだった。

 その日の天気が曇りだった事も良く憶えていた。

 というのも、そうでもなければ外壁代わりの巨大なクリスタルガラスに接したカフェスペースで、フリーの給水機から取ってきたカップで舌と喉を湿らせながら、古典世界に現を抜かすような真似はできなかったからだ。

「ここ、良いかな?」

 温和で人懐っこく、 だからこそ馴れ馴れしい声がしても、ハルトは初めそれが自分に向けられたものだとは理解できなかった。

「隣に座っても良いかな?」

 青年はもう一度、同じ趣旨の言葉を繰り返した。

 ハルトは立派な装幀が施された分厚く重たい書籍から、ぎこちなく顔をあげると、恐る恐る首を巡らして周囲を見回した。

 カフェスペースには、ハルトと同じように制服を着た学生たちが数名いて、それぞれ机に向かってノートを広げ、参考書や問題集に取り組んでいたり、あるいはスマートフォンを弄りながら息抜きをしたりしていた。

 勿論、それよりずっと数の多い年配の利用者達がめいめい新聞を広げたり、雑誌を眺めたり、刊行されてから時間が経ち、ようやく図書館に収蔵された著名作家の話題作や、歴史や政治、社会問題についての概説書を読んでいたりもした。

 また、ベビーカーの中で愚図る子供をあやす母親もいれば、大量の荷物を持ち込み、黒く長い爪をエアコンの冷気に曝すホームレスの姿もあった。

 しかし、席は他に空いていた。わざわざハルトの隣を選ぶ必要はなかった。

 意図がわからず、ハルトは困惑した。返答するどころか、反応を示すことができなかった。しかし、相手の青年はその沈黙を是と受け取ったらしく、あるいは初めから他に行く気などなかったのかもしれなかった。とにかく、青年はにっこり微笑むと、痩せ型で中背の体をあっという間にハルトの隣に滑り込ませてしまった。

 ハルトは呆気にとられ、そして首筋がにわかに熱くなるのを感じた。

 姉がいなくなって以来、彼をまともに扱う人間など殆どいなかった。だからといって受け答え一つ満足にできない自分を擁護できる筈もなかった。

 彼は自分を恥じた。そして、そういう自分をまたいつものように嘲笑われてしまうのではないかと気が気ではなく、ハルトの体は自然と身構え、その貧相な肩と丸まった背中には無意味に力が込められた。

 彼の予想は外れた。黒い髪に黒縁の眼鏡をかけた隣の青年は、小さな鼻歌を歌いながら窓の外の何でもない風景を眺めていた。

 ハルトは安堵した。それと同時に、青年の手元にある物に目を惹かれていた。

 それはアイスコーヒーの上にたっぷりと生クリームを盛った、舌を噛みそうな名前の飲み物だった。青年は慣れた手つきでストローを操り、白と黒とブラウンの複雑で魅力的な境界を綯い交ぜにしていたが、ハルトはそれが何なのかさえ知らなかった。

 日々の食費を考えれば、それはあまりに贅沢な買い物であったし、そもそもハルトもその家族だった人たちも、そういうものを愛飲するような文化的クラスターに所属してはいなかった。

 ただ、子供の頃から街のカフェを通り過ぎる度に、いつか姉と一緒にそれを飲んでみたいと夢想していたに過ぎなかった。

 所詮は絵に描いた餅だった。もはや自分の力では、どうにもならないことだった。

 ハルトはそっと目を逸らし、物音をたてないように細心の注意を払いながら再び古びた書物の色変わりした紙面に頭と意識を傾けた。そうすることで、周囲にある煩わしい種々雑多な物事から自分を隔てる事ができた。そうする事しか彼にはできなかった。

 そうしてハルトが難解な文言を何度も読み返しながら、少しずつ理解を進め、ようやく三ページほど読み進んだ頃。

「なに読んでるの?」

 突然、横から話しかけられた。ハルトは驚いて、体をびくつかせた。

「びっくりさせちゃったかな?」

 青年は微笑んでいた。ハルトは警戒し、反応に窮した。

 ハルトが何も言えずにいる間、青年はただ穏やかに彼の言葉を待ち続けていた。俯き加減に口ごもる彼を侮辱し、嘲笑ったりするような真似はしなかった。

 ハルトは頭が真っ白になっていた。見知らぬ人間にどうしていきなりそんな事を訊かれたのか、理由がわからなかったし、どうしてそれに答えなくてはいけないのかもわからなかった。青年はあまりにも簡単に、ハルトの側に踏み込み過ぎていた。

 ただ、相手は大人で、その機嫌を損ねてしまったらどうなるかわからなかった。もし、そうなってしまったら怒鳴られたり、殴られたりするかもしれなかった。

 それはハルトの条件反射だった。

 だから、できるだけ相手を傷つけず、悪い気持ちにさせず、それでいて自分の考えていることを正確に表す、ちょうどいい言葉を探さなくてはならなかった。

 だが、青年がいつまで自分を待ってくれるのかはわからなかった。遅くなればなるほど相手を苛々させてしまうだろうし、それとは逆に自分の言葉を待ってくれているのだとしたらなおさら待たせてしまうわけにはいかなかった。

 早く、早く、早く。答えなければならない。

 しかし、そう考えれば考えるほどハルトの頭は余計に回らなくなった。とにかく何かを言わなくてはならないが、張り詰めた緊張が彼に言葉を結ばせなかった。

 焦燥感がひたすらハルトを煽り立て、彼は縋るようにハードカバーの背表紙を見つめた。そこに金線で綴られた文字列を何度も視線で辿った。

「なに?」

 青年は体を寄せてきたが、その声色に咎める意図は見えず、威嚇や威圧の意図も感じられなかった。その様子に僅かな余裕を得たハルトは思い切って金文字で記された書物の題名を口にして、驚いた。

 久方振りに耳に入った自分の声は想像していた以上にひどく掠れて、惨めだった。

「え、なんだって?」

 案の定、聞き返されてしまってハルトはその場から逃げ出したくなった。

 顔から火が出るような思いがして、青年の目を見ることもできず、全身を強張らせた。

「アリス、なに?」

 相手は再び聞き返してきた。聞こえなかったのか、知らなかったのか。それともこれまでも良くある出来事であったように、からかっているだけなのか。どれでもハルトには同じことだった。頬を熱くした彼は意図せず、『天体論』『アリストテレス』と書かれた背表紙の金文字を指でなぞっていた。

 その仕草に気づいた青年は覗き込むようにして本の題名を読んだ。

「アリストテレス!」

 青年は弾かれたように小さく叫んだ。その声には明らかに喜色が混じり、そんな反応を今まで見た事がなかったから、ハルトは思わず青年の顔をまじまじと見つめてしまった。 青年は柔和な表情をますます綻ばせて、怒り出す気配は微塵も見えず、かえってハルトはどうしていいかわからなくなってしまった。

 呆然としているハルトに、青年は身を乗り出して言った。

「珍しいね、今時そんな本を読んでいるなんて」

 ハルトは体を引いて、青年の視線から目を逸らした。

 何と答えたら良いのか、わからなくて何も言えなかった。

 青年は、変わらぬハルトの消極的な態度にも機嫌を損ねた様子はなかった。彼にもっと大きな声で話すように強く命令したり滅茶苦茶に怒鳴りつけたりせず、席を寄せ、耳を近づけ、ハルトの言葉を懸命に聞き取ろうとしていた。

「いやぁ初めて見たなぁ、アリストテレス読んでる人」

 青年は改めて感心した風に言うと、また別の質問を投げかけてきた。

「なんで、それを読もうと思ったの?」

 ハルトは再び答えに窮した。それは答えづらい質問だった。その種の質問が一番苦手だった。それは時々、不意に襲ってきては彼を大いに悩ませた。学校の教室で休み時間に一人で本を読んでいたりすると、時々そうした憂き目に遭った。

 どうして本なんて読んでいるのか。

 そういう風に訊かれてしまうのは、教室で本を読んでいる生徒が他にいなかったからだ。なぜ本なんて読んでいるのか。なぜ〝スマホ〞を見ないのか。どうしてSNSをみんなと一緒にやらないのか。

 しかし、そうした問いかけには答えようがなかった。ハルトはスマートフォンもタブレットも持っていなかったし、持っていないものを見ることはできなかった。それはテレビだって同じことだった。姉が遺してくれたお金は大切に使いたかったし、どうしても必要な状況になるまでは我慢するつもりだった。

 だから、ハルトの手にあるのはタッチスクリーンが目立つ精密機械ではなく、図書館

で借りた本だった。ハルトが知らない世界や物事を教えてくれるのはいつだって本であり、それを読んでいる間は何もかも忘れることができた。それを教えてくれたのは、まだ幼かった頃ハルトとハルトの姉に親切にしてくれた唯一の大人、この図書館が建て替わった後少し後までここにいた司書だった。

 兎に角、ハルトにとって本は読むものだったのだ。しかし、同級生たちにはそれが感覚として理解できないことのようだった。 〝スマホ〞はあって当たり前のもので、皆がそれを使って何かを調べたり、遊んだり、コミュニケーションを取るのは自然なことだった。

 それは、二十世紀に生まれた人たちが何がなくともテレビの電源をぼんやりと点けている以上の何かであって、そのテレビよりも古臭い本を好んで読んでいる人というのは、それが参考書や問題集の類である場合を除いて、時間潰しの趣味に精を出す中高年か、自己啓発に余念のない成功者を気取った人かのどちらかだった。

 だから、みんなと同じ年頃のハルトが本を読んでいるということは、とても不自然なこととして扱われた。ハルトはクラスの輪にも加わらず、周りと同じこともできず、周囲を苛立たせた。ハルトは「陰気」で「暗い」、「気持ち悪い」「キャラ」だった。少なくとも、クラスの皆は大抵、ハルトにそうした値札をつけた。実際のところ、ハルトがどういう人間なのかは重要ではなかった。そこに異を唱えようとすれば、今度は自分にその値札がつけられてしまうのであれば何も言わないことが正解だった。なにかと皆と同じようにした方が得だったし、またそうすべきだった。こうした言外に示される圧力に、ハルトは何とか言い訳をして、うまく立ち回らなくてはならなかったのだが、彼がそんなに要領の良い人間なら初めから苦労などしていなかった。

 それにハルトにはもっと答えづらいことがあった。

 いつまでも黙っていることはできず、ハルトは周囲を憚りながら声を顰めて、ある単語を口にした。それは現代の社会問題に関心があるのなら、聞いたことのない者はいないような単語だった。

「ん、エーテル?」

 いかにも怪訝そうな反問を聞いて、ハルトは苦しくなった。とにかく頷くしかなかった。そして、やっぱり言わなければ良かったと後悔した。

「エーテルってあの? 能力者が出すやつ?」

 青年はまるで声のトーンを変えず、当たり前のようにその名詞を口にするので、ハルトは気が気ではなかった。周りにいる普通の人たちに聞かれてしまったら、どんな風に言われるか、わからなかった。周囲の反応に耳を尖らせながら、ハルトは青年を直視することもできず、口を噤んだまま表情を固くしていた。そもそも、この青年がどんな風に思っているかもわからなかった。

「すごいな、エーテルか。あれを勉強してるんだ」

 青年は、さも感心したかのように、しみじみと言った。少なくとも、拒絶反応は見られなかった。ハルトのおどおどした態度に腹を立てている様子も見えず、彼は少しだけ息を吐くことができた。

 あとは、青年がもう少し声を抑えてくれれば、申し分なかった。

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