ハルト Ⅱ - ⑥
*
投げ捨てられた財布を探していたら、下校時間を過ぎてしまった。
殆どの生徒はとっくに寮に引き上げていて、宵闇を間近に控えた通学路には、びっこを引きながら歩くハルトの影が一つあるきりだった。
それでも、自分の惨めで情けない、見すぼらしい背中を誰かが嘲笑っているのではないのかと首を竦め、びくびくと怯えながらハルトは坂道を下っていた。
幸い、誰かに出くわすこともなく、彼は学園を頂く丘の麓まで降りてくることができた。その代わり、破れた制服を隠す傘になってくれていた街路樹が途切れてしまって、彼は途方に暮れた。家まではあと少しだったが、大きな交差点と背の高い電灯の下をクルマがそれなりの交通量と結構な速度で走っていて、幅の広い歩道には疎らではあっても人通りがあった。
すっかり土に汚れ、ボタンはほつれ、所々裂けてしまった服を着たまま、人目のつく場所を歩くことに躊躇いを感じてしまう程度には、ハルトにも羞恥心はあった。
ハルトは俯き、首筋と顔を熱くしたまま、樹庇の下から動けずにいた。
そんな時だった。
交差点から少し離れた位置に一時停車している大きなクルマのライトが明滅すると、キャビンから一つの人影が降りてきた。
その人影はハルトの方にゆったりとした足取りで歩いてくる一方で、何かを確かめようとしているのか、こちらを遠見する仕草を見せた。
人影がちょうど街路灯の真下を横切った。
体格や体型、服装から察するに中肉中背の若い男性のようだった。
あまり視力の良くないハルトではあったが、眼鏡をかけていることがわかった。
男性はやがて何か得心したように頷くと、ハルトの方に向かって手を振ってきた。
ハルトには、それがどうしても自分に向けられたものとは思えず、かといって目を逸らすことも出来ないまま、全身を硬直させていた。
ただ、ぼやける視界の中で、何故か相手に見憶えがある気がして、しかし、どうにも今の状況と結びつけることも出来ず、ハルトはとうとう、結論が向こうからやって来て彼に声をかけてくれるまで、その場に呆と突っ立っていただけだった。
「奇遇だね、こんな所で会うなんて」
人影の主はウラガだった。彼は眼鏡の奥の目を柔和に細め、冗談めかして言った。
「なんて言うのはちょっとわざとらしいかな。実は、さっきクルマでここを通りかかった時、あれって思ったんだ。前、ここの図書館で会った子だったよなって。それでクルマ停めて、確かめてみようと思って。偶然だったら出来過ぎてるけど、でも最高のタイミングだからね。そしたら本当にそうなんだから、嬉しくてびっくりしちゃったよ」
ウラガは声を弾ませたが、暗がりの中、ハルトの様子に気がつくと顔色を変えた。
「もしかして怪我してる? 大丈夫?」
ハルトはいつものように視線を相手の足許に向けたまま、口篭った。
「何かあった? 転んだとか? それともケンカした?」
答えられないハルトに、ウラガは頭を振って状況を判断した。
「いや、そういうのは後でもいいんだ。まずは手当しよう。こっちにおいで」
ウラガはそう言ってくれたものの、ハルトは物怖じして誘いに乗ることが出来なかった。いきなりそんなことをして貰っても相手に悪いし、返せるものなど何もなかった。
人の好意を無碍にしようとするハルトに、ウラガは腹を立てないで言葉を重ねた。
「大丈夫だよ、後で見返りを要求したりなんかしない。クルマにはオレだけじゃなくて他に何人もいるし、こういうのが得意な人だっているから。女子だっているしね。それに、その制服だって、きっと何とかできると思う」
特に最後の一言に揺り動かされて、ハルトは重りがついたような足をようやく前に出すことができた。ウラガは、ほっとしたようにまた目を細めると、びっこを引くハルトを気遣いながら、彼を自分たちのクルマへと案内した。
ウラガと同じか少し年下くらいの女の人が窓から顔を出して、歓声をあげた。大学生くらいの男の人がスライドドアを開けて、二人がやってくるのを待っていた。
辺りはすっかり暗くなっていた。
明滅する信号機と疎らに照らす街路灯の他に明るい場所は、暖かそうな光が漏れてくるバンの車内だけだった。




