シズマ Ⅱ - ② - β v.s.氷晶の大猿
机と椅子がひしめき、月光に照らされた教室は逃げ回るには不向きだった。
僅かな罪悪感を踏み倒して、シズマは机の上に乗り上げ、不安定な足場として、振り回される大猿の腕を躱し続けた。
時計回りに円を描く彼の逃避行はすぐにも大猿に察知され、挙動の偏差を読まれて狙い撃ちにされたが、それもまたシズマにとってはまだ折り込み済みの展開だった。
大猿が放った強烈な一撃はシズマを横薙ぎにした。
シズマは左手の斧を盾にして、難を逃れようとした。
端から腕の一本が犠牲になる事は覚悟していたが、しかし、焦った茶髪の魔女が大急ぎで間に合わせた呪文の詠唱は、彼の知覚において紡がれて、その右手にある杖からエーテルの水泡を張り出させた。
泡擁魔法は大猿の拳を受け止め、それでも衝撃を完殺する事は叶わず、シズマは単純な運動方程式に従って、黒板に背中から叩きつけられた。
重力に引かれた彼の体は抵抗も出来ずに床までずり落ちた。
完全に動きを潰された彼は、もはや鼠や虫のように逃げ回る事はできなくなった。
勝負はついていた。
大猿が嗜虐的な笑みと共に、シズマを見下ろしていた。
その巨躯の周囲には、燦めく蒼氷のエーテルが巨大な水和結晶のようにそそり立ち、氷獄の拷問部屋となって、現実をこれ以上ない程に痛めつけ、責め苛んでいた。
シズマは右手の管銃を頭上に掲げて、引き金を引き、苦し紛れの真似事をした。
蓄積を失いつつある魔法の杖は、息切れした魔女の詠唱と共に、出涸らしのエーテルを渇水時のシャワーのように大猿の周囲にばら撒いた。
大猿は鼻を笑った。氷晶の顔面に器用な冷笑を浮かべた。
「これで終わりか。ザコってのはホントどうしようもねぇな。潰してやるよ、死ね」
初めの一言だけがシズマにとって相手に同意できる唯一にして最後の言明だった。
現象界に流出したエーテルはその抽象性故に現実という抵抗を受け、発散する。
しかし、それと同時に、現実もまたエーテルによって、その具象性を失う事になる。
大猿の能力は強力であり、より強く、より多くのエーテルが場に氾濫した。
現実の強度は限界まで削がれ、それは結果的に物質の剛性を極限まで緩めていた。
大猿の拳による破砕と漏出するエーテルによる侵蝕は、既に教室を抉りきっていた。
シズマが撃ったエーテルのシャワーはあたかもペットボトルの傘のように大猿に降りかかり、壊れやすい現実というガラスのフラスコを教室の真中に際立たせた。
その見えない密室で、大猿が腕を広げて脚を踏ん張り、いきり立ち、力強く、これ見よがしに吠え猛って、自らの能力を誇示していた。
大猿が氷晶の全身から解放した波状のエーテルは、能力者の望み通りにシズマ諸共、教室を津波のように破砕する筈だった。
しかし、教室はもはや均一な現実性を保持しているものではなかった。
負荷とは、より弱い部分により強くかけられるものだった。
現実に流出した莫大なエーテルは易きに流れた。
それは、見えざるフラスコの縁に沿うように充満し、圧縮し、過熱した。
ミシミシと教室がくぐもった悲鳴を漏らしていた。
パリパリとエーテルの水和結晶が小気味良い音をたて割れていた。
違和感に襲われたのか、大猿は周囲を見回した。
その瞬間。
エーテルの炸裂が教室の床を円形にくり抜き、大猿の足場を崩落させた。
大猿は一瞬だけ浮かび上がり、呆気にとられたまま反応すらできずに、すぐに砕けた机、壊れた椅子、破れた教材と共に落下して、五体を一階の床に投げ出した。
ペットボトルロケットは小学校の履修範囲だった。
シズマは既に、塵芥が煙る大穴の縁に足をかけていた。
彼の左手の内で、それは脈動した。
哲人王の左腕が掴む物自体、魔女狩りの斧という寓意、黒陽石のロジオーン。
彼の右手の内で、それは拍動した。
聖王の右腕が握った金糸篇、魔法使いの杖という隠喩、イシスの爪。
二つの世界は鳴動し、二つの体系は鼓動し、二つの視座が波動する。
超え出でたるもの、聖なるもの。
これら双つ、分かたれたる全てのものは、彼の者の前で一つの意志へと結実する。
斧の把が杖の頭を掴み、杖の頭が斧の把を握り、互いの形相を通い合わせ、互いの質料を分かち合い、それらは一本の長柄となって、その伸び行く先に慎しき黒の斧刃と直しき水の槍刃を兼ね備えれば、その一振りの武装は一筋の道、一筆の輪郭を描き出す。
其れは、彼が垣間見た一糸の閃き、一枝の煌き、一詞の響き。
触れ得ざるもの、語られざるもの、知られざるもの。
在りとしあらゆるものを在らしめるもの。
その残光。その残響。その残り香。その後味。その幻肢。
徴とは一つの類推である。蓋し、彼の得物もまた比類なき類比の一つである。
故に、其れは戟刀のアナロギア。その追想の湛然を強いて名付くるならば。
まさしく、その銘は。水晶石のナスターシャ。
その輝ける得物を携えて、シズマは階下の大猿を目掛け、大穴の縁を蹴り発った。
巨体を起こそうと藻掻く大猿は吠え狂い、刺々しい氷柱を全身に逆立てて、憎むべき敵に氷刃の激雨を逆しまに叩きつけたが、彼の手にある一振りの戟刀は輝かしき星界の渦潮を巻き起こすと蒼氷の悪意を全て弾き飛ばして寄せつけることはなく。
そして、燦めく戟刀の穂先は大猿の眉間を貫き、奥深くに突き刺さった。
大猿は仰け反り、頭を抱えて、獣の吠え声をあげた。
シズマは得物を氷装の獣面に残して身一つ、相手の懐に降り立った。
彼の眼前に、大猿の剥き出しにされた隙っ腹が晒されていた。
彼の正面に、致命的な亀裂が走った氷晶の巨体があった。
彼はその場で半身を引いて、零距離を踏み込み、躊躇なく右腕を亀裂に突き立てた。
大猿の苦悶、憎悪と絶叫が校舎と空気を震撼させた。
されど、彼の右腕はもはや止まらず。
それはヒトの腕の再現を振り捨てて光沢潤う鈍色のくすみを取り戻すと、銀竜の頸の形相を現し、氷晶の巨躯、その体内を喰い破り、掘り貫き、抉り抜き、遂にはその心核に牙を立て、その精髄を掌握し、その中枢を掴み取って須臾の隙間に引き摺り出した。
それはエーテルの流出点であり、体表の外までしゃしゃり出た自意識、世界に唯一つしかない、虹色に輝くプラズマボールのような球形の宝石箱だった。
同一性を抜き去られた大猿は声すら失って、音もなく戦慄いていた。
その腹部からは、返り血のように繊細なエーテルの欠片が大量に噴出していた。
シズマは何も言わず、何食わぬ風に再びヒトの腕の形相を装った右手によって、抜き出した中核を面前で握り潰した。
砕け散ったエーテルの現前性は、光り輝く粉吹雪となって辺りに舞い散った。
氷晶の巨体は一雨の滴と共に具体性を失って、白い靄を残滓とし、雲散霧消した。
降りしきるエーテルの絶句もすぐに、正夢の中の初雪のように跡形もなくなった。
金髪の魔女が彼の耳奥でぽつりと呟いた。
φαινομενο κατελυσας
立っているシズマと、ヒトの姿で横たわるエンガクジだけが後に残された。
シズマは身を屈め、静かになった相手の傍らに手を伸ばし、落ちている杖を拾った。
エンガクジは気を失っていた。仕留め損ねたのだ。
シズマはともすれば荒い息をつこうとする肩を制し、戦外套の胸元にある薄く平たい感触を確かめながら教室を後にした。
そして、改めて魔女に導かれるまま歩き続けた。
幸いにも、彼女らが言うところの〝世界の臍〟はそう遠い所にはなかった。
シズマは直にそこへと辿り着き、彼はその場所に杖を置いた。
何もない空中、廊下の只中で魔女の杖は何に支えられずとも一人でに立ち上がった。
杖は水色の淡い燐光を帯び始めると、一本の光の枝となった。
その柔らかな光彩は次第に広がり、大きくなって、やがては天空に茂り、地底に根差す世界樹の幹と見紛うまでに輝きを生長させると、その燦めきでシズマを包み込んだ。
来た時と同じように、いつの間にか彼の姿は夜の校舎から見えなくなった。




