シズマ Ⅱ - ② - α v.s.氷晶の大猿
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石築シズマの頭上に、一抱え程もある氷甲の剛腕が猛然と振り下ろされた。
身を翻し、紙一重の差でそれを避けたものの、直後にもう一方の頑腕が、崩落する氷壁のように降りかかってきて、シズマは更なる後退を強いられた。
直前まで彼が立っていた場所には氷装の大拳がめり込んで、ささやかなクレーターができていた。木床に扮する仕上げ材を蹂躙した彗星の拳は、捉え損なった獲物を付け狙う驟雨となって、シズマの後を追った。
シズマは後方に細かな跳躍を刻んだ。
彼を追撃するエーテルの巨像は、ヒトの形相を超えたエンガクジだった。
それは、透き通るように蒼い氷塊、それこそいつだったか本で読んだ北極海に浮かぶ氷山や、木星の衛星に揺蕩う氷塊のように、現実の物体と何ら遜色ないまでに物質化したエーテル、即ち劣化エーテルを質料として、それらが幾層にも連なって再現された大猿の形相であり、その巨体が動く度、校舎の天井は削れ、壁材は引き裂かれ、窓枠は捻れ曲がり、その巨躯が飽きる事なく腕を振り上げ、拳を叩きつける毎に、空気は悲鳴をあげて、床材には窪穴と亀裂が生じ、シズマの残影は轢き潰された。
更には、大猿の強大な全身からアウラのように漏出するエーテルは氷粒となって、そこかしこに霜柱の罠をつくり上げ、自身の領域に侵入しようとする者を拒んでいた。
「どうした、どうした、なにもできねぇか!? そりゃそうだよなァ! こんだけの実力差があるんだからよぉ! このオレだけに与えられたサイキョーの力! こうなっちまった以上はテメェがどんな能力者だろうと関係ねぇ! つか、初めからテメェみてぇなザコがイキってんじゃねぇよ!」
大猿は、自分が揮う膨大な力の洪水に自惚れ、周囲のものを思うがままに叩き潰す快感に酔いしれ、他のものを蹂躙する優越感に浸り、さも愉快そうに哄笑した。
「見ろよ見ろよ、このオレのサイキョー過ぎる姿をよォ! 最高スギんだろうがァ! このオレだけの力ァ! このオレだけの才能ゥ! もう誰にも止められねェ! いつもスカしやがってるキジマだろうが、いつも偉そうなエース気取りのインドウだろうが、誰だろうと、もうこのオレの敵じゃねぇんだよ! 今までこのオレを見下ろしてきたヤツらを、今度は逆にこのオレが見下してやるんだろうがァ!」
徐々に崩壊していく二階の廊下に、大猿の破壊的な喜声が木霊した。
劣化エーテルの氷晶によって構成された巨躯から溢れ出るエーテルの波は、現実の抵抗を受けて消え去るどころか、水や氷の様相を呈したまま、辺りに満たし始めていた。
シズマは永遠に逃げ続ける事はできないと知って、反攻の機会を窺った。
その彼の耳奥で、声だけの金髪の魔女が一人呟いた。
「極めて具象的ではありますが、その獣相の仮面は紛れもなく神働術。しかし、いくらポルピュリオスの不肖の弟子とは言え、こうまで即物的に、道具的に、利己的に解釈されてしまったのでは不当な評価と言わざるを得ません。かの秘儀についての書簡でさえ元来は崇高たるを期し、永劫へのオデュッセイアを志したものであった筈なのに、それを踏まえず、そうしようともせず、ただ粗暴なサテュロス劇だと嘯くのは恣意的な解釈に過ぎません。結論はリジェクト。イアンブリコスの濫用を許すべきではない」
魔女の囁きをシズマは相手にしなかった。
迫り来る大猿の強腕は爆撃のように校舎の廊下を破砕し、数本の髪の毛程度の距離を間に挟んでシズマを掠る事は幾度、決して彼に集中力の分散を許さなかった。
魔女の戦外套は、エーテルの威力は勿論の事、古典力学で言う力積ですら見事に防護してみせたが、衝撃はそれすら浸透して彼の生身を襲った。
シズマは相手と距離を取る事に注力し、場を仕切り直す事を望んだ。
だが、大猿はしつこく、執拗に、陰湿に、しかも盛大に彼を攻撃し続けた。
その猛攻を、強引な体捌きで凌ぎ、時には斧で打ち払い、一度は杖の銃口から炸裂する水流の魔法を撃ち放って、ことごとく退け続けたシズマは遂に、廃墟と化した廊下を背景にいきり立つ巨大な氷獣の全容を視界に収める事ができた。
途端、氷晶の大猿は目を細め、甲高く咆哮した。
切り出したアイスブロックのように平面で構成されたその巨体の表層から無数の鋭利な氷棘が、あたかも猛獣の体毛やトサカが逆立つように突き出した。
次に巨獣が喊声をあげた時、それら凍える切っ先は一斉に放出され、轟音を引き連れた氷刃の横雨となって、シズマに襲いかかった。
一気呵成の攻勢を目の当たりにして、彼はそれでもエーテルの運動を記す痕跡を認識し、そこから波及してその存在を指し示す徴を了解し、飛来する氷刃雨の全体像を把握して、その粗密を見極めると、間隙を縫って糸筋のような安全地帯を駆け抜け、廊下と教室を隔てる壁に足をつけた。
管銃の形相を纏う魔女の杖はエーテルの噴流を撃ち出し、彼はそれを揚力として壁から天井へと足場を移し、廊下を巻く螺旋を描いて一挙に相手との距離を詰めると、待ち構えていた大猿の拳撃をかいくぐり、その懐に飛び込んだ。
そして、至近距離の敵を叩き潰そうと氷晶の大猿が力んだ、その瞬間。
シズマは、右手にある杖の銃口をその〝土手っ腹〟に差し向け、引き金を引いた。
茶髪の魔女の詠唱は、彼の耳奥で祈られた呪文の残り香、泡沫の夢。
水の魔法は発動し、エーテルの鉄砲水が言葉通りに目の前の氷塊を穿った。
大猿は苦悶の叫びを漏らし、体勢を崩して、攻撃を中断した。
機を逃さず、シズマは渾身の力で左手の斧を振り抜き、大猿の腹部、魔法の着弾点にその黒い刃を直撃させた。瑕なき玉の氷晶に亀裂が走り、大猿は更に吠えた。
追い討ちをかけるには絶好の機会に思えた。
しかし、シズマはそれ以上欲張らなかった。彼は即座に後ろへ跳んだ。
そうしなければ、激昂した大猿の反撃で彼は挽肉と変わらなくなっていた。
シズマが放った起死回生の一撃は攻めきれず、寧ろ大猿を激怒させる結果に終わった。
より酷く、より激しい攻撃に曝された彼は、より深い苦境に陥る事になった。
こうなってしまうくらいなら、初めから何もしない方がマシだっただろう。
どうせ中途半端にしかならないのなら、何もしないのと同じだっただろう。
果たして、本当にそうだろうか?
なんであれ、熾烈さを増した大猿の暴勢をシズマは徐々に支えきれなくなってきた。
暴れ回る大猿の巨体と四肢は猛威をふるい、加速度的に校舎の荒廃を推し進めた。
飛び散るエーテルの氷飛沫は現実に還るどころか、かえって現実を侵食し、およそ現実離れした凍結地獄の絵空事を世に著し始めていた。
シズマはせめて相手との間に壁を挟んで緩衝材にしようと考えたが、そんな彼の目論見は、敵の視線から察した大猿によって既に看破されていた。
「ミエミエなんだよ、バァカがァ!」
大猿が罵声をあげながら、シズマの機先を制して、数発の拳撃を教室の壁に打ち込んだ。壁は容易く突き崩されて、黒い穴が口を開けた。
その衝撃の只中に危うく飛び込んでしまうところだったシズマは、建材の破片と埃と塵が降りしきる教室の闇の中へと、今度は迷わずに飛び込んだ。
「今更逃げられるわけねぇだろうが、ゴキブリ野郎! さっさと死ねよオラァ!」
シズマを追う大猿は吠え立てながら壁を更に大きくぶち破り、教室に侵入した。
悪い事に窓から月の光が射し込み、大猿はほくそ笑み、シズマは渋面をつくった。




