ハルトⅡ- ⑤
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逃げ出すことなんて出来なかった。
助けを求めようにも味方になってくれるような人は世界のどこにもいなかった。
嫌な事がなくなってくれるまで、ただ我慢するしかなかった。
「早く歩けよ」
後ろを歩くキジマが薄笑いを浮かべながらハルトを急き立てた。
「ちゃんとついてこいよ、追いかけるの面倒クセェんだからよ。手間かけさせんな」
口笛を吹きながら先を行くエンガクジが時折振り返っては意地悪く笑った。
Aランクの二人に連行されるように、ハルトは半円を描く校舎の一階に沿って歩かされ、やがて敷地の端に茂る植樹林の陰に連れ込まれた。
人気もなく、夕焼けも細切れにしか届かない林叢と建物の合間からは、苔臭い湿った土の匂いがして、ハルトは自然と口を固く結んでいた。
エンガクジは校門付近からの視線が切れる辺りで足を止めて、後ろに向き直った。
「わかるよな、わざわざオレらがこうして来てやったワケ?」
ハルトに選ぶ権利なんてなかった。来るのも来ないのも相手側の自由だった。
仮に今日は逃れられたとしても、明日また追いかけ回されることになるだけだった。
走り回って、呼吸は苦しくて、怖くて、不安で胸が潰れそうになるだけだった。
すぐに足は動かなくなって、捕まって初めよりもっと酷い目に遭わされるだけだった。
わかりきったことだった。
だから、ハルトはろくに抵抗もしないまま、できないまま、流れされるがままに、エンガクジによって校舎の壁際に追い込まれた。
キジマは、より校門の近い側にある校舎の外壁に背中を預けて、さりげなくハルトの逃げ道を塞いだ。
「インドウ先輩はさぁ、ああ見えてケッコー心配性なトコロがあるからよぉ。オレら大切な仲間に、掃き溜めのキッモいゴミが近寄ってきて、クッセぇ匂いが移っちまうんじゃねぇかって気にしてんだよ」
エンガクジのにやつく唇の端で、Aランクの証である蒼色の模晶石を嵌めたピアスが夕焼けを映して僅かにぎらついた。
その微かな眩しさにハルトは思わず俯いた。
そんな彼に追い打ちをかけるように、キジマが評論家のような口振りで言った。
「百歩、いや百万歩譲ってユイと話すのは、彼女のキャラを考えれば許されるかもしれない。だが、姫様はアウトだ。本来、あの御仁はお前たちみたいな底辺が気安く近づいて良いような御仁じゃない。そんなコトもわからないからデリカシーがないんだよ、お前たちFランクの底辺は。だから嫌われる。否、だからこそ底辺なのか。普段、温厚なインドウ先輩がここまで怒るのも珍しいが、無理はないな」
「まっ、インドウさんの気持ちもわかるわ。だってコイツ、ホントくせぇもん。なぁお前ちゃんとフロ入ってんのか。えぇ? おい、どうした、ちゃんと答えろよ。日本語わかんねぇのか。毎日ちゃんとフロ入ってんのかって聞いてんだよ、オラァ!」
荒っぽい仕草と口調で脅かされたハルトは肩を震わせ、顔を真っ赤にして、口を固く結んだ。そのあまりにも単純過ぎる反応をキジマは鼻先で笑った。エンガクジもそれに呼応して、歯と歯の間から甲高い笑い声を漏らした。
「いやマジで、テメェみてぇなの見てるとホント苛々してくんだよ。はっきりしねぇし、ウゼェし、キメェ。オレらが楽しんでる時にヒくような真似ばっかしやがって。視界に入ってくんじゃねぇよ。ウゼェんだよ。邪魔なんだよ。テメェのソンザイそのものが目障りなんだよ。不快なんだよ。ストレスなんだよ。なにがしてぇんだよ。なんでいんだよ。なんで生きてんだよ。なんで死なねんだよ。早く死ねよ、お前もう。生きてる価値ねぇだろ、お前。オイ、オラァ、聞いてんのか、オイ、ゴルァ!」
エンガクジの口から途切れる事なく飛び出してくる辛辣な言葉の数々が、ハルトを頭の上から絶え間なく殴り続けた。エンガクジは、自分の激しい言葉遣いに囃され、憑かれ、酔い、その熱に浮かされているかのようだった。
その攻撃的な声音や身振りに、何一つ守ってくれるものもないまま晒されて、一方的に打ちのめされてしまったハルトはもう立っていることもできなくなった。
膝が自然と曲がり、尻がズルズルと下がっていった。
それを目敏く見つけたキジマが靴の先で軽くハルトの足を蹴った。
「ちゃんと立てよ。誰が座っていいなんて言った」
ハルトは慌てて腰を浮かせたが、もう遅かった。
エンガクジは丁度いい切っ掛けを探していて、ハルトは付け入る隙を与えてしまった。
キジマのそのちょっとした仕草がエンガクジにとっては開始の合図になった。
「オイ、こっち見ろ」
そう言われて僅かに視線を持ち上げた途端、ハルトはエンガクジに思いっきり右頬を殴られた。一瞬、目の前が真っ暗になって、鼻の上に電気火花が飛んだような気がした。体がゆっくりと左側に流されていって、そのまま踏み止まることも出来ずに倒れこんでしまった。それから鼻腔に鉄錆びた匂いが充満してきて、苔くさい土の味がした。一着しかない制服はじめじめとした不潔な土に触れて、汚れてしまった。
まず驚きが一番初めにあって、恐怖と苦痛はそれから一気にやってきた。いきなりだったので、なけなしの能力を使うことさえ出来なかった。
「顔は止めとけよ」
キジマが形式的に諌めはしたが、エンガクジは唇の端を歪めて取り合わなかった。
キジマが本気で言っている訳じゃないということをわかっていて、エンガクジは自分の行動を自分の好きなように決めた。
「別にいいだろ、こんくらい。掃き溜めのFランクがどれだけボコボコにされようと、誰も興味なんて持たねぇよ。っていうか悪いのはコイツだからよ。キモくて、ザコくて、ウザくて、不快。コイツが視界に入ってくるだけでマジ、ストレスなんだよ。迷惑かけられてんのはオレらの方なんだからトーゼンの権利だろ?」
冗談めかして主張するエンガクジに、キジマは肩をすくめてみせた。
「好きにしろよ」
エンガクジは鼻を鳴らし、うずくまるハルトに近づいた。
ハルトは打たれた右の頬を押さえて、どうにもならない激痛にただ苦しんでいた。
痛みは引くどころか止め処なく、涙は頼んでいないのに流れ出てきた。
ハルトにできるのは、次に殴るならせめて痛む右頬ではなく左頬にしてほしい、と願うことだけだった。
「ナニ悠々と寝てんだよ、テメェは。勝手に休んでんじゃねぇぞ」
エンガクジはハルトの胸倉を掴んで、彼を引き上げようとした。
シャツが破れてしまうのではないかと思って、ハルトは必死に立とうとした。
もつれる足を踏ん張り、よろける体を保とうとして、どうにか立てそうになったと同時に、エンガクジがハルトの左頬を思い切りぶん殴った。
ハルトは再び転倒した。願った通りにはなったが、また能力は間に合わなかった。
溢れる痛みは抑えようがなかった。
掌で頬を押さえて温めようとしても自分でやるだけでは何も変わらなくて、痛みの棘はまるで拭い去られず、じんわりと皮膚の下まで染み込んで根を張り、煙草の火と同じように熱く、苦しく、つらく、ハルトの神経を責め続けた。
「ダメだコイツ、ヨワ過ぎだろ。ザコ過ぎて笑えねぇ」
エンガクジは唾を吐き捨て、倒れたハルトの腹に蹴りを入れた。
呻く事もできず、ハルトは呼吸を殺された。
必死に腹の辺りを腕で庇っても、エンガクジは構わず何度も蹴りを入れ続けた。
「サンドバックにもなれねぇとかコイツ、マジで生きてる価値ねぇな」
「仕方ない。あまり手間をかけさせるなよ」
あくまで見物人を決め込んでいたキジマだったが、あまりの呆気なさに早くも辟易してしまったようだった。校舎の壁に預けていた背中を離し、ハルトに歩み寄ると彼の襟首を掴んで、力づくで引っ張り上げた。ハルトは制服が壊れてしまうのが怖くて、足をバタつかせながら、なんとか二本の足で立ち上がった。
それを待っていたエンガクジは嬉々としてハルトの腹に膝蹴りを叩き込んだ。
もう呻くことすらできなかった。
「一応言っといてやるけど、これはイジメじゃなくてイジリだからよ。テレビでも、芸人がよくやってんだろ、こういうの。お前だってオイシいと思ってんだろ? オラ、オイシいって言えよ! ありがたく思えよ! オラァ、オラァ、オラァ!」
エンガクジは言いながら、何度も何度も執拗にハルトの体に膝蹴りを入れた。
激痛と恐怖に耐えきれなくなったハルトが崩れ落ちそうになると、後ろにいるキジマが彼を押さえつけて、エンガクジの攻撃から逃げられないようにした。
「ったく、どうしようもねぇな。ここまでやって、ネタの一つにもならねぇとか。ツマンな過ぎんだろ。せっかく、オレらが愛のあるイジりをしてやってんのによぉ」
一休みを入れたエンガクジがニヤニヤと笑いながら言葉の上でだけ嘆いでみせると、薄ら笑いを浮かべたキジマがそれを訂正した。
「というより教育だな。コイツらみたいな何の役にも立たない連中をせめてストレス発散用の道具として社会貢献できるようにシツケてやってるんだ。学園の目が行き届かない所までオレたちがフォローしてやってるんだから表彰されたって良いくらいだろう」
「なんだって良いわ、んなもん。オラ、なんとか言えよ! 生まれてきてゴメンなさいとか、生きてる価値なくてスミマセンとか、イジってくれてアリガトウございます、とか色々あんだろうが、聞いてんのか、このクソゴミ野郎が、オラオラオラァ!」
エンガクジは膝蹴りを再開した。怒鳴りつけられ、がなりたてられ、脅しつけられ、その度にハルトの体に激痛が走った。
「なんかオモシロいコト言えよ、オラァ! 日本語喋れねぇのか! 言えって言ってんのがわかんねぇのか! そういうのがいちいち不快なんだよ、テメェは! テメェのソンザイそのものが不快なんだよ! 不快だ! 不快だ! 不快だ!」
やがて膝蹴りを入れるにも飽きてきたエンガクジは、今度はボクサーのステップを真似る遊びを挿し挟みながら、目の前で茫然自失としている獲物に向かって、左右の拳を代わる代わる叩き込み始めた。
「まだわかんねぇのか、テメェは! どこまで無能なんだよ、このザコは! テメェが生きてるコト自体が迷惑なんだよ! テメェそのものがストレスなんだよ、このストレスがよぉ! ストレスが! ストレスが! さっさと消えろよ、オラァ!」
ハルトはキジマに後ろから押さえつけられていて、身じろぎすらできなかった。
せめて「ぶっ飛ば」されてしまえば、受け身を取って衝撃を逃すこともできたのに、今のままでは事故調査用のダミー人形のように、縛り付けられたまま、突っ込んでくるクルマを待っているようなものだった。
ハルトはただ体を固くしていることしかできなかった。
それが搾り滓のように惨めな、彼のなけなしの能力だったから。
それこそ体を石のように硬直させて、真正面から叩きつけられる恐怖と苦痛の雨嵐が過ぎ去ってくれるのをひたすらに待つことしかできなかった。
エンガクジがいい加減殴り飽きてきた頃になって、ようやくハルトは解放された。
というより、キジマによってその場に雑に放り捨てられた。
生ゴミから一刻も早く手を離したい、といった風に。
「マジでオレ、無双すぎない? 実力差ありすぎてヤベー奴、それがオレ」
僅かに息を切らしながら、エンガクジが勝ち誇った。
「それなりに楽しめたみたいだな」
キジマが退屈そうに鼻を鳴らすと、エンガクジは相好を崩した。
「わかるぅ? オレよく人から言われんだけど、結構ドSなとこあるからなぁ。けど、ここまで相手がヨワすぎると、それはそれでマジつまんねぇんだけど」
「そりゃそうだろ、Fランクだからな。まともにエーテルを出せない以上はオレたちの相手になるはずがない。それがわかってるから、コイツだって抵抗しないんだ」
キジマは既に興味を失っていたが、エンガクジは大袈裟に驚いてみせた。
「それマジ? フツーの人にも能力者にもなれねぇとか、マジでゴミ過ぎんだろ」
「今更なに言ってんだ。だからこうやって処分してやったんだろ」
「まーなー。つか、オレやばくね? こういうヤツって必ずいつか事件とか起こしそうじゃね? マジやばくね? オレら狙われちゃうんじゃね?」
「無理だろ。弱過ぎる」
「まっ、かかってきたとしても余裕でぶっ殺すけどなぁ。てか、ここまで叩き潰したんだから、さすがに学習するっしょ。事件を未然に防いじゃうオレ、スゴくね? 今の動画撮っといてSNSに上げとくべきだった? オレ表彰されちゃう? ってか今ここでなんか見返りあっても良くね? お前さっき、教育してやってるとか言ってたじゃん」
「なんだ、授業料でも取るつもりか?」
「おっ、いいねぇ、キジマ君。オレ、そういうの好きよ」
エンガクジが地面に倒れたまま動けずにいるハルトの近くにしゃがみ込んで、制服のポケットの辺りを探り始めた。
ハルトの頭の中は真っ白で、殆ど何も考えられなかった。
それでもお金を取られることだけは避けなくてはならないと思って、混濁した思考はあくまで抵抗の意志を示そうとしたが、体が言うことを聞いてくれるかどうかは別問題だった。
ハルトの傷だらけの体は指一本とて動かすことはできず、憔悴しきった意識はエンガクジとキジマの言動をどこか別世界の出来事のように感じていた。
「考えてもみろよ、キジマ。オレらはさ、ある意味コイツのコトも救ってやったわけよ。コイツが暴力事件とか起こしちゃう前に身の程を教えてやったわけなんだからさ」
「だからってそんなのに、触ろうとは思わないな」
「え、なに、もしかしてFランク移っちゃう?」
「移るワケないだろ、先天的な才能なんだから。オレが言ってるのは、よくそんな気持ち悪いゴミに触われるなってコトだよ」
「なら問題ねぇわ。オレが触ってんのはコイツじゃなくてコイツのスマホなんだからよ」
「同じだろ」
「同じじゃねぇよ、スマホはスマホだろ。ほら見ろよ、コイツのスマホのバーコードがオレのアカウントに入金したがってんだ。救済料いただきまぁす」
あらかたハルトの制服を漁ったエンガクジが露骨に不満そうな声をあげた。
「あぁん、なんだコイツ、スマホ持ってねぇのかよ。Fランクってスマホ持てねぇんだっけか」
「知るかよ、どうでもいい」
「かぁ、コイツほんと使えねぇわ。今時財布かよ。って小銭入れじゃねぇか。要らねぇ。クレカもねぇし。いやコレ、エグいって。オレらタダ働きじゃねぇかよ。なぁ、どうする、銀行のキャッシュカードでも貰っとく?」
「やめとけ、今時すぐ足がつく」
「あぁもうしょうがねぇなぁ。じゃあ捨てるか、これ」
「最初からそうしろよ」
何かが放り投げられる気配がして、すぐに樹々に茂る葉々が擦れ、揺れる音がした。
エンガクジとキジマは、今まで起きていた事とは何の関係もない雑談で盛り上がりながら、その場を立ち去っていった。
ハルトは地面に伏したまま、しばらく動けなかった。
痛む身体は彼を怖がらせた。また身体のどこかが右手の指と同じように上手く動かなくなってしまうのではないかと不安で仕方がなかった。
それに何より、姉が遺してくれたお金でようやく買えた高価な制服をひどく痛めてしまったことが気になった。大切なものなのに、大事にすることもできなかった。
彼の能力では糸も針をまともに扱うことはできなくて、繕うことも当て布をすることもできなかった。彼の代わりに縫ってくれる人はもうどこにもいなかった。
そうしてくれた人が今どこで何をしているのか、何もわからなかったが、それでもきっとつらい思いをしているだろうということだけはわかってしまうから、彼は泣いた。
涙だけは一人前で、いつも通りだった。




