シズマ Ⅱ - ① - β v.s.エンガクジ
袈裟懸けに振り下ろされる氷剣を足を使って避け、向かって右から水平に薙ぐ一撃をギリギリまで引きつけてから左手の斧で受け止めた。
「ビビったかぁ、オイ⁉ 一本だけだと思うよなぁ、普通はよぉ! でも違ェんだよ、このオレはァ! 普通の奴とは違ェんだ、才能って奴がなぁ! 生まれながらの天才なんだよ、このオレはァ! 能力を使うってのはサイコーだよなぁ! テメェみてぇなザコキャラをぶっ潰して、このオレの強さをショーメイできるんだからよぉ!」
左右から間断なく繰り出されるエンガクジの連撃は、シズマに思考の時間も判断の機会も与えなかった。選択肢を限定され、守勢に回らざるを得なくなったシズマは右手に掴む魔女の杖の不確かな感触を確かめた。
そして、ふと、エンガクジの目が底意地の悪い喜色に輝いているのを見つけた。
振り翳された剣刃を避け、突き出される切っ先を躱した。
その度に、シズマは床を浸す液体に足を取られそうになった。
それは血ではなかった。
動物の体液とは違って粘ついてはいなかった。鉄錆びた匂いも銅に似た匂いもしなかった。液体は無臭だった。薄暗い夜の校舎にあっても、無色だという事も把握できた。
それにも関わらず、匂い立ち、ざわめく色の奇妙な感触をシズマは知った。
現実の抵抗を受け、その抽象性を貶められたエーテルが液体の様相を呈する時、それが<水>の能力によるものだと解されるなら。
足場を浸す水ならぬ<水>がエンガクジの布石と悟った時、シズマは執拗な攻撃の間隙をついて、大きく後ろに飛びすさった。しかし、エンガクジもまた、罠にかかった獲物をそのまま帰そうとは思っていなかった。
「遅ェんだよ、クソがァ! 思った通りにひっかかりやがって、このザコがァ!」
相手が叫ぶと同時、シズマが着地するより前に、天地は逆さまとなった。
床から氷針の豪雨が一挙に、大量に逆昇り、凄まじい速度で天井を射抜いた。
地を浸していた <水>溜まりは今や、陰険な氷針の剣山へと変貌し、シズマの身体は空中でその暴力の雨嵐に曝された。
けれど、左手に握った魔女狩りの斧は悪意を断固として受け入れず、右手に掴んだ魔女の杖は敵意を悠々と受け流した。
シズマは後方の床に投げ出された。地に激突する直前に、受け身を取った。
痛みはそれだけだった。痛い事は痛かったが、裏を返せば痛覚は正常に機能していた。
動き出すにも支障はなかった。
左右の持物は勿論の事、魔女が勿体ぶって恩誼せがましく押し着せてきた戦羽織は謳い文句の通り、有効に作用したようだった。
シズマはすぐに起き上がったが、既にエンガクジは詰めの一手を用意していた。
再現された大量の氷剣が宙に浮かび、周囲を漂いながら、にやけ顔を抑えられずにいる能力者の号令を今か今かと待ち望んでいた。
「どうだよ、このオレ流のサプライズはよ? 最高にオモシロかったろ? 面白いは正義ってなぁ。ネタも頭悪ィヤツには無理だからよ。わかるだろ、このオレの頭の良さ? 学校のオベンキョなんて関係ねぇんだわ。地頭が良いって奴ゥ? テレビとかでもよくやってるだろ? ナマジ知識とかない素人の方がかえってホンシツを突いちゃう的な? しかも、それだけじゃねぇ。見ろよ、このオレの能力を! どんだけチート級かってバカでもわかるよなァ? 一本だけじゃねぇって言ったけど、二本だけとも言ってねぇんだよ。このオレの力は無限大だ! ま、テメェ如きには一生かかってもたどりつけねぇ領域の話したってしょうがねぇか。一応言っといてやるけどな、これでもオレ、結構手加減してやってんのよ。けどオレって良くドSって言われるんだよなぁ。ついつい自分の強さを隠しきれなくてクソみてぇなザコを容赦なくぶっ潰しちまうからよぉ。ドS過ぎちゃってゴメンねぇ、ゲス過ぎちゃってゴメンねぇ! ま、これで終わりだな。掃き溜めのゴミ如きに耐えられるわきゃねぇんだからよぉ! おとしなしくぶッ潰れろ!」
いきり立つエンガクジが氷剣を振り下ろした時、廊下の断面積いっぱいに展開された無数の氷剣が、投じられた餌に殺到する猿山のサル、その剥き出しにされた黄色い歯の大群、あるいは獲物に喰らいつくサメの幾つもの鋸歯となってシズマを襲った。
打つ手はないように思われた。しかし、先には進まなくてはならなかった。
不正をしてまで勝とうとは思わなかったが、目の前に立ち塞がる障害は乗り越えなければならなかった。
そして、シズマはシズマで、魔女の言葉と、その力を少しは信用する気になっていた。
彼は右手を返して魔女の杖を持ち直し、その上端を握った。
シズマの耳奥に囁きかける、茶髪の魔女の祈るような呪文の詠唱。
聖王の右手と魔女の杖の狭間から漏れ伝う純性のエーテル。
零れ落ちた燐光が足元に描く、水色の魔法円。
微かな機構音と共に杖は鳴動し、それは一度、形相を失った。
<水>の魔女、その力の司。イシスの爪。
音素は訛化し、形態は展化し、指示は転化する。
位相は遷移し、質料は流転し、意味は変容する。
杖は銃となりて、魔法は発動する。
銃口から解き放たれた波濤のエーテルは、炸裂する渦潮銀河。
それは、落葉の地面を疾駆するリスの群れのように、あるいは暗海の中層を遊泳する矮魚の群れのように、サルどもの剥き出しの歯に飛びかかり、サメどもの野蛮な歯に立ち向かって、それら全てを尽く撃墜する。
形相を失ったエーテルは、統率を失ったエントロピーと同じだった。
抽象的な質料は現実味を失い、発散し、錯乱し、放逸した。
急激な熱量の変化は白い靄を生み出し、廊下の夜闇を霧のように侵食した。
それはシズマにとって好機だった。
無論、エンガクジもさる者、数本の氷剣を追加して、 標的が紛れる煙幕に撃ち込んだが、それは当てずっぽうに過ぎなかった。
シズマはエーテルの予兆と軌跡を了解し、把握していた。
エンガクジにとって、それは生まれつきの才能で、ある日に覚醒した時から感覚的に用いられる一つの条件反射であった。
明暗はそこで分かれていた。
煙幕から飛び出してきた影を、エンガクジは咄嗟に、勝利を確信して、自らが誇る氷の刃をもって叩き切り、標的を叩き潰した快感に酔いしれて笑った。
手応えはあった。しかし、それは瞬時に氷解した。
彼が斬り捨てたものは、微小なエーテルの涙滴が作り出した虚像であり、シズマの右腕、聖王の右手が司る魔女の<杖=銃>が織り成した鏡像魔法の産物だった。
飛び散った破片の仮象は、砕け散った万華鏡の欠片のように鮮やかだった。
咲き乱れる虹色の華麗な粒子に、エンガクジは一瞬であっても確かに眼を奪われた。
その死角から、シズマは一挙に肉薄した。
あらゆる条件が決定打を得るに相応しい、最高の状況を作り出していた。
にも関わらず、シズマは意図を完遂できなかった。
彼は距離を測り損ねた。間合いを捉えきれていなかった。
エンガクジの頭部をかち割る筈だった斧の刃は狙いから逸れ、代わりに斧の柄を握るシズマの拳がエンガクジの顔面に直撃した。
エンガクジの体は衝撃でその場を離れ、遠い床の上に乱雑に着地した。
詰めたばかりの距離がまた開いた。
シズマは期待していなかったし、実際エンガクジはすぐに体を起こした。
「痛ェな、テメェ」
感情の冷え切った声で悪態をつきながら、エンガクジは鼻の辺りを拭った。
相手は初め、手についたものが何なのか知覚はできても、すぐには認識できなかったようだった。やがて、それを血と理解したエンガクジは怒れる霊長類として激昂し、声を荒げて喚き始めた。
「要らねぇんだよ、ストレスなんだよ、いちいち、そういうのがよぉ!」
暗く冷たい空気は張り出した氷のように凍え、震えていた。
「キッメぇ ザコがイキってんじゃねぞ、このクソゴミクズ野郎がぁ!」
シズマが自分の身体の感触を確かめるように相手を殴り飛ばした姿勢のまま、その場に立ち尽くしていると、エンガクジは自分の声と言葉によって余計に怒りの激流を増水させて、理性の堤防を決壊させた。
「殺すわ、テメェ、ゼッテー殺す。マジでブッ殺す!」
エンガクジは吠え猛る肉食獣のように叫んだ。
大股に開いた足で床を踏みしめ、上体を反らし、腕を広げて、肘を曲げ、掌を天井に向けて、見えぬ天空、あるいはそれより高い世界を睨み、彼は力の限りに咆哮した。
喉の奥から這い出るような自我の漏出、それがエンガクジの目の前にある場所を歪ませ、たわませ、ひずませた。過剰な自意識こそが、現実を何より歪ませた。
剥き出しの欲望こそが、他の何より強く深く、世界を抉じ開け、穿孔した。
解放された極大の流出点から溢れ出した大量のエーテルは、空気中の微粒子と触れ合い、その摩擦から多彩な光が迸った。
多岐に分かれる光線は散乱し、屈折し、多色の燦めきとなって、宝石箱のように輝くその球体は瞬く間に、一抱え程ある巨大な精髄へと成長し、闇夜の廊下を不気味な白に染めた。
シズマは腕を下ろし、体勢を直して、秘儀の実現に見合った。
才能とは人の内側から絞り出される表現と措定された。
表現とは彼の外側へと引き出される精神と鑑定された。
精神とは其の根底から掻き出される本質と断定された。
驕慢な叫びに引き摺られ、精髄より溢れ出す夥しいエーテルは、エンガクジの体を包み込み、その全身を瞬く間に肥大化させた。
彼のシルエットはあたかも、彼自身が露わにした精髄を中核として呑み込み、その腹の底に納めるように膨れ上がった。
<水>の属性に帰せられたエーテルの濁流は彼の新たな体組織となった。
氷甲の現前を得たエーテルは巨大化した彼を覆う強固な鎧装となった。
彼の頭部は今や天井を擦り、その体格は校舎の壁を突き崩した。
滴るエーテルの涎は触れる床や窓を凍らせた。
エンガクジは既にヒトの形相に留まる事を止めていた。
その姿はもはや血肉や骨によるものではなく。
劣化エーテルの模晶質によって再現された、力ある一つの幻影。
イドの怪物、種族のイドラ、あるいは自意識の獣。
「このオレを本気にさせたこと、死にながら後悔しな」
氷晶の大猿が、いかにも人間らしいニヤけ笑いでシズマを見下ろした。




