シズマ Ⅱ - ① - α v.s.エンガクジ
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夜の校舎は冷ややかだった。
壁も床も天井も全てはひんやりとして、胡乱な視線を闖入者に向けていた。
電灯や建材も変わり果てた姿となって、廊下に散乱していた。
破れた窓ガラスは、その破片でさえ、もう何も映してはいない。
濃紺より暗く深い闇は、剝き出しになった鉄骨を実験室の白骨のように青白く浮かび上がらせた。裂き割られた木材は地下室の朽肉となって、赤黒く萎んでいた。
時刻は午後九時を回っていた。
石築シズマは警備室を後にして、半円形の校舎にある二階の廊下を歩いていた。
その彼の前に、ふらりと一つの人影が差した。
「おっと、まだいたのか。全部片付けてやったと思ってたとこだったのによ。ゴキブリみてぇに湧いてくんだな、テメェら。弱ぇクセして手間ばっかかけさせやがって。ったく、それにしたって、わかんねーもんかねぇ。フツーの人間がちょっと武装したくらいで、他のザコどもはともかく、オレらAランクに勝てるわきゃねぇだろ。バカじゃねーの。まっ、バカだから、こんなことしてんのか。マジでウケんだけど」
声はエンガクジのものだった。
シズマは眼を凝らした。宵闇が必ずしも彼の認知を妨げている訳ではなかったが、情況を理解する事に時間がかかったのは確かだった。
そうして、シズマが認識と意識の調停に手間取っている間に、エンガクジは歯を剥き出しにして、いきり立った。
「にしても好き勝手やってくれたよなぁ、テメェら。おかげで学園はメチャクチャだ。そりゃインドウ先輩だって怒るわ。キジマのアホもケッコー焦ってたみたいだしよ。けどな、はっきり言ってオレは思ったぜ。『こんなもんか?』ってな。こんだけやりたい放題やって、この程度なのか? テメェらが何しに来たのかなんて知らねぇし、別に知りたくもねぇ。テメェらに興味なんてねぇよ。けどなぁ、能力がねぇっていうのは、能力者だろうと、フツーの奴だろうと、ホントどうしようもねぇよなぁ。何やったってダメなんだからよ。ある意味、同情するぜ。テメェは単に無能ってだけじゃなくて、運まで悪いんだからよ。なにしろ、このオレにぶつかっちまったんだからな。安心しろや。オレはインドウ先輩みたいに優しくねーし、スカしたキジマみてーにわざと手加減したりもしねぇ。全力でぶっ潰してやるよ。こんだけ、やらかしてくれたんだからなぁ。ちっとばかし礼をしねぇと、さすがのオレも気が済まねぇからよぉ!」
そう言って、エンガクジが得意気に右の掌を突き出した時。
張り詰めた薄氷に亀裂が走り、ばっくりと割れる。そういう音がした。
少なくとも、シズマはそう感じた。ピシリと鋭く、冷たい音を聞いた。
だが、それは現実ではなかった。実際の現象として空気が震えた訳ではなかった。
幻覚と言えば、そうかもしれなかった。しかし、それは在るものだった。
現象なくして、確かに存在する、存在そのものであった。
即ち、見えざるモノ、聞こえざるモノ、触れ得ざるモノ、それはその先触れだった。
世界の彼方から一点を通じて現象界に流出する本質の先駆けだった。
エンガクジの右掌、その先の場が明らかに歪み、一つの点が析出されていた。
彼の唇に引っ掛けられた劣化エーテルの貴石、蒼色の模晶石が仄かな輝きを帯び、明滅し、すぐに激しく輝き始めた。
エンガクジが口を大きく歪めて、攻撃的な笑みを零した瞬間、微かな擦過音を立てて、それは今度こそ確かに音だった、小さく薄く鋭利な何かがシズマの眼前に迫った。
しかし、シズマが兆しを捉えた時、彼の左手は既に斧を握っていた。
もし観測者がその場にいたのなら、事象はあたかも彼が何もない中空から得物を引き抜いたかのように収束したかもしれなかった。
しかし、客観とは一つの憧憬に過ぎず、そうであればこそ観測とは一つの臆見である。
というのも、それは元からそこに在るのだから。
常に、何処にも、どの様にも、それは在り、シズマはそれを知っていただけだった。
配慮したに過ぎなかった。気づき、手を伸ばし、掴んだだけだった。
その暗く輝く凶器を。
魔女狩りの斧、ラスコーリニコフの狂気。黒陽石のロジオーンを。
淵より昏い、温度を持たない刃は、高速で飛来する氷の刃を迎え撃ち、打ち祓った。
薄氷の切っ先は僅かな衝撃も残さず、現実の中に溶け出て、俄かに消滅した。
厳密には、それは氷ですらなかった。
現象界に流出したエーテルがそのような表象を得たというだけの事でしかなかった。
しかし、それでも人は、それに能力という名前を与えて、恐れ、隠し、怒り、誇り、
欲しがり、見せびらかしもした。
能力との向き合い方は人となりと同様に十人十色であり、千差万別だった。
エンガクジの場合は、はっきりしていた。
彼は能力を使う事に何の衒いも躊躇いもなかった。
彼の能力は強大で、彼は圧倒的な才能を一方的に他者に叩きつける事を好んだ。
「ビビったか。まっ、今のはアイサツみてーなもんだ。オレの能力は特別って言われててなぁ。<水>なのは間違いねぇんだが、<土>にも限りなく近いんだってよ。まっ、どっちだっていいんだけどな。要はオレが最強ってことなんだからよ。どうやらテメェも能力者みてぇだが、ザコだっていうのは見りゃスグにわかる。言っておくが、次はねぇぞ。ザコはザコらしく消えな!」
宣言が終わると同時、エンガクジの右掌の先で揺らめく流出点、数多の光輝と幾多の色彩を湛えた宝石箱のような一点から溢れ出したエーテルは、この世界という現実性から抵抗を受け、劣化し、あたかも物質であるかのような表象を得ると、その見かけの現前性はエンガクジの口の端に付いたピアスが放つ輝きに導かれて、その原点を延長し、肉付け、確たるものとするかのように、一振りの形相を再現した。
雪のように白く細い単調な柄、それをエンガクジが握り締めると、氷のように蒼色に透き通って燦めく、荒々しい諸刃の剣 身が露わになった。
それは、<水>の属性に帰せられた劣化エーテルの模晶質。
長剣のオルガノン、蒼玉のササモリ。
自身の武器をエンガクジはおもむろに振った。何気ない挙動だった。
呼吸のように当然の仕草だった。
重さを微塵も感じられない、自然な動作だった。
しかし、生起した現象は紛れもなく不自然で、現実を切り裂く凶刃だった。
滑空する氷の刃が再びシズマを襲った。
匂い立つエーテルの軌跡に半身を惹かれた彼は寸でのところで相手の先制攻撃を躱した。
エンガクジは動じず、ニタニタと笑みを浮かべながら更に長剣を振りかぶると、その切っ先から放たれた新たな氷刃が標的を追撃した。
シズマは踏み込み、斧を振るって、飛来する悪意を消滅させた。
エンガクジは余裕綽々と、次々に在り得ざる害意を世に放った。
矢継ぎ早に繰り出される水平方向の鋭利な驟雨を、シズマは足を使って躱し、体を捻って避け、斧でもって凌いだ。目的を達し得なかった氷の刃は、宙を飛んだまま、あるいは斧に直撃した途端、現実に阻まれ、蒼色の燐光を残して密やかに消滅した。
「オラオラオラ、どうしたどうしたどうした⁉ 守ってるだけじゃ、どうにもならねぇんだよ! ちっとばかしデケェってだけじゃ、どうにもなんねぇんだよ! オラァ、テメェも能力者だってんなら、ちったぁ楽しませろや!」
エンガクジが煽っても、シズマは付き合う気にはならなかった。
相手に時間と距離を与えてしまえば、それだけ相手が有利となった。加えて、ここが廊下である以上、左右の運動は限定され、進行方向は容易に予測された。
だが、それは相手も同じ事だった。接近すれば優位は容易に入れ替わるものだった。
シズマは殺到する敵意を防ぎながら、廊下を駆けた。
地に平行して降り注ぐ氷刃の雨は、いつしか霰の弾丸、その嵐となって、ますますその勢いと速度を増し、次弾と次々弾の間隔はいよいよ短くなって、濡れた床は盛んに彼の足を掬おうとした。
エンガクジの能力と攻勢は強烈そのものだったが、シズマは前進を止めなかった。
左右に床を蹴って、幾度も体の位置を入れ替えた。
進むと見せかけ、あえて後退し、相手の予測を裏切った後、再び前に出た。
左手の斧で悪意を凌ぐのは最後の手段だったが、この時は確実に先へと進んだ。
止まってしまえば、より恐ろしい事になると知っていた。
だから、シズマは次の一歩を、更なる一歩を踏み出した。
だが、エンガクジもまた抜け目がなかった。シズマの思惑など見透かしていた。
ふと、正面から襲い来る氷刃の雨が止んだ。
シズマはそれを一瞬でも意外に思い、動きを止めた。
すると、エンガクジはゆっくりと、敵を虚仮にするかのように蒼い長剣を振った。
エーテルの流出に新たな力線が混じった事を悟ったシズマは咄嗟に体を翻した。
しかし、それは鋭敏に過ぎる反応だった。
エンガクジの剣の切っ先から撃ち出された新たな氷弾は、刃というよりはウニかヤマアラシのように刺々しく、尖鋭的で、その動きはすこぶる緩慢、進行は遅々としていた。
シズマはこれによって完全に運動のリズムを狂わされ、行動のテンポを崩された。
彼は強引に体勢を入れ替え、左手の斧で漂い来る氷の結晶弾を迎え撃った。
暗く輝く刃、物自体の類比に触れて、現象界における劣化したエーテルの表象はたちまちのうちに現実へと還され、後には白い靄と体勢を崩したシズマだけが残された。
獲物の弱みを嗅ぎつける捕食者のように、そこに生じた隙へ目敏く付け込むエンガクジは自身の剣を両手で振りかざして、シズマに躍りかかった。
「近づきゃ勝てると思ったかぁ、このバカがぁ! テメェみてぇなザコに、このオレが負けてるトコロが一個でもあるわきゃねぇだろうが! ちょっとデケェからってイキってんじゃねえぞ! ザコはザコらしくブをワキマエロよ、オラァ!」
急ぎ斧を振り上げ、力任せに叩きつけられた剣撃と斬り結んだシズマは、濡れた足場と勢いづくエンガクジの双方に対処を迫られながら、激しい白兵戦を演じた。
氷刃と化した劣化エーテルの剣身は魔女狩りの斧と衝突する度になけなしの抽象性すら失って、即座に還現され、立ち消えていったが、そうして掻き消されていく側から、エンガクジの才によって溢れんばかりに流出するエーテルが、次々と新たな刃を補ってしまうと、埒とは一向に明かないものだった。
エンガクジは突破口を見出せずにいる敵を小馬鹿にして笑い、嘲弄するかのように、攻勢の最中、氷の長剣を片手で振るって、シズマに違和感を抱かせた。
些細な変化を察知する事は、今度は良好な結果を生んだ。
柄を離した、もう一方のエンガクジの手の内に、新たな柄の形相が再現された。
エンガクジがそれを掴むと、蒼氷の刃が燐光を伴って表象された。
間髪入れず、二振りの長剣がシズマを襲った。
気づいていなければ、即座の反応はできなかった。




