ハルト Ⅱ - ②
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朝と夕方の短い時間にだけ解放される校門を抜けると、執拗に茶色い半円筒形の校舎が眼前に聳え立ち、その威容で丘の上の風景を切り取っていた。
初めて学園を目にした時、ハルトは空の色を裁断する木材と鉄骨の矩形に圧倒された。
前庭に踏み出した足を地面からすぐに引き剥がす事ができなかった。
登校初日から彼は後悔していた。
いくら姉がいるはずだとは言え、こんなところに一人で来てしまって良かったのか。彼は臆病風に吹かれて、そう自問自答した。
さりとて、他に行ける場所などなかったのだ。
結局、その時はひたすら下を向いて、巨木にも見紛う校舎を視界に入れないように腐心しながら建物の影の中を道を探す蟻のようにして、彼は下駄箱へと歩いて行った。
そして、今朝もハルトは俯いたまま登校していた。
できるだけ恐いものを目に入れないようにしながら歩いていた。
そういったものはいつかは必ずやって来るにしても、できるだけその時を先延ばしにできるようにしていた。無理につらい想像をしても余計に苦しくなるだけだから、考えないようにしていた。わかったところでどうせ彼にはそれに太刀打ちできるだけの能力はないのだから、嵐は過ぎ去るまで耐えるしかなかった。
もっとも、ウラガの時がそうであったように、嫌なものとは、苦痛とは、不快とは、得てして青天の霹靂であった。
ユイ達のグループがだいぶ前に通り過ぎたはずの下駄箱で、鈍くさい彼は特に何もないのにまごついてしまって、結果論ではあるが、それが良くなかった。
靴から上履きに履き替えた直後、彼は三人の男子生徒に囲まれた。
「さっき、ユイと一緒にいた二年だな?」
人影が三方から覆い被さり、特に正面に見える一際背の高い、自分の体よりずっと大きなシルエットに威圧されて、ハルトは全身を硬直させた。
相手には見憶えがあった。それは単に、先ほど通学路で見かけたから、という理由ではなく、この学園の生徒であれば誰もが知っているような顔だったからだった。
がっしりとした体つき。高校生どころか大人でも到底敵わないような上背。
さっぱりとした短髪に、ラフながらも清潔な感覚で制服を着こなして、右手首に巻かれたミサンガは紅い模法石を咥えていた。
その体格と才覚に恵まれた男子生徒はインドウといった。
学業においてもスポーツにおいても能力者としての技能においても、学年トップの成績を収め続けるAランクの三年生を知らない者はこの学園に一人としていなかった。
「聞いてるのか?」
語気荒く言葉を重ねたインドウの表情は、通学途中にリザやユイに見せた爽やかな笑顔とは似ても似つかない厳しく険しいもので、その迫力にハルトは思わず、ひっ、と微かな悲鳴を漏らしてしまった。
それを、彼から見て右側に立つ二年生の男子が耳聡く捉えて、すかさず嘲った。
「おい、オラ、お前。インドウ先輩が聞いてんのかって訊いてんだろうが? あ? どうした? オラ? ビビってんのか? え、ビビってんのか?」
そう言って煽る男子生徒はハルトほどではないにせよ、高校生にしては背の低い部類だったが、派手な色の髪を逆立て制服を着崩した、いかにもヤンチャそうな外見から受ける印象に違わず、三人の中ではもっとも攻撃的だった。
彼はニヤニヤと笑いながら、体を揺らしつつハルトに詰め寄ってきた。幾度も舌を鳴らしては威嚇の仕草を露わにして、あからさまに怯えるハルトを見て、歪に口角を持ち上げた。唇の端に引っ掛けられたピアスから模法石のぬめった 蒼い輝きが滴っていた。
「止せよ、エンガクジ」
放っておけばハルトが泣くまで示威行為を続けていたであろうAランク生徒を窘めたのは、もう一人の二年生だった。
「お、どした、キジマ? コイツ、かばっちゃうわけ?」
「そうじゃない。だが、今はインドウ先輩が話してる時だ。控えろよ」
薄ら笑いを浮かべ、少々気取った口調でそう言った二年生は、細身の体型、同年代の平均より高い身長で、きれい目にセットされた黒い髪は男子としては長めだった。
細い黒縁フレームの眼鏡と、着崩さずとも洗練されたアレンジで着こなす制服も含めてスマートな印象で、ハルトが知っている人の中ではウラガと少し雰囲気が似ているよな気もしたが、より鋭く、尖った雰囲気で、なにより一番の違いはやはり右耳のメタルピアスが鷲掴みにしている紫色の模法石だった。
「しゃあねぇな。でもよテメェ、インドウ先輩に呼ばれてんだろうが。返事くらい、きっちりしろや。まともに喋れねぇのか、え?」 小馬鹿にしながらエンガクジが脇に退くと、再びインドウが前に出てきてハルトを上から睨みつけ、彼はその大きな影と力強い眼光に殆ど押し潰されそうだった。
「いいか、Fランク」
今にも爆発しそうな怒りを堪えるかのように、インドウは静かにゆっくりと言った。
「ユイは優しい子だ。お前らみたいな底辺のFランク相手でも、普通に話してやってる。だけど勘違いするなよ。ユイはお前にだけ優しいわけじゃない。みんなに優しいんだ。この間も、そこを妙な勘違いしたクズ野郎がユイを泣かせやがった。オレたちは、ユイを、仲間を傷つけるヤツを絶対に許さない。ソイツがどうなったか、底辺のFランクにもわかるよな? わかったら、これ以上ユイに近づくな。これから先、もしお前がオレたちの視界を汚すようなことがあったら、その時は」
インドウはそこで言葉を切った。続きを言う代わりに、より強い眼光をハルトに叩きつけて、彼の言葉をそれが形になる前に磨り潰した。
ハルトは息が止まりそうだった。何も言えなかった。
仮に何かを言ったとしても「言い訳をするな」と怒鳴られたり、殴られたりするのがオチだった。そもそも口を開くどころか、インドウの目をまともに見返すこと自体、ハルトには到底できることではなかった。
彼はただ目を瞑り、下を向いて小さく頷いた。
「わかったのか?」
インドウは睨んだまま、もう一度念を押した。ハルトは俯いたまま、もう一度頷いた。
「何をやっている?」
それは、実際のところ助け舟でも何でもなかった。ただ、ハルトを叩き潰そうとする空気が少し風向きを変えて、流れただけだった。それでも、ハルトはそこでようやく三人の視線から逃れて、息継ぎをする事ができた。
「モモイ先生、どうしてここに?」
インドウは驚きを口にした。オールバックに撫で付けた黒い髪と長身痩躯のスーツ姿が目立つ教務主任にして、A・Bランク教室の担任教師である男が真後ろに立っていた。
国内にまだ一人しかいない能力者の教員は、ノンフレームの眼鏡越しに冷たい視線を三人を投げかけながら、冷淡な言葉を発した。
「どうして、ではない。お前たち三人が時間をムダにしているようだったから、わざわざ時間を割いて指導しに来たまでだ」 「先生、インドウ先輩はただ」
「他人を庇っている暇はあるのか、キジマ。時間はどんな者にとっても有限だ。優れた人間はそれを忘れない。無能な人間は時間を無為に過ごし、暇を持て余す。有能な人間は一分一秒を惜しまず、努力し続ける。浪費した時間は一生をかけても、取り返すことはできない。だからこそ、有能な人間 は常に忙しくする。インドウ、お前にはそれがわからないのか。いや、わかっているはずだ。というより、一番わかっていなければならない。Aランク教室のトップとして、この学園の生徒の頂点に立つ者として」
インドウは唇を噛み、拳を握った。模範生は「はい」と一言だけ答えた。
「なら、なぜ最底辺のFランクを相手にして時間をムダにする?」
「すみません」
「すみません、ではない。申し訳ありません、だろう」
インドウは大きな体を微かに震わせて、言われた通りの言葉を繰り返した。
モモイは無表情に頷くと、二人の二年生に視線を向けた。
「キジマ、エンガクジ。お前たちも他人事だと思うな。お前たちはこの学園ではトップ層だが、社会に出ればもっと厳しい環境が待ち受けている。理事長は、お前たち生徒が世界の市場に通用するような商品としての価値を持つように成長することを望んでいる。それを決して忘れるな。そのために、いついかなる時と場合でも決してムダな行動はするな。常に努力し続けろ。わかったな」
上位ランクの三人が一様に首を縦に振って素直に訓告を聞き入れる姿勢を示すと、モモイは満足したのか、「行くぞ」と背を向けて歩き始めた。
インドウは脇目も振らず、すぐに担任の動きに追随した。
キジマはつまらなそうにハルトを一瞥し、舌打ちをしてからモモイたちの後を追った。
エンガクジは憎々しげにハルトを睨みつけると、去り際に唾を吐き捨てていった。
一時間目の授業開始を告げる電子チャイムが鳴った。
ハルトは放心していた。
今になってから、急に体中が震え出してきた。
それでも早く教室に行かなければ、教師に叱りつけられてしまうだろう。
頭の中は相変わらず真っ白で、情緒はどうしようもなく不安定だった。
込み上げてくるものを必死に堪えながら、ハルトは教室に走っていった。




