ハルト Ⅱ - ① - B
いつのまにかユイの話題は中学時代の出来事から、この学園に進学してから起こったことやそれについて自分が思ったことへと移り変わっていた。彼女は決定的な単語を使うことを注意深く、あるいは無意識に避けながら入学したばかりの頃を振り返った。
「でも、今まで全然やったことない科目だったから全然わからないし! じゃあ他の子はどうなのかなぁって思ったんだけど、みんな学園に来てるってことは最初どんな風に話したらいいのか全然わからないでしょ? でも、それってみんなも同じじゃないって思って、思い切って話しかけてみたんだ。そしたらみんな本当に普通の子で! 実はみんな同じこと思ってたってわかったし、それにすっごい良い人たちだったんだ!」
ハルトは一貫して会話に消極的で、決して良い聞き役ではなかったが、ユイはそれにも関わらず声を弾ませ、ひっきりなしに喋っていた。それは彼にとっても好都合で、よしんば彼に会話の主導権が渡されても、そこから話を広げて、面白いトークの一つや二つを披露してみせるような真似はできないに違いなかった。
ユイの話にはハルトの知らないA・Bランクの教室にいる生徒達の名前が次々と登場した。特に優秀なキジマやエンガクジ、それに三年生だがインドウという三人の男子の名前は頻繁に挙がった。しかし、それ以上に彼女が親愛を込めて何度となく呼ぶのは、学園でも有名な、それこそハルトでさえ知っているような留学生の名前だった。
「リザってスッゴいんだよ」
ユイは自分のことのように嬉しそうに言った。
「あ、リザってエルジェーベトさんのことね。石上クンも知ってるでしょ? 日本に来た時、結構テレビとかもやってたし、入学式の時も新入生代表だったし、有名だからわかると思うんだけど、リザって本当に可愛くて、キレイで、なんていうか海外の女優みたいなの! しかも、頭も良くって運動神経も良いんだ。なんでも完璧にやらないと気が済まないんだって。それで、能力までAAランクって、もうどれだけ持ってるのって感じなのに、えーと、ほら、あのヨーロッパの国なんて言うんだっけ?」
ウンガリア王国。ハルトが呟くように言葉を補うと、ユイは激しく頷いた。
「そうそう、リザってその国のお姫様なんだよ! スゴくない? 石上クン、実際に王女様って見たことある? 私、そんな人、ニュースとかマンガとかドラマでしか見たことなかったから、今でもリザと友達になってるってこと、あんまり実感湧かないんだよね。それくらいリザって普通に良いコで。最初はみんなで殿下って呼び方にしようとしてたんだけど、リザの方からリザで良いですよって言ってくれて。さすがにみんなもちょっと遠慮しちゃったから結局、姫様って呼び方してる人が多いみたいだけど。私はたまたま寮の部屋が隣同士でそのまま一緒にいることが多くなっちゃったから、いつの間にか名前で呼び合うようになっちゃった」
ユイはそう言って照れくさそうに笑い、そのまま親友に対する雑感を話し続けた。
「それにリザってあれだけ才能あるのに、結構マジメなんだよね。実習の時間だって、ほらカネダ先生っているでしょ。鍬とかおっきいフォークとか使わせようとしてくる、あの変な先生。先生自体がフツーの人だし、初めの頃はみんな全然やる気なかったのに、リザが率先してやり始めたんだ。そしたら、みんなもちょっとずつちゃんとやるようになっていって。 今はもう、どの授業もみんなマジメに受けるようになって。それはそうだよね。AAランクのリザがちゃんと授業受けてるのに、私たちが適当にやってるって訳にはいかないし。っていうか、今更だけどホントAAランクってスゴすぎるよね。世界に十人ちょっとしかいないんだって。石上クン、知ってた? 私、リザに会うまでそんなのあるって こと自体、全然知らなかったよ。学園の生徒でも初めてなんだって!」
ユイの何気ない共感の求めに、ハルトは息を飲んだ。
漠然と感じていた違和感が不意に襲ってきて、意識がざわついた。
そんな筈はなかった。
Aランクを超える能力者は既に学園に入学しているはずだった。
それなのに誰もそのことを知らないのだ。
「リザって成績も良いんだけど、それ以前に日本語も上手で、ほとんど私たちと変わらないくらいなんだよね。っていうか、むしろ普通の人は知らないような難しい言葉を変に知ってたりするし。前に、何だっけ、とにかく私、何かの時に『コテーガイネン』って言ったのね。あるでしょ、そういう言い方。そしたら、いきなりリザがスッゴい冷たい目で見てきて、『なんですか、それ』って言うの。私、知らないのかなって思って説明してあげたんだけど『違います。そんな言葉、日本語の辞書には載っていません』ってちょっと怒っちゃって。 それでどうしたのかなって思ってたら、『ガイネンはその全てがカテゴリーに及ぶ訳ではないにせよ、チューショーの成果です。ルイかシュで言えばルイ、フヘンかコブツで言えばフヘンなのですから、元来、貴方のシュカンの中で固定されるようなものではありません』とか言い出して」
おそらくはあまり似ていないであろうモノマネを交えつつ、ユイは少し変わった友人について、ぷりぷりと、しかし何処か楽しそうに文句を言った。だが、耳を通り抜ける彼女の声は、ハルトの頭の中に言葉として入ってくることはなかった。
「それで、私が『え? え?』ってなってたら、『ですから、貴方の中で固定されていた思い込みは思惑、ドクサであって概念ではありません。個人的な観念、単なる主観、つまりは固定観念であって、ただの先入観です』とか言って。そんな事、フツー気にする? しなくない? ていうかドクサって何? だいたい、私の方が日本語ネイティブなのになんで留学生のリザにお説教されてるの、って思っちゃってビミョーな顔してたら『概念の概念規定が曖昧な論文なんて何処にも通りませんよ』とか言うの! 大学生じゃないんだからって、私、思わずツッコんじゃったよ!」
ユイはそれからも、やんごとなき留学生の親友や、周りの友人達と過ごした日々について上機嫌にあれこれと語った。
放課後はいつも校舎三階の外れにある談話室でリザと一年生の女の子と三人で一緒にお喋りしていること。終業式の日にはクラスの友達と 寮で打ち上げをした事や、夏休みに許可を貰ってリザや他の女子と一緒に都心の街へ遊びに行ったこと。麓の町から引越した両親の許へと帰ったこと。夏休みの宿題をみんなで協力して終わらせたこと。
ユイは明るい声色のまま終始同じ調子で喋り続けていたが、沈み込んでしまったハルトの気分はもう元には戻らず、相槌さえ碌に打てなくなっていた。
本来であれば、ユイのような女子が隣を歩いてくれることは、ハルトのような男子にとっては喜ぶべき出来事であったはずなのに、今の彼には、頭を押さえつけ、肩から背中にかけて重くのしかかってくるような圧迫感の源泉としか感じられなかった。
だから、「ユイ」と不意に背後から呼びかけられ、かつての同級生 が足を止めた時、ハルトもそれに合わせて立ち止まり、胸のどこかでほっとしていた。いつも以上に息苦しくなった通学路が少しばかり楽になるのだと彼は思っていた。
ユイは綺麗に体を翻し、桜並木の梢の先より外側に凛として立つ女子生徒を屈託のない笑顔で迎えた。一オクターブ高い声で、彼女は女子同士の挨拶をした。
ハルトはそれに吊られて、固まっていた首をそぞろに動かし、体の向きを傾けた。
燦々と照る九月の日差しの下に、長く美しい金色の髪が溢れるように流れていた。
少なくとも、まずそこに目を惹かれてしまったハルトにはそのように感じられた。
他に言い方を考えるにしても、彼の稚拙な語彙力では、今まで読んできた幾つもの物語の中にあった様々な修辞を引き合いに出してみる他なかった。
あどけない琥珀色、甘い蜂蜜の色、輝かしき麦畑。燦めく黄金。太陽の欠片。
そのどれもが合っていて、そのどれもが正確ではないと思えて、結局のところ彼はただ綺麗な金髪と言う平凡な感想以外を持てなかった。その女子生徒の長い髪は脱色剤による燻んだ発色とは違う、生まれながらの内なる輝きを秘めているようだった。
そう、彼女はいかにも〝留学生〞だった。
その目鼻筋は、仄かな赤みを差した乳白色の麗らかな陶器のように優美で、瞳の色は深く品性を湛えた鳶色、背は男子の平均身長と殆ど変わらないくらいで、折り目正しい女子制服を長い手足で嫋やかに、しかし颯爽と着こなしていた。
遠目に見た事はあっても、彼がこの留学生を間近で見たのはこれが初めてだった。
そして、当然の事ではあったが、彼女の方はハルトの事など知る筈もなく、また目に留めた事もなかったに違いなく、現に彼女はハルトの方には目もくれず、親しい友人に真っ直ぐに歩み寄り、話しかけた。
「ユイ、どうして一人で行ってしまったのですか」
「え、だってリザが「行ってください」って言ってたじゃん」
「それはそうですが、そういう事ではなく」
「うーん、じゃあ私はどうすれば良かったの?」
二人の女子がなんのかんのと他愛のない言い合いをしている間、ハルトはその話に入るることもできず、さりとて黙ってその場を離れてしまっていいのかも良くわからず、ただ、ぼんやりと視線を落とし、王女の手元を見遣っていた。
彼女の右手、その薬指には白金仕立ての細身の指輪が嵌められていた。その上にあしらわれた鮮やかな燦めきは勿論、劣化エーテルの貴石、 緋色の模法石だった。
「だいたいリザって、私が行こうって言うと嫌がるところあるよね。前に行きたいパワースポットがあるんだけどって言った時もなんかスッゴい拒否られたし」
「それとこれとは別問題です。だいたい何ですか、そのパワーなんとかって。信仰と素直に言えない政治的事情でもあるのですか?」
「もう、だからフツーの人はそんなこといちいち考えないってば」
「考えてください」
やり取りから取り残されているハルトは所在無げに立ち尽くしていたが、やがて後方から一際目立つ、とりわけ派手で、殊更賑やかなグループが明るい道の真ん中を悠々と歩きながら、徐々にこちらに近づいて来ている事に気が付いた。
ハルトは殆ど条件反射のように怖気付き、身を縮こまらせた。
彼らがそのまま前を通り過ぎてくれる事をハルトは願ったが、しかし、悪い予感とは的中するように感じられるものだ。
そのグループの生徒達は通学路を占有するように大きく横に広がり、盛んに大きな歓声を張り上げながら、リザとユイの周りに集まってきた。
その顔ぶれは多彩で、飛び抜けて背が高い、がっしりとした体つきの爽やかなスポーツマン風の三年男子もいれば、殆ど制服を着崩して派手な色の髪を荒々しく逆立てた二年生の男子もいたし、男子としては長めの黒い髪と細い黒縁フレームの眼鏡がスマートな印象の二年男子もいた。
そんな男子たちの傍らには、艶のある綺麗な黒い髪をミディアムボブにした一年生の女子の姿もあった。
他の生徒たちも皆、男子女子に関わらず明るく溌剌としていて、アクセサリーに収まった模晶石の輝きも相まって、まさにキラキラとした雰囲気の人達ばかりで、ハルトのように目線を落として、まともに喋る事もままならないような者は一人もいなかった。
そんな友達の輪が口々にリザとユイに声をかけ、互いに挨拶を交わしている間、当然ながらハルトは一人、ユイと桜並木の陰に重なって身を小さくしていた。
影の中に出来るだけ溶け込んで誰にも気づかれないように願いながら目を瞑り、おとなしくしていた。下手に見咎められたら何を言われてしまうか、わからなかった。
幸い、グループの人達はみな、ユイと同じA・Bランク教室の生徒達で構成されていて、ハルトの事を知っている人はいないようだった。
唯一、黒髪ボブの一年生がこちらをニヤニヤと眺めているような気がして、彼はハラハラとしたが、その一年生が何かを言ってくる訳でもなく、最後までハルトはその場にいる人たちからは無い物として扱われた。
やがて、グループの面々はわいわいと騒ぎながら、登校を再開した。
白い日差しが降り注ぐ、輝かんばかりの道を、ぞろぞろと歩いていくちょっとした列が出来上がり、その先頭には件の留学生がいた。明るく華やいだ雰囲気の通学路は、普段ハルトが登っている倦んだ坂道とは全くの別物だった。
「ユイ、遅刻しますよ」
金髪の女子生徒が見返り、友人の名を呼んだ。
「あ、待ってよ!」
石上クン、またね。ユイはそう言い置くと、小走りで友達の後を追っていった。
ハルトは少しの間、梢で頭上を覆われた道の中に留まっていた。
会話を弾ませながら明るい道をゆったりと進んでいくグループの人達と十分な間隔が出来るのを待ってから、彼はのろのろとした足取りで残り短い通学路に踏み出した。




