八
月を見上げて鳥を見た。雲を退けて飛ぶ鳥が居た。雲を崩さねば舞えぬ高さで、真っ直ぐに進むその一瞬に月を隠した。ハセはその強大さを遠目に眺め、一方的に眺め、己の醜い弱さが為に、心底喜び恐怖した。
「あんな鳥が僕等を背に乗せてくれたらなあ」
隣で少年が囁いた。
風に揺られる我が身可愛く、穀物の匂いに酔い歩くハセが、佇む月に揺るがぬ鳥を見た夜には、感動せずにはいられないだろう。此処より遠く人々の日に当たる様を浮かべたハセには、そんな無邪気もまた驚きであり感動であった。
ハセはまた、この子があんな存在に慣れてしまっているなら、何が居た所で人の世は変わらないなと、悲しみと安らぎとを抱いた。一つの感情をのみ感じる事もまた難しく、然しそれが自然であり、そしてそれが感動だ。ハセは囁かにこの幸せを抱いた。
「そうだね。乗せてくれたらいいね」
にも関わらずハセは、彼に驚いてほしかったのだろうか、だとすれば虚しい妄想だ、少なくとも壊してほしかった訳ではない筈だ、と自分の何かを否定するばかりだった。
「本当は貴方の背で充分なんだけど」
木々の隠すずっと向こう、沖の白む気配が、鳥の羽搏きと共に屋代へ届く。
「おはようアヤナ。……態々エディエから飛んで来たのかい?」
羽搏く余韻の狭間に燥ぐ懐かしい顔が、誘う様に髪を揺らす彼女を見下ろしている。
「ははは、エディエの鳥は相変わらず速いから、そう苦でもなかったよ。風も不思議と心地好かった。久しぶりの飛旅は存分に楽しめた」
そう返しつつ、降りる際、不憫に微笑む彼女が目に入り、裾を一二度叩いた後、鳥の頭を見上げて呟く。
「それとも彼に言ったのかな?飛んでくれたのは彼だからね」
此奴も此奴で相変わらずだと、今度は確りと彼の目を見詰めて、少し揶揄う様にも見える笑みで答える。
「いやいや。……楽しんでもらえたなら一先ず良かった。……カイェ、もうお帰りなさい。親鳥が待っているだろう」
鳥は何を思ったか一度鋭い目を向けて、或いは答える様に首を一つ捻った後、直ぐにその場を飛び去った。
「可愛い奴だ」
明らかに宿木を目指して飛ぶカイェを眺め乍ら暫く二人で話した。
「君は随分と早くから此処に来ていたみたいだね」
「この一代は私の番だろう?決めたのは君等だと言うのに忘れたのか」
「そうだったね。……いや、忘れた訳じゃない」
「……はぁ、ままいい。立ち話はこのくらいにして、もう行こう。私は初めから居たから確かに随分と早くから居た訳だが、もう君以外は揃っているんだよ」
八千諸々生物或いは存在達が、それでも余りある広間を優雅に蠢いている。飽く迄それは向かう二人の目から見て。
「遅かったな。お前も早くネオーテから何時もの受け取って来いよ」
「先に彼女に渡されたよ」
「……そうか。はは、相変わらず……」
交ざれば小さな寄り合いだ。皆知った顔、聞いた声、懐かしくもあり、飽きもする、何時もの呑気な談義だ。
「こんな下らない、ちょっとした事迄決まってた……なんて思うとそれはそれで、なんだか可笑しくないかい?」
初めに衝突したのは彼女だった。珍しい事もあるものだとアヤナは思う。何やら楽し気に話し乍ら三人へ交差した一対へ、彼女一人が衝突した。
それに依り止んだ会話はこんなものだった。
「然しね、だとすれば、解釈次第では過去を変えられるという事になる。……追憶が追憶で無くなってしまう」
「何が言いたいの?」
「人が自ら神秘を生み出せる可能性だよ」
「……人知を超えて神秘になる。神秘は元より、人が生み出すものよ?」
「そんな言葉遊び……いや、はは、そうだな。解釈次第なら、言葉遊びにも意味があるのか」
「意味がある?貴方らしくないわね」
「言葉遊びは嫌いじゃないが、使い熟す程意味を追求するのは好みじゃない」
「曖昧な言い方が好きなのね。余計に引っ掛かるよ。それなのに意味があるだなんて」
「ははは、意味って言葉は、この上無く曖昧だろう?」
止んだ空気に誘われて、酔った様な男が掻き分けに割り込む。或いは気遣いか二人を押し退け、高笑いを決め込んで。
「一年振りだな御三方」
「何しに来た」
「……相談だよ」
笑いを扣える気はどうやら無い。アヤナはもう一人と気怠気に立っている。彼女は少し怪訝な笑みだ。
「人をどう思う?」
「好きだね。食べてしまいたいくらいだ。……それが相談か?愈々可笑しいな」
嘘だと思わせたいのか、答える迄が早過ぎる。取り敢えずは笑っておこう。
「何だ」
こう笑ってほしかったのか。態々こんな可愛く笑ったくらいだから。
男は寂しそうなしたり顔で続ける。相変わらず声には笑っている。
「人の性欲を甘く見るな。残虐は性欲の一面に過ぎない、その一面に過ぎない残虐さを鑑みれば、奴等がお前を犯すのは最早自然だ。食欲も異常だ。……戯れて平気か?相談とは、それなんだ。俺にはもう辛い。平定をこ」
彼女が遮る。待て、と掌をふわりと重そうに。
「丁度いい。人に神血を注いでやろうかと考えていた所だ。私にも恋しくなる時はあるしな」
此処で男の側近が追い付いて来た。少し態度が変わる。談話のつもりには変わらない様だが。
「朕に人の争いを抑えろと無理を強い、その挙句にそれか。下賎に犯されるのは構わぬと。……それとも貴様に取っては人は皆同じ愛玩動物か。然しよく発情出来るな」
「女は注がれるだけだから、と言う事でしょう。神血を注いでやろう……下らない洒落ですよ。まあ、幾らでも出来る……なんて言ってましたし、性欲も無差別に強いんでしょうけど」
「一年中発情期の人間に言われたくない」
「比じゃないでしょう」
「私は幾らでも出来るってだけだ」
「へぇ」
男はある種の感嘆を転がし、暫し転がしてからまた口を開く。戻したいか、進めたいか、そんな躊躇いに見えた。
「なら俺に犯されろ。これでも今迄はお前も神と敬って来たつもりだ。然しそれはもうやめて、崇めてやる事にした。妃になれ」
「急にどうした。お前は狂ってるが、そういう類いには狂っていなかったろう」
「此処からでも見える。木は実を粗方落とし終え、海は荒波を押し付けてくるばかり。人間には辛い時期だ。破綻は目に見えているがその節の、僅かな節でもお前に貢がせる」
「……私が貢ぐのか?」
「そうだ。人情を理解したいと言っていたからな、嬉しいだろう」
本気に思わせたかったのだろう、そういう間だった。と、お互いがお互いに思い、その話はその儘に、一度、明らさまに振り返った。
「神も夢を見るのか?」
「また唐突だな」
「哲学じみた遊びをしていただろ。……遠いものは皆夢だ」
「神などと、君等が始めた事だ。少なくとも私は何も作らなかった」
「……言葉もか?」
「そうだな」
主には世界をか。
「先に居たのは確かだ。自然を崇拝する君等が我等を未知と畏敬するのもまた自然だが、本当にただそれだけなんだ。……だから、ふふ、少し話が戻るが、だから犯されるのも、君の言うのとは少し違った意味で自然なんだよ」
例の一対も未だその近くで話していた。
「他者との会話はそれだけで落ち着く。心地好いかは相手とその時の気分次第だが、此処では自然に、心地好く話せるらしいな」
そしてまた、楽し気な会話を続けている。
「根底にあるのは悔しさだと思うんだがどうだろう。悔しさという言葉は尚曖昧であるからそう思ってしまうだけだろうか」
「寧ろ中間にあるものじゃないのかな、それって。……中間って言い方も何か変だけど、多分そんな感じたと思うわ。私だけ悲しむのは悔しい、だから何かをする。何で痛い思いしなきゃいけないの?悔しい。逃げ出したい。……貴方なら、相手の笑う顔が気持ち悪くて、何かを思われるのが嫌で、それが悔しくて逃げ出さない?……何もしないのも……だから玉砕かな。……ふふ。……失うのは怖い。負けるのは辛い。失敗は悔しいから、やりたくない」
あの男は彼女と話し終えると、それきりその場を後にした。早いもので、もう人の道を歩いている。
「然しあれで宜しかったのでしょうか」
「神など種族に過ぎん。王たる朕には万物が仕える。神とて個々では弱き存在だろう。何か纏めるものが必要だ、そういう欲求も持ち得る筈。形ばかりの玉座だが、人が座れば全てが集う。……直ぐに死ぬ我等だが、反ってそれがいいんだろう。どうしてこんな俺を選んだのかは知らないけどな」
それで前に向き直る。
「兎も角支配を具現していればいい」
然し不服は緩和されなかったようだ。
「……或いは対等だ。今日くらい……それともその事に嫉妬してるのか?」
それでも帰路は長いものだ。