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人の気紛れに  作者: 御堂 三波 (みどう みうねり)
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 そうだった、取り敢えず、書いてみるんだった。迷いが悩みに変わり始めて、思い出した。


 続きが浮かばないのは、書き終えたからだろうか。それなら……いや、未だ決めるのはよそう。浮かんではいるんだ、書く迄も無く沈んでいるだけだ。沈まない物があれば、それを只拾っていよう。今は未だそれで良い。



 喋っているし、落語の様に始めてみるかな。


「お久しぶりだね徳さん」

「おう辰か。お前はそう久しぶりでもなかろ。それより嫁さんを近頃見ぃせんが生きとるか」

「会ってそうそうそりゃないでしょう」

「今のは言い過ぎたが逃げられたんやろ」

「居りますよちゃんと(うち)に」

「ほうそうか。そりゃ可哀想にな。偶にゃあ日に当てたらんとな、なあ?」

「……それはまあそうだけどね、風邪気味でそうもいかんのよ」

「日に当てんもんで腐るんだがや、天日に干しい尻叩いたりゃあええわ」

「……何がええのよ」


 ほうら、御後が宜しいな。と繋げるつもりが何も浮かばん。

 別に、落語の様に終わらせたかった訳でもないのだけれど。



 もちっとゆるやかにいこう。幸い睡魔も隣り合わせに、夢見心地だ。

 滑らかにもしようかと、愈々一つ引っ張り出して来た。そして此処へ落とす。


 点々と 波につかるゝ 徒花よ


 私はどうにか呑気でいようと必死らしい。こんな矛盾を誰かが笑い、そうやって誰かを呑気にいさせられれば幸いだ。

 呑気でいたい癖に、余り拾ってくるのははしたないからと、こんな自白を当てもなく続けている。


 然し一度やるともう駄目だな。


 騒がしい空間よりも、静寂に訪れたたった一つの小さな音の方が大きく感じる。

 感覚は大切だ、それが人なのだから。赤の中の赤より、緑に滲む赤の方が赤く見える。

 ――男が肉を食べている。肉を鷲掴みにして食べている。汚れたのは手か肉かどちらだろう。


 そんなものに客観はいらない。敢えて考える事があるなら、その肉が誰の肉かだ。

 そんな事を今に思ったから、矢張りもう駄目だ。然しこれもある種の浮かびだろう。

 現にこうして、続きすら浮かんだ。

 いや、立て続いただけのものを、流れ続きとは呼べないか。

 兎も角こうも浮かんだ。

 詩に価値があるとすれば、それは言葉が為に忘れてしまった事を、言葉を用いてこそ思い出そうとするその矛盾だ。人は繰り返す以外に生きる術を知らない。本来同じであるものを、分けずにはいられない。



 まあいいか。これも私の意思だ。書いたのが過去というだけだ。今に写している。

 羅列もまた楽しい。


 何が為か。己が為ではあるのだが、己が分からぬから、何も成せんのだ。


 神秘のゐる余地有りや。人は人より産まれ来る。形に意思有れど、器とするや、石の如き有様。此の世の人は、空蝉から誰が彫り出づる。骨に意思は宿りしか、残した物が、器なりや。


 思考とは不思議だ。思い考え、考え思う。分けて考えることは不可能だ。不思議に思い、考えた末そう思った。


 花なら、木なら、草なら、枯れようと、季節の所業か、美しかろうよ。仁術か知らぬが、死にもせず枯れた者達の、何が美しかろう。いじらしいと思えば、可愛いかい。物も言い様かね。可憐とは、迚も思えぬよ。今が可憐なら、暫し愛せよ。


 何れだけ眠りに救われていたか。音と光と、余りに障る。


 こびり付いた物の蓋を開け、上澄みを掬い、其れを紙に写し、詩が出来る。其処には其者と、其者が其時映したものが混ざっている。人情の詩だ。此れが尽きて、中汲みに移ると、今度は人を自然と見立てた詩が出来る。最後に沈殿したものを拾い集めると、只の詩が出来る。此れさえ有れば、後は自然と人とで、復詩が出来る。

 ――此れが尽きるとは考えられないけれど、虚なら虚で、きっと誰かが、其れを詩にしてくれる。


 其れが人に折られた花であっても、其処に意思はなく、自然の所業であるのなら、其の重なりを小さきものに写し込むことが情緒の本質でありましょう。感情なきものにこそ、人の思いの映し給われる。朽ちれとも、殺すことなきに。

 ――其儘で良い。其うでしか在れないのだから。


 今が夜なら、外へ出たのに。


 湧き上がるような感動と、染み込むような感動と。それらが喜びと悲しみのように繰り返されたなら、それほど有意義な人生はないだろうと思う。

 悲しみは悲しみでなければならない。そう言い聞かされた。それが道徳なのだと。悲しみに喜びを見出したのが宗教であるのだから、道徳は単に宗教を否定したに過ぎない。

 哲学は否定を用いて肯定する。何とも勝手な話だが、人生の価値、その探求こそ哲学の本質だ。価値を追い求めること自体に価値を見出したのが哲学者だ。

 私は何を追い、何を求めるのだろう。求めるものも分からないまま、追うこともできず彷徨うのだろうか。

 少し歩いてみようと思う。何かを拾うために、暫しの間下を向いて歩こうと思う。


 平和の生贄か。とんだ矛盾だな。

 ――冗談だよ。何と做く可笑しかったから、口に出してみただけだ。受け入れたなら、それが平和なんだよな。


 神が()を 貰ふ人より 侘びしけれ 君が愛無く 恋する吾よ

 愛敬は 夢よ(うつゝ)に 見立てとて (ふみ)にや潜む 御前(ごぜ)(こころ)

 (そぼ)(さう) (あだ)なる封に 懸想立ち 亦良からねど ()り捨てざりや

 垂る(ことば) 御前に道具と こそ成れば 乾びて(なり)(あらは)るべけれ



 最後にお気に入りの詩を写そう。これでもう最後だ。後はもう、私も少し、もう少し頑張ってみるよ。


 風はあったか、暗く静かな中に、運ぶものがあった。此処には無いものだ。探せば復見付かるだろうか。

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