手を離したのは貴女たちが先でしょう?
一切の感情が消えたティミスの目。けれど、どうして自分たちがそのような眼差しを向けられなければならないのか理解できない。エディルもベアトリーチェも、互いに顔を見合わせた。
ティミスが大切に慈しんでいるのはナーサディアだけだと、嫌というほどこの短時間だけで理解出来た。だが、この家の事情やエディルの想いなどは知らないはずだ。
「恐れながら…、わたくしは何故、皇子殿下がそのようにお怒りであらせられるか、理解できません。わたくしは、ナーサディアが大切だからこそ、」
「え?」
ナーサディアは、つい口に出してしまった。あ、と思い手で口を塞ぐも、その手をティミスにそっと離されてしまう。
「いいよ、ナーサディア。思うことを素直に言ってみて?僕がついているから」
「えぇと…」
本当に言ってもいいものだろうか。
どうして、今のような状況になっているのか。父と母の歪んだ思いを、幼かったナーサディアにぶつけられたあの日のことを。何となくの予測だが、それを言うと恐らくティミスはエディルだけではくベアトリーチェも殺しかねない。先程の迫力はそれくらいのものがあった。
そして、エディルが今ナーサディアに向けているのも殺意の籠った眼差し。恐らく『言えばどうなるのか分かっているのだろうな』と牽制しているのだろうが、ナーサディアはほとほと困り果てた。
手の甲にダイヤモンドが現れてから、両親への恐怖心や期待、ありとあらゆる想いがことごとく消え去っていたのだから。
今までならば、愛されたいが故に無意識ながらも母を守るような言動をしていただろう。
だが。
「私は、幼い頃にここに閉じ込められました。…それが大切に思った故の行動ならば…侯爵夫人のお考え、ご意思がどのようなものか…理解いたしかねます」
「お前…!」
あまりに自然に出てきた言葉に誰より驚いたのはナーサディア自身だ。
悲鳴のような母の声、顔色を悪くしたベアトリーチェ、それぞれ見ても何とも思えなかった。あんなに大切な存在だったのに。
「へぇ……あぁ、そうか。夫人も王太子妃も、君たちがこの子を先に捨てたから、宝石が主を守るために君たちに対しての感情を無くしてくれているのか。……あっはは!これは素晴らしいね!また報告書に書ける内容が増えたなぁ!」
無邪気にティミスは笑う。朗らかな笑い声が、今ここでは一人だけ浮いているが、ナーサディアはきょとんと目を丸くするだけだった。
双子の片割れや母が、とても顔色を悪くしている。
先に自分から離れていったのはあの人たちなのに、どうしてだろう。
ベアトリーチェと引き離して徹底的に私を痛めつけたのに、どうしてそんな風に慌てるのだろう。
ベアトリーチェも、如何に自分が大変なのかナーサディアに対してつらつらと語るだけで、何もこちらを助けてくれなかったのに。
今更、自分達が離した手を繋ぎ直そうだなんて、厚かましいにも程があるだろう。『家族なのだから』という、あまりに脆い、まやかしの言葉はいらない。こうして塔に閉じ込められて、外界から基本的に完全に遮断され、今まで育ってきた。
ナーサディアの世話をして、育ててくれたのは塔に通ってくれる数少ない使用人達。そして、勉強を教えてくれたのは王太子妃教育を施してくれた夫人であり、どちらも母ではない。母の愛など、もう覚えていないくらい幼い時にしか、もらったことはない。
「ナーサディア、そんな馬鹿げたことは言わないで。ねっ?そんなことを言って、お母様を困らせてはいけないわ」
「そうよ、わたくしの可愛いナーサディア!わたくしは、貴女の為を思って…」
「侯爵夫人のおっしゃる『私のため』とは、何ですか?」
「その呼び方をやめなさい!優しく接していれば調子に…」
「お母様…?」
怒りに任せてボロを出すところだったエディルは、慌てて口を噤んだ。
「…っ、ともかく、いい加減にしなさいナーサディア!母の言うことが聞けませんか?!」
少し、ナーサディアは考えてみた。
そもそも、『母』とはなんだろう。
あの人は、ベアトリーチェにとっては大変素晴らしい母なのだと思う。子のことを心から慈しみ、大切にし、愛しているから。でも、ナーサディアに対して向けられていたのは憎しみだけ。それも顔の痣があるから、という理由だけ。
「聞ける、聞けないではなく、貴女が何をされようと…どうでも良いのです…」
「え…?」
心底困惑したような顔を見て、じわじわと実感できてしまう。
ナーサディアが、エディルとベアトリーチェに興味もなく、いくら叱ろうとも響いてすらいないことを。
「…今まで何の関心も持たなかったのに、今になってそうやって母親としての言葉をかけてくるのは…意味が分からない…」
今までのナーサディアなら震え上がりながら言っていたかもしれない言葉も、彼女が反抗的な目を向けようとしようと勇気を振り絞る時も、あまりにあっさり告げられてしまった。
がくり、とその場に膝を折ったエディルにベアトリーチェが慌てて寄り添うが、もうナーサディアはそちらを見てすらいなかった。
「ティミス様、私で良ければ連れていってください。…お役に、立てますか?」
「勿論!役に立てるとか、そんなのどうでもいい!僕は君が良いんだ、ナーサディア」
ティミスの手に自分の手をそっと乗せたナーサディアは、永らく浮かべたことのなかった笑みを、ぎこちなく浮かべてみせた。痛ましそうにそれを見て、優しく彼女の頭を撫でてから、ティミスは意識を集中させ、己の護衛兼側近に念話を送る。
『宝石姫の場所に僕はいる。魔力反応を追ってお前も来い。良いか、我が国の近衛兵も忘れずに連れてこい』
かしこまりした、とただ短く返ってきた答えに満足そうに微笑み、ティミスはナーサディアを庇うように背に隠す。
「さて、君たちはもう良いよ。これからナーサディアを連れて帰る手続きに入るから」
「そんな…!」
「隠していた令嬢がいて、しかも貴族名鑑にすら載っていなかったことの追求から、色々される覚悟はしておくんだね。……夫人」
泣き叫ぶ母と、母に縋り付くベアトリーチェを見ても、やはりナーサディアは何も思わなかったが、少しだけ別の心は芽生えてきていた。
「(こころ、なくなったのかな。でも…ティミス殿下の隣は……………温かいな)」